プロローグ
余談ながら、人間という生物は、自己の都合に合わせて過去をいくらでも書き換える奇妙な習性を持つ。
人間の記憶組織とは極めて都合の良いお抱えの画工のようなものであり、昨日の屈辱を今日の武勇伝に塗り替え、かつて流した涙を「高潔な悲劇」へと修飾することなど、造作もない。
人は自らの脳裏において常に自らを正当化する物語を紡ぎ、他者に向かっては潤色された言葉を放つ。
そこには呼吸をするように嘘が混じる。
だが、生物がその生涯において、物理的に決して嘘をつくことができない領域がただ一箇所だけ存在する。
リン酸カルシウムとコラーゲン繊維が織りなす硬質な結晶体、すなわち「骨」である。
骨は、裏切らない。
脳がどれほど忘却を決め込もうとも、舌がどれほど華麗な虚飾を弄そうとも、その肉体に課せられた重力、受けた衝撃、栄養の飢渇、および生から死へと至る断末魔の瞬間を、骨だけは分子のレベルで愚直に記録し続ける。
それは生命が物質の世界に遺す、唯一無二の厳密な叙事詩であった。
東京の片隅、重々しいコンクリートの壁に囲まれたT大学医学部法医学教室。
その澱んだ空気の底に、二十八歳の精神の拠所があった。
新人助教、宮内 暦である。
彼女の実態は、生きている人間の生々しい感情や言葉、涙といったものを「最も不確かなノイズ」として徹底的に排斥し、ただ物言わぬ骨の痕跡のみを信仰する、一種の「ボーン・オタク」と評すべき奇物であった。
暦の外見は、端的に言って不摂生の権化であった。
小柄な肉体を包むのは、どう見てもサイズが二回りは大きく、だらしなく袖の余った白衣である。
無造作に後ろで一本に結ばれた黒髪からは幾筋ものほつれ毛が垂れ下がり、その鋭い眼窩の底には、万年寝不足を証明する漆黒のクマが刺青のように刻まれていた。
彼女にとって己の容姿を整える時間などは、思考の無駄遣いに過ぎなかった。
私生活は完全に破綻しており、研究室の引き出しに敷き詰められたカロリーメイトのチョコレート味。
それが彼女の灰色の脳細胞を回すための、唯一の燃料であった。
それを無感動に齧りながら、彼女は一日の大半を顕微鏡の冷たいレンズの前に捧げている。
彼女がこれほどまでに生者を信じず、死者の硬組織を信じるに至ったのには、歴史的な必然とも言うべき原体験がある。
高校時代、彼女の無二の親友が、ある日突然、不可解な死を遂げた。
学校も警察も、事なかれ主義に終始する大人たちは、それを「受験のストレスによる衝動的な自殺」として処理しようとした。
遺されたノートの愚痴が、都合よく「遺書」の代わりに仕立て上げられたのである。
死者に口なし、という冷酷な格言がそのまま通り過ぎようとしたその時、一人の老法医が立ち上がった。
その法医は周囲の雑音に一切耳を貸さず、ただ解剖台の上の遺体、とりわけその骨折の痕跡と向き合った。
そして、頭蓋骨の底部と頸椎に刻まれた微細な打撃の角度、および防衛の際に生じる前腕骨の亀裂の方向を執拗に鑑定し、それが自殺などではなく、完全に不可抗力の「事故死」であったことを科学的に証明してみせたのである。
親友が最期まで生きようと足掻いていた真実は、周囲の安易な言葉によって一度は殺されかけたが、彼女自身の骨が遺した「沈黙の詩」によって、その尊厳を救われた。
その光景を目の当たりにした時、暦の脳裏には消えない楔が打ち込まれたのだ。
人間の紡ぐ言葉はすべて欺瞞の衣を纏い得るが、骨が語る真実だけは、いかなる権力も歪めることはできない、と。
「人間は脳で嘘をつき、舌でそれを飾ります。
ですが、破骨細胞と骨芽細胞は、その人間が生きた一分一秒の重圧を、ただ愚直に骨塩量の変化として刻み続ける。
これほど誠実な組織が、この世界に他にありますか」
暦はよく、西条署のベテラン刑事、槇原玲二に向かってそう嘯く。
四十七歳のその刑事もまた、過去に信頼していた容疑者に決定的な裏切りを経験し、人間の言葉というものを一切信用しなくなった男であった。
ヘビースモーカーである彼の車内は常にタバコの臭いが染み付いていたが、最近では時代の要請か、タバコの代わりにいつも「イチゴ味の飴玉」を口に放り込み、それを奥歯でガリガリと不機嫌そうに噛み砕いていた。
人間の泥臭い嘘を嫌う槇原は、暦のその冷徹な、しかし絶対的に揺るぎない骨への信仰を、百パーセントの信頼を以て受け入れていた。
二人は生者を信じないという虚無の一点において、奇妙に強固な、そして鉄のように冷たいバディを形成していたのである。
暦の前に今、新たな一揃いの骨が並べられようとしていた。
それは奥多摩の凍土から掘り起こされた、二十年分の土を吸った白骨である。
生きている人間たちが「駆け落ち」という安易な物語で片付け、娘からさえも呪われているその骨が、一体どのような詩を内包しているのか。
暦は大きすぎる白衣の袖をまくり、冷たいピンセットを握り締めた。
生きている人間の嘘を暴くための、彼女の孤独な対話が、再び始まろうとしていた。




