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アレンカ・マーショヴァー(自称)

レインラント共和国警察外事2課(自称)

(たまの休日、カフェでくつろぎながら新聞に目を通していたら、気が付くと目の前に職業婦人然とした妙齢の女性が座っていた。反射的に席を立ちそうになったが、深呼吸し、周囲を見回す。いつの間にか、店内には誰もいなくなっていた。カウンターの奥で暇そうにしていた店主すら、いない。

 私は静かに新聞を畳むと、目の前の女性と目を合わせた)


 あら、そんな目で見られるのは、ちょっと心外だわ。

 初めまして。私は共和国警察外事2課の、アレンカ・マーショヴァーよ。アリーって呼んでもらえると嬉しいわね。


(陽気な口調で――しかしその背後に強烈な威圧感を漂わせながら――彼女はそう語ると、バッグからタバコを取り出し、火をつける。緩やかな紫煙が漂った)


 お近づきの印に、あなたも一服、いかが?

 それともタバコはお嫌い?


(私は曖昧に頷くと、彼女が差し出してきた紙巻きを1本受け取り、卓上のアルコールランプで火をつける。間違いなく、一級品の葉だ)


 今日は私、非番でね。せっかくだから、いま帝都で一番人気のジャーナリストさんに会いに来たの。ご迷惑だったかしら?


(ゆっくりと、首を横に振る。警察の外事2課を名乗るこの女性の意図が何なのか、まるで読み切れない。しかも警察を名乗りつつ、「帝都」という今では禁じられた言葉をさらりと持ち出してくるあたり、実に得体が知れない)


 良かった。

 実は私、あなたのファンでね。あなたが寄稿してるツァイト紙は、欠かさず読んでるのよ?

 だからね、そんな熱心なファンの一人として、ちょっと気になってることがあるのよ。文章表現上の疵っていうのかな。ま、私みたいな素人が、プロに物申すなんて、お恥ずかしい限りなんだけどね。


「……疵、ですか?」


(私は慎重に言葉を継ぐ。挑発のようにも思えるが、挑発であるとしても、その意図が見えない)


 ええ。ということはやっぱり、気づいてないのね。

 私、あなたの書いたこのコラムがすごく好きでね。これが掲載された号は、5部くらい買っちゃった。


(そう言いながら、彼女は若干色あせた新聞の切り抜きを、バッグから抜き出した。

 間違いなく、ツァイト紙に私が寄稿した、実に当り障りのない記事だ。レインラント南方の温泉を巡る、ちょっとした紀行文的なもの。記事の評判は良かったが、代表作と言うほどのものでもない。というか私に「代表作」と呼べるようなものは、まだない)


 温泉、素敵よね! 長い休暇が取れたときは、あなたが紹介してくれた温泉宿を使ってるの。どこも素敵だったわ。


(再び、曖昧に頷く。彼女は、何を狙っている?)


 ただねえ、ひとつだけ気になったの。

 あなた、ヴィースゼー村の温泉を褒めて、「空は海より広いと言うが、ヴィースゼーの湯に癒やされた心は空よりも広がるだろう」って書いてるわよね。

 これ、その通りだと思うわ。あそこのお湯、とっても素敵だもの。


 でもね――


(彼女は顔色ひとつ変えず、私を見た。

 その琥珀色の瞳の奥で、何かが揺らめくのを、私は確かに見た)


“海よりも広いものがある。それは空だ。

 空よりも広いものがある。それは人の心だ”


 あなたの記事は、この言葉を踏まえてるのよね?

 まさか「偶然の一致だ」なんて、言わないでよ?


(彼女はいったい何を……

 そこまで思った私は、突如、すべてを理解した。

 自分が犯した小さな、けれど致命的なミス。

 そして、それを見逃さなかった彼女)


 ……気がついたようね。

 あなたが引用した言葉は、ヴージェ皇国のフーゴ卿が作中で登場人物に語らせた、ちょっとした独白。

 でも、フーゴ卿は元レインラント貴族で、ヴージェ皇国に亡命した人間よ? 挙句、レインラント革命にも反対を表明したから、レインラント共和国政府はフーゴ卿を反革命思想の持ち主として国外追放してる。ま、そもそも彼はヴージェ住まいだし、レインラントに戻ってくる可能性はなかったけど。

 ともあれ、帝国の人間にとっても、共和国の人間にとっても、「反逆者」でしかない作家の作品から、引用する。ちょっと大胆よね。大胆すぎるくらいに。


(深呼吸して、何かを言いかけた口を、しっかり閉じた。

 いまの乱れきった精神状態で何かを言えば、何を言っても墓穴になる。

 そんな確信があった。

 だがアレンカは、なおも語り続ける)


 でもそれが、本当の問題じゃあないの。

 あなたが引用した一文は、フーゴ卿が出版を取りやめた作品に書かれていた、言ってみれば未完成原稿にあった一文なのよ。

 最近、ついにフーゴ卿が亡くなられたでしょう? 借金まみれで死んだものだから、遺品が争奪戦になってね。だからこの手の未完成原稿も、大量に世に出はじめたのよ。


(もう、何も言えなかった。

 致命傷だ。あまりにも、傷が深すぎる。

 おそらく彼女は、私のほぼ何もかもを、知っている)


 つまりあなたは――孤児として、乏しい食事を奪い合い、穴の空いた毛布を奪い合いながら、教育などとは到底言えない最低限の教育を受けてきたあなたは――なぜか、フーゴ卿があの世にまで持っていく予定だった作品の一節を知ってるのよ。それも、卿が死んで未完成原稿が世に出る、その前にね。


(私は目を閉じ、紫煙を深々と吸い込んだ。

 死刑囚の吸う最期のタバコは、こんな味がするのだろう。

 だがアレンカが放った次の一言は、完全に私の予想の外側にあった)


 あら、ごめんなさい。怖がらせちゃったかしら?

 あのね、勘違いしないでほしいんだけど、私はあなたのファンなの。

 こんな一文に気がつくくらいに、あなたの書く文書が好きなの。

 それに外事2課の担当は、ファールン王国だし。あなたにちょっかいを出したら、3課の人たちに睨まれちゃうわ?


(いよいよ、彼女の狙いが分からない。

 ファンという言葉を額面通りに受け取ることは、絶対にあり得ない。

 彼女はいったい、何を求めている?

 激しい焦りが、体を内側から焼き尽くそうとしているのを、感じる。


 もう一度、紫煙を深く吸い込む。


 ……そうだ。ここで焦ってはいけない。

 彼女は、私について相当深いところまで、調べをつけている。

 だが私の全部を知っているという保証は、どこにもない。

 そこを踏み誤らなければ、まだ戦える)


 あのね。私はこう見えても、元は貴族令嬢だったの。

 物心ついた頃には素敵な婚約者がいて、その人の奥方になるべく蝶よ花よと育てられて、初めての舞踏会では緊張しながらその人と踊って。そういう毎日が、ずっと続くものだと思ってた。


(彼女は新しいタバコに火をつけると、口の中で軽く煙を吹かした)


 革命戦争が起きて、何もかもが変わった。

 農奴たちの反乱鎮圧に向かった私の婚約者は、リーニェで死んだ。

 笑っちゃうわね。初陣で、戦死よ? 運がないにも程があるわ。


 でも、あの人を殺した農奴どもを全員吊るすまで続くものと思っていた戦争は、気がつけば、農奴どもと手を組んで戦う戦争に変わっていた。

 そして、殺しても死にそうにもなかった、でもとっても優しかったお父様は、アルツェイの戦いで死んだ。

 父はね、エルシュペー伯の率いる黒騎兵隊の、切り込み隊長だったのよ。北でファールン国軍相手に戦って怪我してたのに、構わず一番槍で突っ込んだらしいわ。


 父が死んだことを知った母は、その夜のうちに、亡くなった。

 自殺が疑われたけど、違ったわ。母はびっくりするくらい細い人で、よくあの父を捕まえられたなってくらい、体が弱かったの。

 みんな、母の嘆きを見かねた父が、一緒に連れて行ったんだって、言ってたわ。


 戦争が終わって、フィッツ伯が私にいくつも縁談を持ってきてくださったけれど、私は全部断った。私が愛したもの、その何もかもが失われたこの国で、あたかも何も変わっていないかのように生きるなんて、私には無理よ。「こんな自分でも愛されているという実感を失った人生に、いかなる幸福がありえようか?」ってね。


(彼女は、フーゴ卿作品の名セリフを、さらりと引用する。

 私がその引用に気づいたことは、彼女もすぐに気づいたようだ)


 だから私は、あなたを応援する。

 信じてもらえないだろうし、信じる必要もない。でも私は、あなたの味方よ。

 もちろん、助けてあげられることと、無理なことはあるけど。


(唐突にジャンプした話題に、一瞬、ついていき損ねる。

 ……味方? この人はいったい、何が言いたい?)


 どうも状況が大きく動きそうだから、これだけは先に伝えておきたくてね。

 例の伝書使(クーリエ)みたいに、あなたの危機に突如姿を現して、颯爽と去っていくなんてことは、私には無理。

 どちらかと言えば、「私」という味方がいるってことを念頭に入れながら動いてもらうのが、あなたにとって「私」を使う、一番いい使い方だと思う。だから、自己紹介しておきたかったの。


(戸惑いと、不信感が、どうしても顔からにじみ出そうになる。

 いや、常識的に言って、これで信用しろというほうが、無理だ。

 だが彼女はタバコをもみ消すと、軽やかに立ち上がった)


 今日は、これで失礼するわ。

 とりあえず言えるのは、例の記事からあなたの素性を逆算できた人間は、私の知る限り誰もいないってことね。

 これだけでも、結構いい情報だと思うけど?


(私はおずおずと頷く。朗報なのは間違いないが、警察内部にそれを知っている人物=彼女がいる以上、状況の悪さはそこまで変わらない。

 だがそれと同時に、ここでこのまま「ありがとうございました」では、話にならないという直感もあった。彼女は、明らかに、私に何かを期待している。私が「何者か」であることを、期待している。

 ならば私は、自分に彼女が期待するような「何か」があることを、この場で、今すぐ、証明しなくてはならない。

 さもなくば私は、今夜のうちにも思想警察の行動部隊に捕縛され、ほぼ疑いなく極めて心楽しからぬ状況に陥る。


 だから私は、バッグを肩がけした彼女に、最小限の問いかけをする)


「アレンカさん。あなたは私が何をしでかすと思ってるんです?」


(彼女はふと立ち止まると、はっきりと笑みを浮かべた。

 「及第点ね」とでも言わんばかりの、教師の笑顔)


“生きるということは、戦うということ”よ。

 今のこの国は、戦っているフリをするばかりで、誰も戦ってない。

 生きているフリをしてるだけで、誰も生きてない。


 あなたは、戦ってる。

 ちゃんと、生きてる。


 だから私は、あなたのファンなのよ?


(あいかわらず真意を掴みかねている私を置き去りにして、彼女は店の外に去っていった。

 いつの間にか、テーブルの上には私が支払うべき金額ちょうどが置かれていたので、私は動揺を押し殺しつつもそのお金をカウンターの上に置き、店を出る。


 多くの人が行き交う街路のどこを見ても、アレンカ女史の姿はなかった)


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