第八話:骨が語る詩
宇佐美楓のむせび泣く声が、夕闇のレッスン室にいつまでも低く尾を引いていた。
槇原が差し出した手錠の冷たい金属が、彼女の細い手首を拘束する。彼女はもう抵抗しなかった。自分の「嘘」を完璧に組み立てたつもりだった。御子柴にすべての罪をなすりつけ、自分は悲劇の同級生として永遠に逃げ切るはずだった。
だが、彼女が計算に入れ忘れていたのは、10年前に自分がその手で絞め殺した男の「骨」が、その指先の歪みまでも記憶していたという、冷徹な医学の真実だった。
「連れて行くぞ、宇佐美さん。……あんたの弾いた最後の不協和音の始末は、きっちり署でつけてもらう」
槇原はそう言うと、静かに彼女の背中を促し、部屋を後にした。
レッスン室に残された暦は、しばらくの間、誰もいなくなったスタインウェイのグランドピアノを見つめていた。埃をかぶった黒い筐体は、まるで長い戦いを終えた戦士のように、静かに佇んでいる。
彼女は白衣のポケットに手を突っ込み、残っていたカロリーメイトの袋を静かにゴミ箱へと捨てた。
翌日、大学の法医学教室。
部屋の中は、いつもと変わらず冷蔵庫のような冷気が満ち、LEDの無機質な光が解剖台を照らしている。
暦は、机の上に広げられた逢坂絢斗の骨格写真を、一枚ずつ丁寧にファイリングしていた。事件の解決に伴い、これらの遺骨は近いうちに遺族、あるいは適切な法手続きを経て埋葬されることになる。
彼が10年間、暗い土底で守り続けた「真実」は、ようやくその役目を終えたのだ。
部屋のドアが前触れもなく乱暴に開いた。
入ってきたのは、やはり槇原だった。
手にはお決まりの缶コーヒーと、心なしかいつもより少し上等な、専門店のイチゴタルトの箱が握られている。
「宮内、お疲れさん。御子柴の野郎、宇佐美が落ちたって聞いたら、一気に全部吐きやがったよ。
10年前、あいつがオフィスで死体を見つけてから、山林に遺棄するまでの全行程だ。これで完全に容疑は固まった」
槇原はドカリとパイプ椅子に腰掛け、タルトの箱を暦のデスクに置いた。
「これ、美味いらしいぞ。たまにはそのパサパサした燃料じゃなくて、人間らしいもん食え」
暦はタルトの箱を無表情に見つめ、それから槇原の顔を見た。
「ありがとうございます。
ですが、糖分の過剰摂取は脳の処理速度を一過性に向上させる反面、その後のインスリン分泌による急激な血糖値低下を招きます。私の作業効率を考慮するならば、やはりカロリーメイトの方が――」
「お前な、少しは素直に受け取りやがれ」
槇原は呆れたように笑い、ポケットからイチゴ飴を取り出して自分の口に放り込んだ。
「まぁ、何だ。今回だけは、お前のその『骨オタク』の偏執的な執念に感謝してやるよ。生きてる人間の涙に騙されかけた俺の目を、あのホネ公……いや、逢坂くんの遺骨が覚ましてくれた」
「当然です」
暦は立ち上がり、解剖台の横にある窓のカーテンを少しだけ開けた。
夏の強烈な陽光が、冷え切った部屋に一筋の白い光を投げかける。
「人間は、言葉でいくらでも自分を偽飾できます。愛、憎しみ、悲しみ、それらの美しい感情の裏側に、どれほど凄惨な悪意が隠されているか、生きている人間には見抜けない。だけど……」
彼女は自分の胸元に手を当て、静かに言葉を紡いだ。
「肉体が朽ち、魂が消え去った後に残る骨だけは、決して嘘をつきません。
彼らは、自分がどう生き、どう理不尽に命を奪われたのかを、何年経とうがその白い身体に実直に刻み続けている。
法医学とは、その沈黙の詩を翻訳する仕事です」
暦の瞳には、かつて高校時代に親友を救ってくれたあの法医と同じ、揺るぎない「死者への誠実さ」が宿っていた。
「さあ、槇原さん。次の『声』が待っています」
彼女はデスクの上の書類を片付け、新しい解剖依頼書を開いた。
「次はどんなホネ公だ?」
槇原は口の中の飴をガリリと力強く噛み砕き、不敵な笑みを浮かべて立ち上がった。
言葉を持たない死者たちの叫びを聴くために、凸凹な二人の容赦なき追求は、これからも続いていく。




