10 だいず畑でつかまえて
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真昼の青空が裂けて、裂け目から、向こうに宇宙の空が見えている。無数の星がまたたいている。こんな光景は、見たこともない。
白昼夢。そうにちがいない。課長は気をうしないそうになった。その課長に、背後から声がかかる。
「ちょっと。もしもし?」
振り向くと、見たことのない人物が数メートル後ろの、課長が今出てきたホテルの扉の前に立って、手を振っていた。黒い半そでブラウスに、黒いジーンズ姿のすらりと背の高い若い女性だった。
課長は、焦った。焦って、どぎまぎした。
・・・ここは、女湯の続きだったのか。女湯併設の、ダイズ畑?・・・だったのか?
課長の焦りにおかまいなく、女性は課長に近づいた。
「いくら暑いからって、その格好は、大胆すぎませんか?」
顔がはっきり見えた。美人だった。女性は笑いを押し殺して、いった。
「いえ、その・・」
裸体にバスタオルを腰に巻いただけの姿の課長は、なんと答えたものか見当もつかなかった。
「この宿にお泊りの方ですか?」
「・・はい」
課長は、やっとの思いで、そう返事した。美しい女性はいった。
「私も、ここに泊まってます」
「そ、そうですか」
「何なさってるんですか」
「なんというか、その、ここのダイズを観察してて。あっ、それで、あのすごい空を見て、驚いてたんです」
課長は、青空の亀裂のほうに向き直って、指差した。
「あの、宇宙・・・。あれ?」
ない。あの、空の大亀裂は、もう見えなかった。
「すごく気持ちいい、大きな、青い空ですね」
女性はうなずいた。
「いえ、その。あれ?見えなくなった」
「なにか見えていたんですか?」
「ええ。すごいものが、見えてたんです」
「なんですか」
「空が大きく、ひび割れて、その向こうに、宇宙が・・・」
いってしまって、課長は後悔した。そんなもの、あるはずないと、普通は思う。普通なら、課長も、そう思う。
「宇宙が。へえ!」
女性は、課長に調子をあわせるがごとく、いった。
「・・・見えてたんですが。ないな。見えない」
女性は、愉快そうに笑った。無邪気でかわいい笑顔だった。年齢は30前後だと思うが、その笑顔は、まるで子供みたいだった。笑い終えて、いった。
「どこかへいってしまいましたか。残念」
別に、課長を馬鹿にしている風ではなかった。単純に、面白がっていた。
「ただの、幻覚だったのかもしれない・・・」
「真夏の昼の夢ですか」
「しかし、夢にしては、あまりにリアルだった」
「じゃあ、本物だったんじゃないですか?私は、見なかったけど・・・」
女性と話していて、課長は落ち着き、やっとわれに帰っていく感じだった。
「いや。失礼。私、実は、あそこの扉の向こうの、お風呂に入ったんですが、その、昔の友人にそっくりな人を見かけて、その人を追いかけて、あわてて入ったものですから、どうも、間違えてしまったらしくて。男湯と女湯をですね。間違えて。いや、追いかけていたのは男の人だったのですが、どこかで間違えてしまったらしくて。それで、またあわてて風呂場から逃げ出したら、ここへ出て、ここが、あんまり、昔いた農業試験場の畑に似ていたものだから、つい見とれて、そのうちに、空の亀裂が・・・」
しどろもどろになりつつも、どうやら事情を話すことには成功した。
ふうん、お気の毒。
女性は、課長の話を鵜呑みにしてくれた。脱衣場の服も、持ってきてくれるといい、課長から服の特徴をきいて、すぐに脱衣場へ行き、服をもってきてくれた。
なんという親切な女性!
課長は、感じ入った。
・・・昨日から、奇妙なことばかり起こって、精神を踏みつけられたように思ったが、そのツケが、一気にかえってきたような気がした。
ダイズ畑に隠れて、衣服を着て、女性に礼をいった。
「本当に、助かりました」
女性は、面白そうに笑った。
「いいんですよ。ちょうど、退屈してましたから」
「一人旅?」
「はい」
「じゃあお礼に、お昼ごはんでも、いかがです。ご迷惑でなければ。おごらせてください」
課長にしては、かなり大胆な発言が、自然に口からでた。タオル一丁の姿で出会い、狂人の発言としか思えない真昼の宇宙空の話をしても軽く受け止めたこの女性に、課長は近しいものを感じ、女性の側でも、自分に親近感をもってくれたのだと思い込んでいた。
「そんな。いいのかな」
「もちろん。おごらせてください」
「悪いなあ。ちなみに、この宿の近くのお蕎麦屋さんが、とても有名なんです。あたし、とっても行きたいと思ってたんです」
「じゃあ、そこだ!そこ行きましょう!」
二人は歩き出した。
・・・蕎麦屋は、『民芸茶そば屋 ふるどけい』という名の店だった。
ニューグランドホテル入り口の横手に、ひっそりと営業していた。まるでなんの変哲もない、目立たない店だったが、旅の雑誌なんかには取り上げられているというのが彼女の解説だった。
「どちらからお越しです?」
天ざるそばを食べながら、合間に彼女は課長にきいた。
「仙台です」
課長も彼女にあわせてとった天ざるを、もぐもぐやりながら答えた。
「お一人で」
「ええ。今、単身赴任やってるんですが、急に思い立って、昨日の晩に」
「今日はお休みだったんですか」
「休暇とりました」
「急に?」
「ええ。思い立って」
「大胆ですねえ」
女性は、また楽しそうに笑った。
「あなたも、お一人で」
「そうなんです。あたしも、急に休みたくなっちゃって」
食べながら、会話は弾んだ。
食後のお茶を飲みながら、彼女はたずねた。
「ところで、絵村さん」
「は!?」
課長は自分の名前をいわれて、はっとした。どうして、こっちの名前を知ってるんだろう?
「あ。ごめんなさいね。さっき、シャツのネームを見ちゃったものですから。絵村さん、で、よろしいんですよね」
「はい。そうです」
「あたしは、畠山っていいます。名前きいても、しょうがないでしょうけど」
「いいえそんな。畠山さん。いい名前です。畠山みどりさん?」
馬鹿なことをいった。畠山みどりなんでいう芸能人の名前を知ってるわけない。課長だって名前しか知らないのだ。おやじギャグにもなってない前衛ギャグだった。
「みどりじゃなくて、美絵です」
「ますますいい名前!」
「ありがとうございます。で、絵村さん。絵村さん、このホテル、どんなホテルか、ご存知ですか?」
「最北ニューグランドホテル?今日泊まるところですが。実は、全然、知らないです。駅前で客引きに強引に連れてこられたんですが。しかし、客引きの話を分析するとですね、どうも、あまり風紀上よくないこともやってるように思いますねえ」
「そうなんです!そのうちわかると思いますけど。ひょっとして、絵村さんも、それがお目当てかしら?」
彼女は、少し謎めいた笑みを漏らした。
課長は、ぎくりとした。そういわれてみれば、課長に、その手のことにまったく興味がないといったらうそになる。
「まさか、絵村さんが、そんなはずないと思いますけど」
「いやあ、客ひきに強引に連れてこられただけで。でも、ボクも男だから。いまさらカマトトぶる年齢でもないし。でも、ちょっと考えてみると、やっぱ、興味は、あんまり、ないなあ」
そう、「あんまり」興味はない。そうだ、これが正直な答えだった。
「そうですか。そうですよねえ」
彼女は、うんうん、とうなずいた。
「残念ですね。あなたみたいな若い女性のファンもいる温泉宿なのに。そういう、風紀のよくないことやってるとしたら、かえって、まともなお客さんが逃げちゃいますよね」
「そうなんですよ。ここ、とっても、いい温泉なのにね。残念だわ」
「あなた、ここは、初めてじゃないんですね。なんか、そんな感じに見えますけど」
「ええ。ちょくちょく来るんです。いいところなんですよ。ちょっと、散歩してみません?ご案内しましょうか」
彼女は、小首をかしげて小さくいたずらっぽく笑い、課長を誘った。ますます美人にみえてきた。
「ありがとう」
当然のことながら、課長は、二つ返事で、誘いに応じた。
つづく・・・




