伝説、伝承、に埋もれた鬼。
九十九令和奇譚 真説・耳嚢シリーズ
第七夜
月刊アトランティス編集部
日本各地に残る伝承伝説に見る朱羅神一族の痕跡。
文責:フリールポライター 荒吐 九十九著
本稿はフリールポライターである筆者が長年追い研究を続けているとある一族とその歴史にまつわる雑多な覚書のようなものである。
特異な歴史をたどってきた一族、御子神一族と出会った私はその成り立ちに興味を持ち、ただの好奇心からインタビューや取材などを行い取材を進めていき、その一族の壮絶な歴史や多種多様な古伝古文書を見せていただくうちに、その魅力に取りつかれ、現在も取材を続けている。
これはその研究と推察の一環である。
本稿にて主に取り上げるのは、御子神家への取材を通じて浮かび上がってきた、もう一つの戦巫女の系譜の存在である。
これは御子神家現当主、御子神 巴氏との対談においてわずかに語られる、かつて御子神一族と戦巫女の系譜から分派したと思われる「朱羅神」一族と、その一族が伝える「朱羅神真眼流」なる武術に関する考察である。
実のところ巴氏からはあまり情報は得られなかった、話して頂けたのは以下の情報でほぼ全部である。
「ある時期戦巫女の中から『こんな小さな神社を守るのではなく、霞の眼を一族の発展栄華と安泰のために使うべきである』との主張をする者たちが現れた。あくまで戦巫女としての本分を忘れるべきではないとする主流派の意見とは対立し、やがてその一派は意見に同調する者たちを率いて御子神から離れていった。
その者たちの中には霞の眼を使える者もいたという。
彼らは権力者に自分たちの圧倒的な武力を手土産に接近したが、権力者にとっては使い捨ての利く便利な戦力でしかなく、やがてわずかな栄華と安泰と引き換えに彼らはただの暗殺者集団に成り下がっていったらしい。」
以上が筆者が最初につかんだ朱羅神一族に関する情報であった、興味を持った筆者は巴氏に詳しい話をお聞かせ願いたいと頼み込んだのだが、巴氏は
「一族の恥みたいなもんじゃ、あまり話しとうはない、それに荒吐さんもあまり朱羅神には関わらんほうがええ、霞の眼でその深淵を覗き込みすぎたあれらは、もはや人ではない...」
と言葉少なげに口を固く閉ざすのみであった。
筆者としても無作法なこの取材に快く応じてくださった巴氏にそれ以上の無理強いをする事もできず、その取材で得られた情報はこれにとどまっていた。
しかし著者の悪癖である好奇心は黙っておらず、以後も御子神に関する研究を続ける傍ら集めた様々な地方の伝承や信仰に関する資料を整理しているうち、ふと気づいたあるアイデアを試してみることにした。
あの女傑として鳴らした巴氏をしてすら禁忌といわしめた朱羅神ならば、それは当時の人々にとっても禁忌であり、忌まわしい事象であったはず。
ならば古伝古書にそれらのそのままの情報が残っておらず、朱羅神一族に関する資料がほぼ現存していない理由も説明がつく。
しかし人間というものは筆者に代表されるように好奇心には勝てないものだ、朱羅神の禁忌を別の形にカムフラージュ、もしくは誤認により記録してあるのではないか?
記録が残っていないのではなく、記録はあるがそれが明確に朱羅神に関する記録としての体裁を取っておらず、別の記録として埋もれているだけなのではないか?
という仮説である。
以下にとりとめもないままにそれらの資料を記す。
『「……近来、此の辺りの武道場へ向けて、腕試しと称する奇異なる者どもの出没する事、其の聞え甚だし。聞けば、立合の砌には髪逆立ち、身の丈は異様に膨れ上がり、その体躯は赤銅色を帯びるという。
世間の者どもは、武芸自慢の古き天狗の類いが人の姿を借りて業を試すものと怪しみ、恐れおののいている。
我が道場にも、遂に其の噂の男が乗り込んできた。
初めに立合った高弟の一人は、ただ一撃を受けたるのみにて、即座に壁へ叩きつけられ落命せり。
然れども、我が師匠は少しも動じず、次に立合う者へ厳しく下知を下された。
『決して組んではならぬ。身を引いて壁を背にし、敵の拳足を、壁や室内の武具などの堅牢な物へ当たるようにうまく導け』
と。
二人目の立合人が其の教えの通りに身を処したところ、男は自ら放った拳を道場の漆喰壁に打ち付け、手向かう隙もなく拳の骨を派手に粉砕した。
されど其の男、痛覚を失うたかのように微塵も怯まず、凄まじい三白眼を剥いてなおも狂乱の如く襲い掛かってくる。
男は板張りの床や堅き壁を次々に打ち砕いたが、其の激しい衝撃の度ごとに、男自身の拳や足の骨もまた自らの過度な力に耐えかねて、次々と砕けていった。
命からがら逃げ惑う高弟の恐怖、実に筆舌に尽くしがたし。
後日、其の有様を
『まさしく悪鬼羅刹の所業なり』
と、血相を変えて語っていたほどである。
果たして其の男は、自らの全身の骨をことごとく砕き尽くし、ついにその場で絶命に及んだ。
あまりに哀れな最期であったゆえ、厚意を以て手厚く墓所に葬ってやったが、その亡骸に触れたる時、すでに骨格を失った躯はまるで軟らかな海月の如くぐにゃぐにゃに崩れていたといふ。
なお、辛うじて生き延びた二人目の高弟もまた、男に掴まれた左手の骨が完全に握りつぶされ、剣の道をあきらめることとなり、試合が終わった時には道場は半壊していたという。
——伝うる所によれば、此の正体不明の男が葬られた史跡こそ、のちに里人らが恐れて『鬼天狗の首塚』と呼び習わすようになった場所であるという。」』
小泉八雲著「巷間耳嚢」
『陣中に大きな戦のありし後、此の山間の寒村にも落ち武者狩りが行われたという。村の奥深き山中へ逃れ入った者どもが数名あり、これを追うて追手がかかった。 其の一行の中には、なんと一人の女武者が混じっていたと伝えられる。
落ち武者狩りの容赦なき詮議により、仲間たちは次々と討ち取られ、ついに女武者一人が取り残された。
追い詰められた女武者は、天に向かって何やら呪文(真言)の如きものを唱え、加護を祈り奉った。すると不思議なるかな、たちまち女の髪は逆立ち、恐ろしい白目を剥いて獣の如き唸り声を上げ、逆に追手どもへ向かって猛然と襲い掛かったという。
女は獣の如き常軌を逸したすさまじい膂力をもって次々と追手を引き裂き、そのまま深山幽谷へと姿を消した。
然れども、これを座視せぬ領主は事態を重く見て、次々と矢継ぎ早に新たな追手を送り込んだ。
追手の多くは血祭りに上げられ、生きて帰る者はほとんどなかったらしい。
だが、五度目に差し向けられた追手によって、ついに女武者は討ち取られた。
討ち果たされた女武者の躯は、あちこちの骨が折れ砕け、傷だらけであったという。
されど奇異なことに、その傷のほとんどはすでに新しい肉を盛り、塞がりつつある最中であった。
かような凄まじい鬼神の如き武力を目の当たりにした武士たちは、たとえ首尾よく討ち果たしたとはいえ戦慄を禁じ得ず、のちに
「あれはただの人間ではない、おおかた山中で子供の生き胆でも喰ろうて妖術を身につけた『鬼女』であったのだろう」
と恐怖を込めて噂し合ったという。
――伝うる所によれば、のちに土地の古老たちは
「あれこそは伝説の紅葉姫の生まれ変わりである」
と語り伝え、その禍々しくも悲壮な名残は、いつしか里の名物である鬼の顔を焼き込んだ「鬼姫もみじ饅頭」という甘味の意匠にまで姿を変えて、今に伝えられているという。』
磐梯山麓雑記 作者・不詳(おそらく磐梯山中の修験道者の一人が書き記した、私的に書き留めた手控え帳のようなものと推測される)
なおこの伝承には続きがあり、著者がかつて会津の観光地でアルバイトをしていた時、名物である「鬼姫もみじ饅頭」のパッケージに描かれた可愛らしい鬼娘の意匠に興味を持った。
土産物屋の老主人は笑いながら
「昔の落ち武者狩りで討たれた哀れな女武者の伝説さね」
と語るが、郷土資料を漁るうちに、その伝説が明治期に改変されたものであることが分かった。
本当の歴史は、かつてその山で、追手との死闘の果てに女武者が全身の骨を砕いて自壊したという凄惨な事件だった。
その様があまりにも凄惨だったため後に少し柔らかい表現へと改変されたようだ。
さらに、土地の古老によればこの女武者と同じ血を引く者たちが明治の初期辺りまでこの付近に住み生活していたという。
彼らには体躯に恵まれたものが多く、村の神事や土木工事の際には大いに頼りにされたらしいが、その際には一族に伝わる真言を唱えたり、祝詞のような言葉を唱えることで全身が一回り大きくなり剛力を発揮し、傷を負っても数日で塞がったりする不思議な力があったという。
誰ともなく紅葉姫の子孫ではないかともいわれていたが、太平洋戦争の際、男衆が徴兵されて以降はどこかへ移住してしまったらしく、その行方はよく分からなくなっているそうだ。
封印された歌舞伎演目
「血染桜東恋鏡」
「出羽三山に流れ着いてきた若い美しい巫女のもとに、ある修験者が訪れる。
巫女は何かの罪を犯しており追われる身、修験者はそのために依頼を受けて差し向けられた追っ手であった、しかし美しい巫女にどうしても刃を向けることができなかった修験者と巫女はやがて恋に落ち、裏切り者となった修験者にも刺客が差し向けられる。
2人は追手から逃れ出羽山中を逃げ続けるが、やがて湯殿山の玉滝の付近に追い詰められる。
巫女だけでも逃がそうと修験者は滝を背に背水の陣で追っ手を迎え撃たんとするが、逃げよと言う修験者の傍を巫女は離れようとしない。
巫女は天に向かって神仏の加護を祈った。
巫女の姿はたちまち巨大な鬼の姿へと変じ、追手を一人残らず引き裂いた。
しかしその元の美しい姿に戻った時、巫女の全身の骨は砕けており、息も絶え絶えとなった巫女は
「貴方が無事ならよかった、私はいままで数々の業を背負ってきた身、これも神仏の慈悲なのでしょう、最後の願いです、どうか私の亡骸は桜の下に埋めてください。」
と告げ、絶命したという。
修験者は嘆き悲しみ、巫女の亡骸を大きな桜の下に葬った後は山を下り、仏門に入り生涯独身のまま妻の菩提を弔ったという。」
これが異端の歌舞伎演目として禁目とされた「血染桜東恋鏡」のストーリーである。
江戸時代に上演され、たいそうな人気を博したらしいのだが、なぜかこの演目は幕府によって禁止され、現代では廃曲となって久しい。
一説にはシテ(主役)の巫女役演者が身にまとうのは血塗られた甲冑や赤銅色の面であり、物語のクライマックスでは
「荒ぶる神の血に狂い、自らの手足を激しく打ち鳴らしてついには全身の骨を砕いて舞台の端に崩れ落ちる」
という狂乱の見せ場(マイムや足拍子)が組み込まれている。
しかし、その舞の足拍子があまりにも生々しく、観客席からは
「まるで本当に、人間の骨が砕けるような乾いた音が響いた」
とまことしやかに囁かれていた、との記録が残されていた。
またこの演目の練習の際には
「舞台の上では足や手の指の骨をポキポキと鳴らしてはいけない」
や、歌舞伎の象徴でもある隈取を主役の巫女には使わない、などの特有の不思議なしきたりがあったともいわれており、これらがなんらかの呪術的な意味で幕府の逆鱗に触れたのではないかとの異説もある。
――この能(または歌舞伎)の古い台本や床本の書き込みを紐解くとき、我々は能く気づく。
なぜこの演目が『足の骨を鳴らすな』『舞台の柱を激しく打つな』という奇妙な古習(禁忌)と共に伝承されてきたのか。
それは、この演目のモデルとなった『実在の人物』が迎えた惨たらしい自壊の様を、かつての一族が後世への戒めとして、あえて様式美のなかに封じ込めたからではないだろうか?




