御子神神眼流
霞の眼の基本として真言や祝詞を教えるのは、単に戦巫女の前身が神職であったからである。
彼女達にとっての最も信じられる物が神仏の加護であり、それを引き出すトリガーが真言や祝詞だから、それ以上でも以下でもないということ。
つまり霞の眼の発動原理とその結果としての身体能力の上昇は、スポーツ心理学や生理学の分野であり、真言や祝詞が何かオカルト的なパワーを発揮した結果では無いということだ。
少しばかりいたずら心が湧いた著者が
「では、仮に確信さえ持てているのならルーティーンの内容は安来節を歌いながらドジョウ掬いを踊る動作でも発動できるのか?」
と聞いてみたところ、巴氏は呵々大笑しながら
「本当に信じられるのならできる、もしかして荒吐さんはここをドリフ色に染めたがっとるユキカゼの回し者かの?」
とイタズラっぽい笑みとともに返されてしまった。
ドリフ色とはどういう意味か、ユキカゼとは何者かは聞くのを忘れてしまった。
特殊な呼吸法を用いて過呼吸による酸素過多の状態を意図的に作り出し、半トランス状態となったところにマントラや祝詞による強烈な自己暗示を脳に流し込み、肉体にかけられた自己肉体保存のためのリミッターを一時的に強制解除し、超人的な身体能力を発揮する段階を踏む。
しかし元々人間の身体にリミッターが掛けられている理由は、強すぎる自身の力が自分自身の肉体を破壊してしまいかねないからであり、生まれつきの強靭な肉体を持つ者でない限り力を引き出したは良いが、相手を打ち殺せても己の拳もその衝撃に耐えられず拳の骨が砕けるなどの自身の肉体破壊を引き起こす。
これは現実世界でも強打が売りのボクサーほどナックルの中手骨や尺骨の骨折の危険と隣り合わせであり、常に悩まされている事実からも理解できるだろう。
だからボクサー達は命の次に大事なその拳をバンテージでしっかりと引き締め固め、保護しているのである。
これは霞の眼の術式深度により危険度が変わり、術式深度の深い霞の眼ほど潜在能力を引き出せることと引き換えに、高深度の霞の眼使用は常に正気を失う暴走と自己破壊の危険を孕んでいる。
ゆえに巴氏は零女史にはあえて限界深度の霞の眼をかける方法は伝えておらず、その奥義の存在自体を知らせていないらしい。
話題となったラグビーの五郎丸選手のルーティーンと同じであるため習熟するにつれて儀式そのものが必要なくなり、傭兵となる前には零女史はルーティーンなしに集中するだけで脳内のスイッチが切り替わり、瞬時に霞の眼を発現させることが可能になっていたとのことだ。
巴氏も小さい頃からおままごとやお人形さん遊びといった女の子らしい遊びには全く興味を示さず、男子に交じって薙刀や剣術の稽古に泥まみれになりながら励み、アザだらけになりながら組討ち稽古に汗を流し、雨が降ると孫子や六韜兵法などの兵法書を読みふけるような子供時代だったという。
その腕っぷしゆえに「御子神の巴御前」のあだ名を付けられ、その美貌に魅かれて言い寄ってくる軽薄な男は後を絶たなかったようだ。
「私より弱い殿方には興味はありませぬ、私が欲しいなら力づくで組み伏せてごらんなさい。」
と言い放ち、憤慨して掴みかかってくる大の男や、巴氏の武勇伝を聞いて屋敷に訪れる腕自慢の道場破り崩れを汗一つかかずに涼しい顔で片っ端から投げ飛ばし組み伏せ、失神させるのがほぼ日課であったらしい。
これは夫である太蔵氏の証言だ。
だとすると太蔵氏は巴氏を超える武術家なのだろうか?
巴氏は昔話の時に「自分より弱い男には興味がない」と言っていたはずだ。
大変失礼だがそのようには見えなかった、とても温厚そうな豊かなひげを蓄えたサンタクロースのような優しい雰囲気だったからだ。
閑話休題のつもりでそこらを聞いてみた。
堅苦しい話ばかりでは相手も疲れ警戒してしまう、こういう脱線を意図的に時々挟むことで相手の警戒心を解き、さらなる情報を引き出すテクニックは著者の長年の取材で培った話術であり、ルポライターとしての飯のタネである。
驚いたことに太蔵氏は武術の素養など全くなく、どちらかというと読書などのほうが好きらしい。
太蔵氏が若りしころ、浴衣姿の巴氏と祭りの縁日で偶然出会い一目惚れしたらしい。
その縁日で誤って階段から足を滑らせ落ちそうになった子供を助けようとした巴氏が身代わりになって階段から落下、あわや大怪我か...!?
となりそうなところを、とっさに太蔵氏が自らの体をクッションにして腕の骨を折りながらも巴氏を救い、巴氏がしばらく太蔵氏の看病についたことから交際が始まった。
というのが馴れ初めであったという。
ただの閑話休題のつもりであったがこの後、零女史が新しく入れてくれたお茶が完全に冷めるまで
「あの時のトモちゃんの恥ずかしがって頬を赤らめた表情は今でも思い出すだけでワシゃぁもう....もぅ...」
「イヤですよおじいさん、若い人の前で...」
などとのろけ話が始まり、慌てて話を元に戻すのに苦労したのも、御馳走していただいた美味しいクッキーとともに良い思い出である。
なお巴氏は愛用の獲物として薙刀を用い、薙刀の名手としても知られているが、御子神一族に伝わる鉄筋に並みの薙刀の倍はあろうかという巨大な刃を付けた愛薙「降魔・羅刹薙」を高齢となった現在でも、筆者の目の前で自身の身の丈の倍以上あるにも拘らず、小枝のように軽々と振るってみせた。
また戦巫女達が長い戦いの中で練り上げた「御子神神眼流」なる武器術、甲冑組討ちの技法までも網羅した総合武術も継承されている。
ただし、これは全く技法が体系立てられておらず、生まれつきのフィジカルと霞の目によって強制的に励起される超人的な身体能力の二つを絶対の大前提とした技術体系である。
流派というより野獣の剣術闘法と呼ぶほうが近く、肉食獣が獲物に襲い掛かる際の襲撃指南書といった趣である。
生まれ持った類い稀なるフィジカルに恵まれた御子神一族であっても霞の目使用者以外には、ましてや一般の人間にはそもそも修練も習得もほぼ不可能な、極めて特殊かつ異質なものだ。
御子神氏より提供された資料を基に以下にその一例をあげる、これはあくまで一部開示された物であり、大部分の古伝古文書は巴氏の意向により公開はして頂けなかった。
「御子神伝 兵法極意書 拾遺・曲リ神憑リ伝」ヨリ
一ノ太刀斬り
「敵、我が太刀を避くること無く受くるの癖あらば、これ僥倖なり。
面を狙いて打ちこみ、敵の刃太刀ごと打ち断ち、鉄甲の備え諸共に両断すれば、太刀折れ身を断つものなり、これ即ち一ノ太刀斬りの極意なり。」
(意訳:敵がこちらの太刀を躱そうとせず、己の太刀で受け止めようとする傾向があるのなら好機である、全体重を乗せ面打ちにて受け止めようとする太刀ごと両断し、そのまま甲冑ごと叩き斬れば良い、これが一撃必殺の極意である。)
佩の返し
「敵、我が面を打ち来たらば、蜻蛉を返してこれを躱し、空中翻転の勢いのままに真下より太刀を摺り上げ、股下から頭へと逆竹割りにて断ち割るべし、これ佩の返しの秘太刀なり。」
(意訳:敵が面を打ってきたところをトンボを切って躱し、そのまま宙返り中の勢いを活かして地面すれすれの真下から摺り上げるように刀を振るい、股下から脳天に向けて逆竹割りに斬るべし、これが佩の返しの秘剣である)
押し斬り
「敵と鍔を競うに至らば、躊躇することなく太刀の峰を押し押し(おしおし)て、その力に乗じ、相手の刀ごと押し斬り押し拉ぐべし。」
(意訳:敵と刀を交えて鍔競り合いになったならば、そのまま太刀の峰に手を当て、異常な腕力をもって力任せに押し切り、相手の太刀ごと圧砕して斬り伏せよ)
天狗礫
「槍衾に向かいて軽卒に接近するなかれ。離れ立ちて足下の石礫を以て、遠くよりこれを打ち殺すべし。殊に兜の面・太股等、鎧帷子に覆われざる虚を狙うを良しとす。鉄砲に対するもまた、この理に違うことなし。」
(意訳:槍の穂先を押し立て並べている敵の集団に対してはうかつに近づいてはいけない、距離を取って足元の石礫を拾い、これを用いて打ち殺すべし、その際は兜の下の顔面がむき出しになっている個所や太もも、鎧帷子に覆われていない個所を狙えばなお効果的である、鉄砲隊に対しても対処法は同じである。)
無手の章
「矢玉尽きなば、直ちに甲冑組討ちに移るべし。 戦場にては常に四方の敵勢に目を配り、一敵に時を費やすこと無用なり。 殊に地上に倒れ臥すはこれすなわち愚の骨頂なり。敵を締め絞る間に、周囲の雑卒より槍を刺し込まれて命を落とせばなり。」
(意訳:矢玉尽きた時は徒手空拳にて甲冑組討ちを挑むべし、挑む時は常に周りの雑兵に気を配り、目の前の敵に時間をかけ過ぎぬこと、また寝技などで地面に倒れ込んではいけない、敵を締め上げているうちに雑兵から槍で刺されてしまうからである。 )
『肉面剥ぎ』
「敵、面頬を掛け頑強なる時は、その隙間に指を差し入れ、力任せに手前に引き剥がすべし。面頬は結び緒ごと引き千切れ、敵の顎骨および喉笛、顔面の肉もろとも潰れ去るなり。これ即ち肉面剥ぎの極意なり。」
(意訳:敵が面頬を装着して頑強に身を固めている時は、防具の隙間に強引に指をねじ込み、異常な腕力で手前に引き抜くべし。結び緒は引き千切れ、敵の顎骨・喉笛・顔面の肉ごと丸ごと削ぎ落ちて死するものなり。)
投之事
一、投げを打つには、必ず敵の腕を逆に取り、関節を極めて四肢の曲がらぬ方向へ捻りて投ぐべし。
かくすれば四肢は砕け、いかなる者も受身を取ること能わず。
また投げ放つ地は、砂利・石畳・巌場などの硬き所を選び、頭より叩きつけよ。
敵倒るる時、殊に兜を着用せば、その顔面あるいは喉笛を渾身の力をもって踏み砕き、必ず絶命せしめよ。
一、寝技に持ち込むは本来不覚の道なれど、一対一の死合いならばその限りにあらず。
すべからく敵の首を絞め上げ、引きちぎる如く首の骨捻り折るべし。
(意訳:投げを打つときは必ず相手の腕を逆関節に決め、手足が曲がらぬ方向にねじって投げよ、そうすれば相手の手足は砕け、受け身は取れない。
また投げつける地面は、砂利や石畳、あるいは岩などの硬い場所を選んで、頭からたたきつけよ。
相手が倒れた時、特に相手が兜を付けていた場合は、倒れた相手の顔か喉を思いきり踏み砕き、必ず止めをさせ。
また寝技にもちこむのは危険だが、一対一の状況なら問題ない、その場合は相手の首を絞め、ねじ切れ。)
指之事
「敵と相対する時、拳を打つことのみを考うべからず。
敵の手、殊に武器を執る手を見よ。
手を失えば、刀も槍も持つこと能わず。
指を傷めれば、弓を引くこと能わず。
故に、敵の力を正面より受くるを愚とし、その力の源たる手を損ずべし。
されど、これを勝負の技と思うべからず。
敵の手を奪うは、敵を倒すためにあらず。
敵より武器を奪い、敵の意志を奪い、敵が再び立ち向かう術を奪うためなり。
武器を落とした敵を憐れむべからず。
武器を拾い直す者は、再び敵となる。
一度奪いしものを、二度と取り戻させぬこと、無手の要なり。
手を制する者は、敵を制する。
これを忘るべからず。」
(意訳:敵と向かい合った時、ただ拳で殴ることだけを考えてはいけない。
見るべきは、敵の手だ。
特に、武器を持っている手を狙え。
手が使えなくなれば、刀も槍も扱えない。
指を痛めれば、弓を引くこともできない。
だから、敵の力を正面から受け止めようとするのは愚かなことだ。
敵の力の源となっている手を奪え。
ただし、これを「勝負のための技」だと思ってはいけない。
敵の手を奪うのは、敵を倒すためだけではない。
敵から武器を奪い、敵の戦う意思を奪い、再び立ち向かう力を奪うためだ。
武器を落とした敵を憐れんではならない。
武器を拾い直す者は、再び敵になる。
一度奪ったものを、二度と取り戻させない。
それが、無手の要である。
手を制する者は、敵を制する。
このことを、決して忘れてはならない。)
『御子神家伝・療治雑記』 ヨリ
秘術・血固め
「血の止まらざる時は、被甲護身の妙法を以て急ぎこれを留むべし、おん・ぼりゅ・らん・じゃりと心に念じ、口に唱うべし。
金剛手菩薩の霊験により、血の流るることもたちまちに止まるべし。」
(意訳:出血が止まらない時は被甲護身の秘術により応急処置をせよ、オン・ボリュ・ラン・ジャリと心中にて念じ唱えれば、金剛手菩薩の霊験によりたちまち出血は止まるであろう。)
秘術・骨固め
「敵の太刀、あるいは銃砲の撃ち込みを受けんとするときは、被甲護身の妙法を以て急ぎこれを防ぐべし。 『オン・アボキャ・ベイロシャノウ・マカボダラ・マニ・ハンドマ・ジンバラ・ハラバリタヤ・ウン 』と光明真言一息に唱え、全身の筋を極限まで締め固むべし。 刃は肉に届かず、仮に骨砕くとも肉の力にてこれを締め繋ぎ、そのまま敵を打ち殺すべし。 痛みに怯むは邪念なり。即ち骨固の極意なり。」
(意訳:敵の太刀や銃弾を受けそうになったときは、『被甲護身』の密法によって急ぎ防ぐべし。 『オン・アボキャ・ベイロシャノウ・マカボダラ・マニ・ハンドマ・ジンバラ・ハラバリタヤ・ウン(光明真言)』を一息に唱え、全身の筋肉を極限まで硬化・固定せよ。 刃は肉に届かず、仮に骨が砕けようとも自身の筋力で強引に繋ぎとめ、そのまま敵を叩きのめすべし。 痛みに恐怖するのは邪念である。これ即ち骨固の極意なり。)
などと異常極まる記述が多くを占めており、もはや技や伝書などと呼べる代物ではないことが分かる。
これらの異常な内容は彼女達があくまで巫女であり正式な武術の素養はなく、そのため一般的な武術の伝書や極意書としてのフォーマットを知らなかった結果と推測される。
ただ彼女たちが実戦の戦場において実体験として得た
「こうすれば簡単に仕留められた」「これをやったら痛い目を見た」
という体験を、そのまま結果論としてフィードバックさせ、羅列した物なのだ。
もちろん多少なりとも武術の素養のある者ならこう言って鼻で笑うだろう
「そんなことができるなら誰も苦労はしないよ。」
と。
それに対して御子神神眼流は、これ以上ないほどシンプルで明確な答えを叩きつける。
「君自身が言っているだろう、『できるのなら』と、つまり出来さえするのならばそれが最適解であることを認めているじゃないか、ならそれが『できる』我々がそれをやらない理由がない」、と。
なお、長い歴史の中で御子神一族から理由は不明だが、分派した流派が存在している可能性が一部の古文書において示唆されている。
その分派は「朱羅神真眼流」と呼ばれていること以外は、文献や古文書がほとんど見つかっておらず、詳細は不明である。
関係あるかは不明だが、筆者が御子神の古文書を解読するうちに気になる文献を見つけた、その気になる記述をここに記す。
「(前略)……ゆえに霞の眼、深く沈めること厳に禁ず。深淵に触れなば修羅と化し、己の血肉が尽きるまで外法の獣と成り果てん。 かつてその禁忌を是とし、深き術理を求めて一族を分かちし者どもあり。『しゅら』を名乗ると伝うれど、もはや人にあらず。決して交わることなかれ。」
これは果たして分派したというあの「朱羅神」を指した記述なのだろうか?
筆者は今後も御子神一族と謎の朱羅神一族の足跡を追うつもりだが、前出の「しゅら」なる言葉の意味については判断は読者に委ね、ここに一旦筆を置くものとしよう。
巻末注:朱羅神一族については後の著者の調査や新たな文献の入手により、異なる推察が可能となったが、長くなると思われるので本稿における考察はここまでとし、朱羅神一族に関する専用のレポートを用意したので詳しくはそちらを参照されたい。




