デニス・ミコラーシュ
レインラント共和国市民軍大将
(ザートペク軍曹と別れた私は、後を追ってきた謎の追跡者を、店の外で待ち伏せることにした。
案の定、木戸を開けて街路に出てきた謎の追跡者は、すぐに私の姿を認める。
私が彼に手を差し伸べると、彼は苦笑いしながら私の手を取った。私は彼の逞しい二の腕に自分の胸を押し付けるようにして、その体にしなだれかかる)
随分と積極的だね。
君にそういう趣味があるとは知らなかった。
「周囲を御覧ください、閣下。
この界隈では、女性はこのようにして歩くほうが、目立ちません」
だと思った。
とりあえず、河岸を変えよう。
(私は艶やかに頷き、彼の足取りに合わせて雑踏の中をしばし歩いた。
街路のあちこちで兵士たちが高歌放吟し、吐瀉物をまき散らし、街娼たちと商談を繰り広げ、ときにはそのまま路地の薄暗がりへと消えていく。
そんな通りを5分も歩くと、別の大通りとの交差点に出た。中央に置かれた広場に立つ巨大な彫像は、先帝陛下の彫像だ。この彫像に代表されるような帝国時代の各種「遺産」の取り扱いについて、共和国政府はこの20年間、果てのない議論を繰り返している。
交差点で、ふと彼はその足を止めた。私も彼に身を寄せたまま、立ち止まる)
このビューラー皇帝像を見るたびに、なんとも複雑な気持ちになる。
我々は何のために革命戦争を戦ったのか、とね。
だが、たとえあの彫像を引き倒し、新たな像を――例えば我らが大統領閣下の彫像を建てたとしても、市民にとってこの広場は、当分の間、「皇帝広場」であり続けるだろう。
そして、うっかり人前でこの広場を「皇帝広場」と呼んでしまった同志市民を、治安警察がしょっぴいていく。
それは果たして、市民にとって幸福なことだろうか?
それが幸福を意味しないとすれば、ここに新たに建てた像は、やがて別の像に取って代わられるのではないだろうか?
――さて、こっちだ。あそこの馬車を捕まえよう。
(彼は交差点広場に溜まっていた乗合馬車の御者に声をかけ、その手に結構な金額を握らせた。
御者は喜んで、私たちだけを乗せた段階で、馬車を走らせ始めた。
もう商売女の演技をする必要もないので、私は彼が勧めてくれた席に、なるべくお淑やかに着席する)
しかしまあ、君は実に、プロフェッショナルだな。
君に比べると、私なんぞ素人丸出しだ。
いやはや、あの滑らかな喋り口といい、顔色一つ変えずに巧妙な嘘八百を並べる度胸といい、君の正体はヴージェ皇国のスパイだという説を信じたくなる。
いや、結構。私としては、君が何者で、何を狙って行動しているのかには、たいして興味がない。
ただ、できればヴージェやファールンのスパイでなければ良いなと、真剣に思っているところだ。そういう立場でなく、かつ今の仕事にケリがついたら、君を共和国市民軍にスカウトしたいからね。
(冗談とも本気ともつかない提案に、さすがに私も一瞬絶句する)
それほど意外だったかね? 私にしてみれば、そのことが今夜最高のサプライズだよ。
今の君を見ていると、戦時中の伝書使を思い出す。
現に今だって、ザートペク君にメッセージを託されたじゃないか。
そして君はそれを、期せずして、私に届けることに成功している。
現状の共和国市民軍において、一介の軍曹の忌憚なき意見が、大将である私の元にまで届けられるというのは、あり得ないことだよ。
伝書使たちが常識では不可能な伝令をいくつも成し遂げたように、君もまた常識ではあり得ない情報伝達を成し遂げている。
その自覚が、なかったかな?
(私は静かに、だが決然と、首を横に振る)
「私はまだまだ、伝書使たちには及びません。
そして将来的に考えても、私が届き得るのは、彼らの実力の半分程度です」
(彼はクスリと笑うと、窓の外に目をやった)
そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
だが、覚えておきたまえ。
どんなに抗ったところで、時代は先へ、先へと進んでいく。
その絶対の流れにあって、昨日と同じであり続けられるものは、ない。
だからこそ、もし君が本当に大事だと思うものがあるなら、それを守るために何を捨て、何を変え、何に適応すべきかを、常に考え続けねばならない。
でなければ、実際には大した価値をもたぬもののために命がけで戦ったり、手放してしまってからその価値に気づいて悔恨の涙にくれたりすることになる。
君にとって、伝書使という存在は、とてつもなく大きな意味を持つと推測する。でなければ、今の君の言葉は、出てこない。
だがそのことが君の判断を曇らせてはいないか、ということは、よくよく吟味する必要がある。なぜなら今の君が歩いている道は、その吟味を怠ったまま歩き続けられるほど、広くもなければ、安全でもないからだ。
――というのが、年長者からのお説教だ。
着いたようだな。お手をどうぞ、フロイライン。
(彼にエスコートされて、私は馬車を降りた。
俗にいう劇場通り――高級なレストランが軒を連ねる、元貴族御用達のエリアだ。
彼は慣れた様子で、瀟洒な作りの、見るからに一見さんお断りな店のドアをノックした。姿を見せたボーイは、最敬礼で私たちを店内に迎え入れる。普通、こういう店で席を確保するには、予約が必要だと思うのだが……。
店内に入ると、すぐに支配人が現れ、私たちは奥まった個室へと案内された。
部屋の調度品は実に豪華だが、決して嫌味さはなく、何もかもがとても上品にまとめられていた。こういうセンスは、レインラントならではだ。
ボーイたちに案内されるがままに席につき、彼は軽食とワインを注文する。
給仕たちがいったんいなくなったところで、彼は煩わしげに、被っていたカツラを脱ぎ去った。
たかがカツラひとつだが、ガラリと印象が変わる。これで着ている制服が少尉のものでなければ、道行く人はみな共和国市民軍大将に対する敬礼を捧げるだろう。
――まあ、それはつまり、大変に失礼な話なのだが……)
こうやって変装を解くときが、ひときわ惨めさを感じる瞬間だな。
カツラを被って、尉官の制服を着れば、私を共和国市民軍大将だと認識できる市民は、ほとんどいなくなる。
これがフィッツ伯やエルシュペー伯なら、ボロを着ていようとも、誰もが見間違えないだろうにね。
ああ、大丈夫。ここの店員は、私の素性を知っている。
彼らは口が堅いし、「軍の最高司令官がお忍びで街の様子を視察している」という噂は、多少であれば、出回ってくれたほうがいい。
さて。
君は、私に聞きたいことがあるのだろう? でなければ、あそこで私を待つ必要はなかった。
そして私も、君に一つ、お願いしたいことがある。
ここは一つ、互いにバーターといかないかね? 無論、ここの料金は私が持つという部分は、貸し借り勘定から外すとして、ね。
(ちょうどそのとき、ソムリエがワインを運んできた。
滔々とした説明曰く、レインラント南部で10年前から事業を始めた、新しいワイナリーのものらしい。まだ詰めが甘いところがあるが、そろそろこの店のセラーに入れることを考えている、とか。
なるほど、確かに大将閣下向けの1本だ。私としても、別の仕事のネタになりそうで、興味津々といったところ)
では改めて、乾杯といこう。
(深い真紅の液体を口に含むと、想像よりずっと甘かった。
だが不愉快な甘さではないし、フローラルな香りと相まって、フレッシュな活力を感じる。
つまり、一言でいうと、超高級品だ)
悪くないが……確かに、もう少し完成度は上がりそうだね。
ヴージェの貴族を黙らせるには、最低でもあと20年はかかるか。
君は、どう思う?
「……私は、このクラスのものを論評できる人間ではありません。
確かに私はヴージェ産のワインが好みですが、私が飲めるレベルのヴージェ・ワインでは、これの足元にも及びません」
なるほど。
なら、国賓をもてなす席に置いても、恥はかかずに済みそうだな。
去年、大使として赴任してきたヴージェ皇国軍のバレーヌ中将が、ワイン狂と言うべきレベルのワイン通でね。郊外の土地を買って専用の氷室を作るくらい、こだわりのある人なんだよ。
こっちとしては、氷室とは言うが、どうせ潜伏工作員と連絡を取るためのアジトなんだろうと思っていたんだが、招待されて行ってみたら本当に氷室でね。あの執念には驚いたというか、呆れたというか……。
ともあれ、バレーヌ中将に持たせる土産ができたのは、実に喜ばしい。
ありがとう、良いものを紹介してくれた。
(大将閣下に直接礼を言われたソムリエは、嬉しさに顔を紅潮させながら、しかしそれ以外は落ち着き払った態度で一礼すると、個室から引き上げていった。
続いて支配人が自ら、料理が小奇麗に飾られた皿を持ってきた。オードブルの盛り合わせ的なものかなと思ったが、今日のコース料理から「美味しいところを少しずつ」より集めたものだそうだ。私のために、特別製のデザートも用意されている、とか。ははあ。いやもう、「ははあ」以外に声が出ない。
注文が揃ったところで、支配人もまた一礼し、部屋を出て行った。ここから先は密談をどうぞ、ということだろう)
まずは、君の質問を聞いてしまおうか。
それとも私が先にお願いをしてしまったほうがいいかね?
「では、失礼ながら、先に聞かせて頂きます。
もし閣下のご要望に対し、私の要求が過大になっているならば、そう仰って下さい。
言葉を飾らずに伺いますが、ザートペク軍曹が今夜示したような反応は、共和国市民軍にとって最悪の状況を意味していますね?」
(大将閣下は苦笑すると、皿に乗っていたローストビーフを1切れ、上品に口へと運んだ。それから、ワインを一口)
私も言葉を飾らずに返事するなら、まったくその通りだ。
無論、一人の武人として、ザートペク軍曹の言葉は、非常に嬉しい。
あそこまでの信頼と忠誠を寄せられて、嬉しくない者はいないだろう。
だが――共和国市民軍の最高司令官としては、憂慮すべき状況だ。
そもそも、革命軍の強さの源泉となった「師団」という発想は、いかにして軍を均質化するかという課題に対する、回答だ。
例えばエルシュペー伯の黒騎兵は極めて精悍だが、それはエルシュペー伯が自ら鍛えあげていればこそだし、エルシュペー伯が指揮しなくてはあの強さにはならない。
革命軍は、違う。どの師団に、どういう指揮官が配属されても、一定レベルかつ最低限の機能を果たす。
その汎用性と予見性が革命軍の真の強さであり、それは市民軍においても変わらない……はずだった。
(彼は渋面を作ると、再びワインを口に含んだ)
しかし現状は、ザートペク軍曹の言葉が示す通り、「誰が発した命令か」によって、その師団がどれくらい有効に機能するかが、変化し得る――プラス方向だけでなく、マイナス方向にも、だ。
軍隊が人間の組織である以上、ある程度まで、これはやむを得ないことだ。
ザートペク軍曹が率いる部隊にしても、ザートペク軍曹だからこそついて行くという市民兵もいれば、ザートペク軍曹にはついていけないと思う市民兵もいるだろう。
だが軍隊全体で見たとき、それでは困る。
私が命令しようが、エルシュペー伯が命令しようが、あるいはそれこそクラマー元少将の命令であろうが、手続き上その命令が正当なものであるなら、それは遂行されねばならない。
それが成り立たないなら、ヴージェ皇国やファーレン王国が言うとおり、共和国市民軍は烏合の衆と化すだろう。
「――それだけでは、ありませんよね?
古参兵の忠誠心が共和国ではなく、それぞれの戦友たる指揮官に向いているとしたら、その忠誠心がゆえに、共和国というシステムに対する反乱が発生する危険性すら、あるのでは?」
痛いところを突く。それもまた、大いに危惧するところだ。
君が想定するように、元革命軍兵士による、反共和国革命が起きる可能性は、現状においては否定できない。
例えばだが、共和国政府が、不穏当な発言を繰り返すエルシュペー伯を処罰するとなれば、ザートペク軍曹のような古参兵は黙ってはいないだろう。
私としても、エルシュペー伯を擁護する立場で動くことになる。いま、彼を失うわけにはいかないからな。
一方で、法の支配という大原則を鑑みるに、共和国政府としては、エルシュペー伯が野放しになっているのは、許しがたい状況と言える。
いち市民がエルシュペー伯のような不穏当発言をすれば、最悪で絞首刑だ。
だがエルシュペー伯には、お咎めがない。
同じ市民なのに、法の適用が異なる――これは大統領閣下にとって、決して許せない状況だ。なにせ大統領閣下は、共和国の理念に対する疑義を撤回しなかった恩師にして副大統領を、遠慮も会釈もなく吊るすほどの人物だからね。
もちろん治安警察にしても、同じだろう。エルシュペー伯のような人物をいつまでも放置しておくのは、彼らの沽券に関わる。
結果的に、この部分だけ切り取って見ると、元革命軍兵士による市民軍部隊が、元貴族の地位と名誉を守るために、決起する。そんな可能性が見えてくる。
だがそういった反乱が起きれば、治安警察は大喜びで動き始めるだろう。軍の権力を削ぎ、彼らのプレゼンスを高める最高のチャンスだからね。
かくして、共和国の秩序と理念を守るために、クラマー元少将のような旧貴族が率いる治安警察の実行部隊が、行動を開始する――まったく、三文芝居の喜劇そのものだ。
私が変装して市井の声を聞くようにしているのも、これが理由だ。
書類と練兵を見ているだけでは、こんな状況は見えてこない。
いや、それはそれで、つまり報告書の構造に問題がある、ということでもあるのだが……
(彼は再び渋い顔をすると、今度は生ベーコンを一切れ、フォークで掬いあげた)
こんなところで、君の質問には答えられたかな?
(私は深く頷いてから、居住まいをただす。
こんな益体もない、しかも確度最高の証言の対価は、どれほどのものになるだろうか)
では、私からのお願いをしたい。
君が今晩、ザートペク軍曹に対して行った「調査」。
あれを、共和国市民軍最高司令官として、正式に君に発注したい。
口止め料の1000ターラーと、報酬の1000ターラー、各種経費に加えて、取材1件につき君への報酬として500ターラーを、司令部予算から出す。
経費については、領収書も取れないだろうから、まずは1件につき一律500ターラーとしよう。取材の過程で合計500ターラーを越えて飲み食いするぶんは、さすがに君の財布から出してくれ給え。
報告書の提出は、週に1本がノルマだ。
予算枠の問題もあるから、最大で週に5本とさせてほしい。
実施期間は3ヶ月とし、3ヶ月後に継続するかどうかを相談しよう。
もちろんだが、内容はすべて軍機密に属する。
君以外の人間に手伝わせたいなら、いかなる人物に手伝わせるのか、私が直接会って確認したい。
――どうかね?
(正直、意外すぎる申し出だった。
が、冷静に考えると決して悪くない仕事だし、大将閣下にも利のある話だ。
ただ、引き受けるとなると、1つだけ条件を追加する必要は、ある)
「追加条件が1つだけ。
私は現在、別件を取材中です。その仕事と並行することを、ご許可ください。
また、もうご存知かと思いますが、そちらの取材は、若干の危険を伴った仕事となっております。なので状況によっては、ノルマの未達があり得ます。
それでもよろしければ、喜んでお引き受けします」
(ミコラーシュ大将閣下は、にこやかに微笑むと、右手を差し出してきた。
私はその手を握る。契約成立だ)
引き受けてもらえて、実にありがたい。
なんとも意外な出会いで始まった夜だが、よい収穫があった。
では、仕事の話で胃を痛めるのはこれくらいにして、料理とワインを楽しむとしよう。
(彼はテーブルの上に置かれていたベルを鳴らした。
と、ソムリエと給仕たちが室内に入ってきて、空になったグラスにワインを注ぎ、新しい皿をテーブルに並べていく。
軽食と言うだけあって、実に上品な量だったが、どの料理も素晴らしい完成度だった。最後に出てきたデザートのアップルパイも、文句のつけようがない。
食事を終えた私は、再び大将閣下にエスコートされ、今度は一人で馬車に乗った。
帰路、馬車は再び、皇帝広場の横を通った。
ランプの灯りに照らされた皇帝像を車窓から見た私は、あそこに現大統領の彫像が建つ風景を想像し、それから、まだ見ぬ誰かの彫像がそれに取って代わることを想像した。でもそれはあまり愉快な想像ではなく、幸せな食事の記憶を大切にするためにも、私はそこで考えるのをやめた)




