第4話 黒水路に入る者は、帰り道を数える
黒水路に入る準備は、戦支度に似ていた。
剣は要らない。
槍も要らない。
騎士の鎧も、王宮の儀仗も、貴族の紋章入り外套も役に立たない。
必要なのは、もっと地味で、もっと命に直結するものだった。
ランタン。
油。
予備の芯。
火打石。
縄。
石灰。
防水布。
簡易呼吸布。
長靴。
杖。
白墨。
それから、帰る意思。
水務局の裏庭に、それらが並べられていた。
クラウディア・フォン・カルンシュタインは、並べられた道具を一つずつ確認していた。
「ランタンは?」
「四つです」
若い職員が答える。
「五つにしてください」
「五つ、ですか」
「先頭に一つ。中ほどに一つ。最後尾に一つ。予備に一つ。水没時の予備に一つ」
「水没しないように運びます」
「水没しないと思う者から、地下では灯りを失います」
職員は黙った。
クラウディアは次の箱を開ける。
「予備芯は?」
「こちらに」
「防水布で包んでください」
「はい」
「火打石は?」
「二組」
「三組に」
「三組も?」
「火を起こせない灯りは、金の装飾と同じです。見栄えはよくても役に立ちません」
オットー・ヴェルナー局長が、横で軽く咳払いした。
「お嬢様、灯りの確認は三度目です」
「四度目です」
「……数えておいでで」
「ええ。数えなければ、足りない時に気づけません」
「足りなくなると?」
「見えなくなります」
「それは、誰でも困ります」
クラウディアは、ランタンの風防を指で確かめた。
「私は、困るだけでは済みません」
ヴェルナー局長は、それ以上何も言わなかった。
彼は現場の人間である。
恐怖と準備の違いを知っている。
恐怖は人を止める。
だが、正しく扱えば、恐怖は手順になる。
その手順で生き残る者を、彼は何人も見てきたのだろう。
クラウディアは五つ目の小型灯を腰に結んだ。
それは貴族令嬢の装身具としては、あまりに無骨だった。
けれど、宝石よりずっと心強かった。
少なくとも地下では。
「クラウディア様」
背後から声がした。
振り返ると、聖女ベアタが立っていた。
白い聖女服ではなかった。
灰色の作業外套。
膝下までの長靴。
髪は布でまとめ、袖は邪魔にならないよう絞っている。
昨夜まで王太子の隣に立っていた聖女とは、まるで別人だった。
ただ、胸元には小さな聖印が残っていた。
彼女が自分の役割まで脱ぎ捨てたわけではない証だった。
「そのお姿なら、歩けますね」
クラウディアが言うと、ベアタは少しだけ笑った。
「白い服はやめるよう、局長に言われました」
「正しい判断です」
「はい。白は、黒水路では迷惑になるそうです」
「ええ。汚れが目立ちすぎます」
ベアタはクラウディアの手元を見た。
ランタン。
油壺。
予備芯。
防水布。
火打石。
その確認の細かさに、彼女は何かを察したらしい。
「クラウディア様」
「何でしょう」
「暗い場所が、お嫌いなのですか」
クラウディアの手が、わずかに止まった。
ヴェルナー局長は何も言わない。
若い職員たちは気づかないふりをした。
クラウディアは少し間を置いて答えた。
「好きな人はいないでしょう」
「嫌い、ではなく……怖いのではありませんか」
朝の水務局裏庭に、静けさが落ちた。
クラウディアは、目の前のランタンを見た。
磨かれた金属。
厚い硝子。
灯されれば、数歩先まで世界を切り取る道具。
それがなければ、地下ではすべてが失われる。
地図も。
水位も。
石材の積み方も。
水の色も。
出口の方角も。
クラウディアの力は、見ることから始まる。
だから、完全な暗闇は苦手だった。
苦手、などという優しい言葉では足りない。
怖い。
彼女は暗闇が怖い。
「ええ」
クラウディアは言った。
「怖いです」
ベアタの瞳が揺れた。
「では、どうして地下へ」
「水がそこから来るからです」
短い答えだった。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
ベアタはしばらくクラウディアを見ていた。
それから、胸元の聖印に手を当てる。
「私は、井戸を癒やせません」
「知っています」
「水路も読めません」
「ええ」
「けれど」
ベアタは、小さく息を吸った。
「あなたが読むための灯りにはなれます」
そう言って、彼女は掌を開いた。
祈りの言葉は短かった。
「光よ」
淡い白い光が、彼女の掌の上に灯った。
太陽のような光ではない。
松明のような力強さもない。
手のひらほどの、やわらかな灯火。
それは闇を追い払う光ではなかった。
闇の中で、人が互いの顔を見失わないための光だった。
クラウディアは、その光を見つめた。
胸の奥に、ほんの少しだけ空気が入る。
「維持できますか」
「長時間は難しいです。癒やしの奇跡ほど力は使いませんが、黒水路のような場所では揺らぐと思います」
「十分です」
「十分、でよいのですか?」
「いいえ」
クラウディアは小型灯を腰に結び直した。
「ですが、足りない分を補うには十分です」
ベアタは少しだけ笑った。
「クラウディア様らしいお返事です」
「褒め言葉として受け取ります」
「褒め言葉です」
そこへ、荒い咳払いが響いた。
裏庭の門の前に、一人の老人が立っていた。
背は曲がっている。
髪は灰色。
片目に古い傷があり、片手に杖をついている。
服はみすぼらしく、酒の匂いが少しした。
だが、靴だけは違った。
古く、重く、底が厚い。
水路番の靴だった。
「グスタフ」
ヴェルナー局長が言った。
「来てくれたか」
「来いと言われたから来たんだ。酒場の朝寝を邪魔してまでな」
老人は不機嫌そうに言い、クラウディアとベアタを見た。
「で、このお綺麗なお嬢さん方が、黒水路に入りたいって?」
「カルンシュタイン侯爵令嬢と、聖女ベアタ様だ」
「帰った方がいい」
即答だった。
ベアタが瞬きをする。
クラウディアは動じなかった。
「理由を」
「黒水路は、肩書きを覚えない。侯爵令嬢だろうが聖女だろうが、足を滑らせりゃ同じように流す」
「よい性質です」
「褒めてねえよ」
「では、入口を案内してください」
グスタフはしばらくクラウディアを睨んでいた。
やがて、ふんと鼻を鳴らす。
「灯りはいくつだ」
「五つ」
「少ない」
若い職員が小さく目をむいた。
クラウディアは頷いた。
「では七つに」
グスタフの片眉が上がる。
「すぐ足すあたり、少しは見込みがある」
「ありがとうございます」
「褒めてねえ」
「では、助言として受け取ります」
老人は諦めたように息を吐いた。
「黒水路に入る者は、帰り道を数える」
その声に、裏庭の空気が少し変わった。
「曲がった数。降りた段数。水の深さ。灯りの残り。息の乱れ。帰りは、来た道と同じじゃねえ。水が増えりゃ、道は消える。石が落ちりゃ、通路は死ぬ。怖くなりゃ、人間は右と左も忘れる」
グスタフは杖で地面を叩いた。
「だから数えろ。見ろ。触れろ。戻ることを考えて進め。黒水路で勇敢な奴から死ぬ。臆病で、数を数える奴だけが戻る」
クラウディアは深く頷いた。
「よく分かります」
「本当に分かってるなら、帰れ」
「それはできません」
「だろうな」
グスタフは面倒くさそうに背を向けた。
「古市場側から入る。救済院側は水が荒れてる。今朝は風が南から来てる。臭いも悪い。水が動いてる証拠だ」
「臭いで分かるのですか」
ベアタが尋ねた。
グスタフは彼女を見た。
「聖女様。水路では、鼻は目より先に死ぬ。鼻が死ぬ前に、逃げ道を決めるんだ」
「……覚えておきます」
「覚えるな。手で書け。忘れるからな」
ベアタは慌てて帳面を開いた。
クラウディアは、その様子を少しだけ見ていた。
ベアタは変わり始めている。
祈るだけではなく、記録する。
癒やすだけではなく、覚える。
それは、地下へ降りる者として正しい変化だった。
水務局から古市場へ向かう道は、朝の人々で賑わい始めていた。
パン屋の煙。
馬車の音。
商人の怒鳴り声。
石畳を洗う水の音。
王都は、何事もなかったかのように動いている。
しかし、クラウディアの目には違って見えた。
道端の排水溝。
井戸端の桶。
市場の水瓶。
魚屋の流す水。
洗濯女の手。
そのすべてが、地下へ繋がっている。
地上の生活は、地下に頼っている。
その地下を、地上の人間は見ない。
古市場の裏手に、使われなくなった倉庫があった。
扉は半ば朽ちている。
商人ギルドの印がかすかに残っていた。
グスタフはその脇の石壁を杖で叩いた。
こん、こん。
硬い音。
次に少し低い位置を叩く。
ごん。
空洞の音。
「ここだ」
ヴェルナー局長が職員に合図する。
石の一部を外すと、古い鉄環が現れた。
それを二人がかりで引く。
石蓋がずれた。
湿った空気が、下からゆっくりと上がってきた。
ベアタが小さく息を止める。
腐った水の匂い。
古い石の匂い。
油の匂い。
薬草が甘く腐ったような匂い。
そして、何年も陽に当たっていない空気の匂い。
「黒水路へようこそ」
グスタフが言った。
「歓迎はしねえがな」
入口には、細い階段が下へ続いていた。
暗い。
予想していたよりも、ずっと暗い。
ランタンに火が入る。
一つ。
二つ。
三つ。
四つ。
五つ。
六つ。
七つ。
七つの光が揺れ、石の壁を照らした。
それでも闇は消えなかった。
ただ、闇の輪郭がはっきりしただけだった。
クラウディアは息を整える。
暗い場所は怖い。
今も怖い。
だが、怖いからこそ数える。
灯り七つ。
縄三本。
入口に見張り二名。
探索者六名。
クラウディア、ベアタ、ヴェルナー、グスタフ、水務局職員二名。
水位確認棒一本。
白墨二本。
石灰袋三つ。
帰る道は、一つ。
「行きましょう」
クラウディアが言った。
最初にグスタフが降りた。
次にヴェルナー。
クラウディア。
ベアタ。
水務局職員二人が続く。
階段は狭く、湿っていた。
一段降りるごとに、地上の音が遠ざかる。
市場の声。
馬車の車輪。
パン屋の鐘。
それらが石蓋の向こうに閉じ込められていく。
最後に、入口の光が細くなった。
そして消えた。
黒水路の闇が、周囲を包んだ。
ランタンの光がある。
それでも、クラウディアは一瞬だけ喉が詰まった。
世界が狭い。
光の届く範囲だけが世界で、その外側は穴だった。
「クラウディア様」
ベアタの声が近くでした。
「見えますか」
「ええ」
クラウディアは答えた。
「見えます」
それは、ベアタへの返事であり、自分への確認でもあった。
階段を下りきると、細い水路に出た。
足元を黒い水が流れている。
深さはくるぶしほど。
流れは弱い。
しかし、確かに動いていた。
壁は古い石組み。
現在水路より粗い。
角の削り方が違う。
クラウディアは壁に手を当てた。
「第三王朝期以前ですね」
ヴェルナーが頷く。
「石の積み方が古い」
グスタフが鼻で笑った。
「お嬢さん、本当に見るんだな」
「見なければ進めません」
「黒水路じゃ、見えるものだけ信じると死ぬぞ」
「では、見えないものも数えます」
「いい返事だ」
グスタフは初めて、少しだけ笑った。
彼らはゆっくり進んだ。
グスタフが先頭で足場を確かめる。
ヴェルナーが水位を測る。
クラウディアが壁と流れを見る。
ベアタが帳面に記録する。
職員たちは白墨で壁に印をつける。
一つ目の曲がり角。
右。
壁に白墨。
水位、足首。
二つ目の曲がり角。
左。
臭気、薬草混じり。
三つ目。
直進。
水音、増加。
クラウディアは頭の中で地図を描いていた。
旧図と現実を重ねる。
だが、すでに小さなズレがある。
「ここに分岐があるはずです」
彼女は旧図を見た。
「だが、ない」
グスタフが壁を叩く。
ごん。
空洞の音が返った。
「塞がれてる。たぶん商人どもだな」
「商人ギルドが?」
「昔、ここを抜け道にしてた連中がいた。余計な目が入らねえよう、横道を石で潰したんだろうよ」
「なぜ水務局に届けなかったのです」
ベアタが尋ねた。
グスタフは呆れたように彼女を見る。
「聖女様。悪いことをする奴は、悪いことをしますって役所に届けねえ」
「……そうですね」
ベアタは素直に帳面へ書いた。
クラウディアは塞がれた壁を見た。
石の色が違う。
古い壁に、新しい石。
目地に油染み。
水の流れがそこだけ乱れている。
「この奥に水が回っています」
「分かるのか」
「壁の下が濡れています。完全には塞げていない」
ヴェルナーが身を屈めた。
「確かに」
「この水が南第五井戸へ戻った可能性があります」
「開けますか」
「今は開けません。帰路が一つ減ります」
グスタフが満足そうに頷いた。
「帰り道を数えてるな」
「ええ」
進むほど、天井が低くなった。
ベアタの光がときおり揺れる。
聖女の灯火は、ランタンとは違った。
燃える音がない。
油の匂いもない。
ただ、白く、静かに浮いている。
その光があると、クラウディアは水面の微かな揺れを読みやすかった。
石材の色も、ランタンだけより分かる。
だが同時に、遠くの闇はより深く見えた。
光があるからこそ、光の届かない場所が分かる。
クラウディアは、無意識に小型灯へ手を触れた。
「怖いですか」
ベアタが小声で尋ねた。
「はい」
「私もです」
「それは正常です」
「聖女でも?」
「聖女でも」
ベアタは少しだけ笑った。
「安心しました」
「怖がらない方が危険です」
「グスタフ様も同じことを言いそうです」
「俺はもっと口が悪い」
先頭から老人の声が返った。
職員の一人が小さく吹き出しかけ、すぐに黙った。
地下では、笑い声すら慎重になる。
その時だった。
足元の水が、ほんの少しだけ冷たくなった。
クラウディアは止まった。
「待ってください」
全員が止まる。
水音。
左から。
いや、後ろから。
違う。
上からか。
黒水路では、音が壁を回って戻ってくる。
方角を信用してはいけない。
クラウディアは壁の水位跡を見る。
現在の水面。
古い水位線。
そして、つい先ほど白墨でつけた印。
水面が、白墨の下端に触れていた。
「水位が上がっています」
ヴェルナーが水位棒を入れる。
「入った時より、指二本分上昇」
「速いな」
グスタフが舌打ちした。
「南から流れが来てる」
「南第五井戸側ですか」
「もしくは救済院側だ。塞いだ板を外したせいで、古い水が動き出したのかもしれねえ」
クラウディアは考えた。
帰るべきか。
まだ進めるか。
目的地は、水鐘の確認。
だが、帰路を失えば意味がない。
黒水路では、知識欲は命より軽い。
「あと一つ曲がります」
クラウディアは言った。
「そこで水鐘の音源が確認できなければ戻ります」
「よし」
グスタフが即座に頷いた。
「欲張らねえのはいい」
「欲張りたい気持ちはあります」
「気持ちだけにしとけ」
一行はさらに進んだ。
四つ目の曲がり角。
右。
そこから先は、空気が変わった。
臭いが濃い。
腐卵臭。
薬草の甘い腐敗臭。
そして、石灰の匂い。
クラウディアは呼吸布を口元に押し当てた。
ベアタの顔が強張る。
「この匂い……」
「救済院ですか」
「はい。でも、もっと古い」
「薬草廃棄だけではありませんね」
ヴェルナーが灯りを掲げた。
壁が白く染まっている。
自然の石の色ではない。
石灰だ。
古く、何度も塗られた跡。
クラウディアは指で壁をこすった。
白い粉が手袋につく。
「消毒跡」
ベアタが呟いた。
「ここで、何かを清めたのですね」
「清めた、というより」
クラウディアは言葉を選んだ。
「消そうとしたのでしょう」
ベアタは何も言わなかった。
白い石灰の壁は、聖堂の壁にも似ていた。
だが、ここに祈りの絵はない。
あるのは、水位跡と、古い爪痕のような傷だけだった。
「鐘だ」
グスタフが低く言った。
全員が耳を澄ます。
最初は水音に紛れていた。
やがて、奥から低い音が届く。
こおん。
湿った金属音。
黒水路の奥で、水が鐘を鳴らしている。
ベアタの光が揺れた。
クラウディアは手を握りしめる。
恐怖か。
興奮か。
その両方だった。
「音源は近いですか」
「近いように聞こえる時ほど遠い」
グスタフは言った。
「黒水路の音は嘘をつく」
「水は嘘をつきません」
「水はな。音は反響する」
「覚えておきます」
進むと、通路が急に広がった。
天井が高い。
左右に古い横穴。
中央には黒い水が溜まっている。
ただの通路ではない。
小さな水溜まり場だ。
おそらく、流れを一時的に受ける調整槽。
旧王都暗渠の一部。
グスタフが杖を水へ入れる。
「深い。端を行くぞ。真ん中は駄目だ」
クラウディアは壁を見た。
古い刻印がある。
王家の紋章ではない。
水車のような円。
その下に、波の線。
「局長」
「はい」
「この印は?」
ヴェルナーが近づく。
ランタンを掲げた瞬間、足元の石が崩れた。
「局長!」
水務局職員が叫ぶ。
ヴェルナーの身体が傾く。
グスタフが咄嗟に腕を掴む。
だが、その衝撃で先頭のランタンが壁に当たった。
硝子が割れる。
火が水に落ちる。
じゅっ、という音。
ランタンが一つ消えた。
闇が、通路の奥から押し寄せてきた。
クラウディアの呼吸が止まった。
たった一つ。
七つあった灯りのうち、一つが消えただけ。
まだ六つある。
理屈では分かる。
でも、闇は数を待たない。
一つ消えた瞬間、闇は隙間から入り込んでくる。
喉が細くなる。
手が冷える。
頭の中で、七歳の春の記憶が開いた。
噴水の詰まりを見つけた日。
排水溝の石蓋。
足を滑らせた一瞬。
光がふっと消えた。
世界が消えた。
音だけが大きくなった。
水音。
自分の呼吸。
遠くの父の声。
あれは、ほんの数呼吸だった。
けれど幼いクラウディアには、世界から見捨てられた時間だった。
見えない。
その言葉が、頭の中を白く塗りつぶす。
「クラウディア様」
ベアタの声がした。
次いで、淡い光が強くなる。
聖女の灯火。
それは闇を消すには弱すぎた。
だが、クラウディアの手元を照らすには十分だった。
水位跡。
地図。
壁の刻印。
ヴェルナーの足元。
全部、見える。
「見えますか」
ベアタが言った。
クラウディアは息を吸った。
冷たい地下の空気が、肺に入る。
「……ええ」
声が少し掠れた。
それでも、言葉になった。
「見えます」
「よかった」
「局長は?」
「無事だ」
ヴェルナーが答えた。
グスタフに支えられ、足場へ戻っている。
「足首を少しひねりましたが、歩けます」
「戻ります」
クラウディアは即座に言った。
職員の一人が驚く。
「水鐘は?」
「確認しました。刻印も見ました。ランタンを一つ失い、水位は上昇中。これ以上進む理由はありません」
グスタフが笑った。
「いい判断だ」
その時、背後から音がした。
ごぼり。
水が吸い込まれるような音。
全員が振り返った。
来た道の先で、黒い水が波立っている。
それだけではない。
壁に白墨でつけた印の半分が、水に沈んでいた。
ベアタが息を呑む。
「帰り道が」
「消えかけています」
クラウディアは言った。
声を震わせるな。
数字を見ろ。
水位。
流速。
曲がり角の数。
灯りの残り。
恐怖は後でよい。
今は手順。
「来た時の水位は足首。現在は脛の下。上昇速度は、ここまでで指三本から四本分。戻るには間に合います」
「走るか?」
グスタフが聞く。
「走りません」
クラウディアは答えた。
「足を滑らせます。隊列を短く。先頭グスタフ。次に局長。私、ベアタ様、職員二名。灯りは前後に二つずつ。ベアタ様の光は中央で」
「はい」
ベアタの灯火が揺れる。
だが消えない。
彼女も怖いはずだった。
それでも、光を保っている。
帰路が始まった。
来た道と同じではない。
水位が上がっただけで、黒水路は別の場所になる。
足元の石が見えにくい。
流れが強い。
水が長靴を叩く。
曲がり角。
一つ目。
左。
白墨の印は水のすぐ上。
二つ目。
直進。
臭いが濃くなる。
三つ目。
右。
そこに来て、先頭のグスタフが止まった。
「まずい」
その一言で、全員が凍る。
「何が」
クラウディアが聞く。
「塞がれてた横道。水が抜けてる」
見ると、先ほど商人ギルドが塞いだと思われる壁の下から、水が勢いよく吹き出していた。
来た時は滲んでいる程度だった。
今は違う。
石の隙間から黒い水が噴き、通路へ流れ込んでいる。
このままでは、帰路の水位が急に上がる。
「石灰袋を」
クラウディアが言った。
「塞ぐのですか?」
職員が叫ぶ。
「完全には無理です。流速を殺します。袋を二つ、壁の下へ。残り一つは足場確保に」
「はい!」
職員たちが動く。
水が跳ねる。
ベアタの光が揺れる。
クラウディアは壁を見る。
石の目地。
隙間。
水の出方。
「右下から押さえてください。左は逃がしていい。完全に塞ぐと圧が上がります」
グスタフがにやりとした。
「分かってるじゃねえか」
「褒めていますか」
「今のは褒めてる」
「光栄です」
石灰袋が押し込まれた。
水の勢いが少し弱まる。
「今です。進みます」
一行は再び歩き出した。
水はもう脛の半ばまで来ている。
ベアタが少しふらついた。
クラウディアが腕を掴む。
「大丈夫ですか」
「はい。光は、まだ」
「無理はしないでください」
「無理ではありません」
ベアタは息を整えた。
「必要です」
その言葉に、クラウディアは一瞬だけ彼女を見た。
聖女の顔は青ざめている。
額には汗。
唇も震えている。
けれど、掌の灯火は消えていなかった。
彼女もまた、恐怖を手順に変えようとしている。
癒やすためではなく。
照らすために。
最後の曲がり角が見えた。
入口への階段。
上から、かすかな地上の光が落ちている。
それを見た瞬間、クラウディアの胸が痛いほど鳴った。
地上。
空気。
音。
出口。
だが、その手前で水が深くなっていた。
くるぶしだった水が、すでに膝近くまである。
階段の下三段が沈んでいる。
「急げ」
グスタフが言った。
「だが、走るな」
最初にグスタフ。
次にヴェルナー。
クラウディアがベアタを支えながら進む。
水が冷たい。
重い。
長靴の中にまで入り込みそうになる。
水はただ流れるだけではない。
足を掴む。
引く。
迷わせる。
階段の一段目。
二段目。
三段目。
水から足が抜ける。
その時、背後で職員の一人が声を上げた。
「ランタンが!」
最後尾のランタンが水に触れかけていた。
職員が持ち上げようとして、足を滑らせる。
ベアタが振り返った。
クラウディアも振り返る。
いけない。
振り返るな。
戻れば、全員が止まる。
でも見えてしまった。
若い職員の顔。
恐怖。
水に引かれる足。
その瞬間、ベアタの灯火が強くなった。
白い光が職員の足元を照らす。
グスタフが縄を投げた。
「掴め!」
職員が縄を掴む。
ヴェルナーが引く。
クラウディアも手を伸ばす。
全員で引いた。
水が跳ねる。
ランタンが揺れる。
火は消えなかった。
職員は階段に倒れ込んだ。
息を荒げている。
「立てますか」
クラウディアが聞く。
「は、はい」
「なら立って。ここで座ると、恐怖が足に溜まります」
「はい!」
一行は階段を上った。
石蓋の向こうから、朝の光が差し込む。
地上の空気が近づく。
一歩。
また一歩。
そして、最後にクラウディアが地上へ出た。
古市場裏の空気は、汚れていた。
馬糞の匂いもした。
魚の臭いもした。
人々の声も騒がしい。
それでも、そこには空があった。
クラウディアは、しばらく何も言わなかった。
膝が少し震えている。
自分でも分かった。
暗闇が怖かった。
水も怖かった。
帰れないかもしれないと思った。
それでも、戻ってきた。
戻ってこられた。
「クラウディア様」
ベアタがそっと声をかける。
「見えますか」
クラウディアは空を見上げた。
青みがかった朝の空。
屋根の端。
倉庫の古い壁。
ベアタの疲れた顔。
ヴェルナーの泥だらけの袖。
グスタフの不機嫌そうな片目。
全部見える。
「ええ」
クラウディアは答えた。
「よく見えます」
ベアタは、ほっとしたように光を消した。
その瞬間、彼女の身体が少し傾ぐ。
クラウディアが支えた。
「無理をしましたね」
「少しだけ」
「少しではありません」
「でも、必要でした」
クラウディアは何も言えなかった。
それは、先ほど自分が使った理屈と同じだった。
怖い。
でも必要。
だから行く。
だから照らす。
ヴェルナー局長が、濡れた地図を広げた。
「得たものは多いです」
「ええ」
クラウディアは呼吸を整え、先ほど見た刻印を思い出す。
円。
水車。
波。
そして石灰の壁。
「水鐘は実在します」
「はい」
「黒水路は封鎖されていません。少なくとも水は通っています」
「はい」
「商人ギルドが塞いだ横道があります」
「はい」
「そして」
クラウディアは、指先で濡れた地図の空白を押さえた。
「黒水路の奥には、旧王都の水位調整機構があります」
グスタフが眉をひそめる。
「なぜ分かる」
「壁に刻印がありました。水車と波の印です。あれは単なる職人印ではありません。水を溜め、測り、逃がす場所に刻む印です」
「初代王朝のものか」
「おそらく」
ベアタが、疲れた声で言った。
「聖歌にも、水車に似た言葉がありました」
「どのような?」
「水は輪を巡り、鐘は深みに鳴る。白き門、沈む街を守れ」
クラウディアは目を伏せた。
白き門。
沈む街。
水の輪。
黒水路はただの排水路ではない。
王都の地下には、巨大な水利機構が眠っている。
そして、その一部が今も動いている。
忘れられたまま。
壊れかけたまま。
王都の命を、かろうじて支えながら。
その時、古市場の鐘が鳴った。
地上の鐘。
朝市の始まりを告げる明るい音。
だがクラウディアの耳には、黒水路の奥で聞いた湿った鐘の音が重なっていた。
こおん。
こおん。
地下の鐘は、まだ鳴っている。
「局長」
「はい」
「水務局へ戻ります。今日中に、古市場周辺の商人ギルド倉庫を洗い出してください。薬草の納入帳簿も必要です」
「承知しました」
「グスタフ様」
「あ?」
「また案内をお願いすることになります」
「断る」
「報酬は出します」
「金の問題じゃねえ」
「では、酒場の未払い分を水務局が立て替えます」
グスタフが黙った。
ヴェルナー局長が渋い顔をする。
「お嬢様、それは公費では」
「私費です」
「なら問題ねえな」
グスタフが即答した。
ベアタが小さく笑った。
ほんの少しだけ、空気が緩む。
だが、クラウディアはすぐに表情を戻した。
「ベアタ様」
「はい」
「聖歌の全文を思い出してください。特に、白き門、鐘、水の輪、沈む街に関する部分を」
「分かりました」
「それから、休んでください」
「え?」
「灯火の維持で消耗しています。この後、患者を癒やすなら、休息が必要です」
「でも」
「必要です」
クラウディアは言い切った。
「人を救う仕事は、倒れるまで働くことではありません。倒れない手順を作ることです」
ベアタは一瞬、何か言い返そうとした。
だが、やがて素直に頷いた。
「分かりました」
その返事を聞いて、クラウディアは小さく頷く。
それから、もう一度黒水路の入口を見た。
石蓋はまだ開いている。
その奥から、湿った空気が上がってくる。
暗い。
狭い。
臭い。
怖い。
クラウディアは今も、あの闇が怖かった。
たぶん、これからも怖い。
それでいい。
怖いから、灯りを数える。
怖いから、水位を見る。
怖いから、帰り道を覚える。
怖いから、無謀をしない。
恐怖は敵ではない。
恐怖を無視することが敵なのだ。
彼女は濡れた手袋を外し、新しい手袋へ替えた。
「戻りましょう」
クラウディアは言った。
「黒水路は、まだ私たちに全部を見せる気はないようです」
ヴェルナー局長が頷く。
「ええ。ですが、こちらも諦める気はありません」
グスタフが杖を肩に担ぐ。
「次に入る時は、灯りを十個持ってこい」
「七つでは不足でしたか」
「地下では、十分は不足の一歩手前なんだろう?」
クラウディアは少しだけ笑った。
「ええ。その通りです」
朝の古市場が騒がしくなっていく。
誰も、すぐ近くの石蓋の下に黒水路があることなど気にしていない。
水が流れ、鐘が鳴り、古い機構が息をしていることも知らない。
地上の王都は、今日も平然と美しく生きている。
その下で、死んだはずの水路が目を覚ましつつある。
クラウディアは歩き出した。
婚約破棄された令嬢としてではなく。
王都の底に触れた者として。
そして、暗闇を恐れながらも、次に潜るための灯りをもう数え始めている者として。




