11 温泉街を散歩
課長は、その女性と散歩にでかけた。
何の魅力もない、ひなびさびれた温泉街にすぎないと思っていたが、歩いてみると、それなりの魅力が、あるように思えた。
「どこにでもあるようで、もう、こうした陳腐な温泉というのは、どこにもないのかもしれませんねえ」
いっている自分が、陳腐そのものの誉め方だとは思ったが、女性と歩く、温泉街の小川のほとり、川にかかった小さな橋を渡るあたり、みどりの山を見上げて歩く暑い昼下がり、確かに、それなりの魅力があるように思った。
「昔の湯河原みたいな魅力ですなあ」
課長は自分なりに、温泉の印象を、そうまとめた。
「湯河原?ああ。そうか」
女性は、あまり理解できないという口調で答えた。
「湯けむり殺人事件とか、温泉バスガイド探偵物語とか、火曜サスペンス劇場とか、金曜探偵劇場とか、そういうテレビ番組の舞台になりそうな」
「そうそう、そんな感じですね、この辺は」
女性は笑った。
・・・しかし、人がほとんど歩いていないな。平日だから、当たり前なんだろうけど、やはり、さびれた閑散とした感じ。土産物屋も、一応開店はしてるけど、全然、営業しようという、やる気が感じられないな。
「・・・あの山に、登ってみると、いいんですよ」
女性は、旅館の立ち並ぶ裏手のみどりの山を指さした。
「ながめがとってもいいんです」
「急な山ですね」
緑色の木々の覆われた、急峻な山だった。確かに、頂上からの眺めはいいだろう。
「けど、登るのは、大変そうですね」
「エスカレーターつきなんです。だから、大丈夫」
「エスカレーター?」
しばらく行くと、登山口に、確かに、エスカレーター入り口があった。
「これは。江ノ島みたいだな」
「楽ですよお。それとも、歩いて登りますか?」
「いや、楽なほうがいいな」
しかし、エスカレーターは、山にくりぬいたトンネルの中に作られている。
課長は、またトンネルか、と、少し飽きたと思った。
社宅から逃げ出して乗った電車が入り込んだ、長くはてしない、トンネル。間違えて入った女湯から脱出するときに歩いてきたトンネル。
「行きましょう」
そんな思いを振り払うようにして、課長は率先してエスカレーターに向かった。入り口で二人分の切符を買い、女性の前に立って進んだ。
あっという間に山頂に到着した。
「ほら、眺めがいいでしょう?」
山頂の小さな展望台に立って、女性が、誇らしげにいった。
「うーん」
確かに。眼下に小さな温泉街。その横を通って、山あいを蛇行して流れる小川。囲む緑。何層にも、何層にも、少しずつ色合いを変えたグリーンが、うたうように、見事な色彩を、まるで音楽を奏でるようにして、波うちながら、広がっている。その向こうには、課長が、バスで乗り越えてきた、おだやかな紫色の山々。さらに向こうに青い空と真っ白な入道雲。
「なんか、気持ちいいんですよ。ここ。いつ来ても、あんまり、人もいないし」
「たしかに」
どうってことない、夏休みの宿題に、子供が描いた絵のようなシンプルな景色だが、それが、かえってとてもいいのだ。
「絵村さんのいらっしゃった、農業試験場は、ホテルの裏手ですね」
あそこかな?という風に、女性・・・そうだ、畠山美絵、は指さした。
「そうですな。あそこだ。広いと思ったけど、そうでもないなあ」
「しかし、こんな山奥に試験場があったんですねえ」
「そんなはずはないんだけれど・・・」
「といいますと?」
「私がいた試験場は、確か、もっと、町に近かったはずです。少し歩くと国道にぶつかって。その国道ぞいにの食堂の二階に下宿してたんですよ。食堂の近くには、民家も密集してて。ご近所さんの応接間に集まって、カラオケ大会やったこともあったくらいで」
「じゃあ、ちがうんでしょうか、あの畑・・・」
「ウーン。でもさっき、畑の中にいたでしょう?そこから見た景色には、覚えがある。記憶の風景と、ぴったり一致した。畑の向こうに見える山並みなんか、ぴったりと記憶通りだった・・・」
「じゃあ、やっぱり」
「まあ、ボクの記憶も、あてになるんだかどうだか。何しろ20年以上も前のことだから」
「ふうん。・・・さっき絵村さんがいらっしゃったときだけ、昔の場所に戻ったのかもしれませんねえ」
「え?」
「畑が、あなたをお迎えして、昔の記憶の位置に、飛んでいってくれたのかもしれませんねえ」
「はあ」
変なことをいう人だな、と思って、課長は、畠山美絵を見た。美絵は、遠くを見つめる表情で、考え、それから、景色の一方を指さして、いった。
「あの、ホテルの反対側の小さな山が見えるじゃないですか」
「ああ。黄緑色の。透き通るような感じでキレイに光ってますねえ」
「あれ、まえは、なかったような気がするんですけど」
「まえはなかった?」
「そうなんですよ。半年くらい前に来たときはね」
・・・なかった?半年の間に、隆起した「平成新山」だとでもいうのだろうか?
「そうですか」
「変でしょう?私のいってること。自分でも、そう思うんだけど。ニューグランドの人にも聞いてみたんですけど、全然わからなくって。埒があかないんです」
「・・・」
「それから、あの、今気づいたんですけど、やっぱり、なんか、全体にちがってます。前に来たときも、そう思ったんですけど」
「・・・ちがってる?」
「ええ。景色が、ちがってるんです。あの小さな山のほかにも、全体に、建物や景色の配置や色がね。動いたり交替したみたいな。面白いんですよ。だから、ここ」
美絵は、次第にいきいきした表情で、風景を360度、ぐるぐる体や首を回して眺め続けた。
「なるほど。そこが新鮮?」
「新鮮で、不思議なんです。やっぱり今回も、不思議な発見だわ」
そういう間にも、彼女は風景の中に、いろいろなものを発見しているようだった。そうした彼女の姿を、課長は、少しばかり驚きの目でみつめた。
「あ。ごめんなさい。なんか、変ですね、私」
課長の目に気づき、美絵は姿勢を正した。
「いえ。全然。きっと、来るたびに、新しい発見をしているということです」
「そうかしら?」
「そうですよ」
「ちょっと、頭おかしいんじゃないかしら、あたし?」
「そんなことはないでしょう」
「いえいえ。ちょっとおかしいんじゃないかって思うんです。だってね、いいですか?いっても」
「どうぞ」
「半年前には、あの、ダイズ畑なんか、なかったんですよ」
「ダイズ畑って、さっき、私がいたところ?」
「ええ。じゃあ、そこに何があったかって、ききたいんでしょう?・・・何もなかったんですよ。私の記憶では。小さな山になってたはずなんです」
「・・・はあ。そうですか」
課長の返事をよそに、美絵は、困ったような、苦しいような、申し訳なさそうな顔をした。
「変だなあ、私って。でも、新鮮で、不思議・・・」
そのとき、誰かが怒鳴った。
「おーい、あぶねえぞ!」
課長は、びくり、とした。大声が、繰り返した。
「あぶねえぞ!絵村さん、気をつけい、気をつけろお!」
宮田さんだ!
課長は、自分の耳を疑いながらも、きょろきょろと周囲を見回した。
宮田さん!どこだ?あぶない?なにが?なにがあぶないんだ?
声は、今やってきた、エスカレーターのトンネルの方からしているようだった。
「失礼!聞き覚えのある声なんです。ちょっと、見てきます」
課長はいって、怪訝な表情になった美絵を残して、エスカレーターの入り口の方へと駆け出した。
づづく・・・




