第一話:凍土の遺品
その年の冬は、近年稀に見る酷寒であった。
奥多摩の山並みは、鉛色の雲から断続的に吐き出される地吹雪によって完全に閉ざされ、地表はまるで鋳鉄のように硬く凍りついていた。
この過酷な気候は、山肌の木々から生命の気配をことごとく奪い去り、ただ灰色の沈黙だけを斜面に堆積させている。
事件の端緒は、一発の猟銃の音から始まった。
地元の老猟師たちが、獲物を追って通常の登山道から大きく外れた急斜面へと足を踏み入れた。
そこは数日前、この冬には珍しく降った局地的な豪雨に伴う土砂崩れによって、山の地肌が大きく抉り取られた場所であった。
凍てついた泥の巨大な塊と、へし折れた杉の根が複雑に絡み合う斜面のただ中に、それはあった。
猟師の一人が、凍った土から不自然に突き出ている「奇妙な白い木の枝」に目を留めた。
不審に思い、近づいて手袋のまま泥を払った老人の背筋に、冬の寒さとは異なる戦慄が走った。
それは木の枝などではなかった。
人間の、それも足首から先が失われた「脛骨」と「腓骨」であったのである。
西条署の槇原玲二が現場に到着したのは、それから三時間後のことである。
泥臭いトレンチコートの襟を立て、凍るような風が吹きつける中で、槇原は口の中のイチゴ味の飴玉を不機嫌そうに噛み砕いた。
ガリリ、という鋭い音が、人気のない冬の山林に空虚に響く。
彼の周囲では、寒さに身を震わせる鑑識課員たちが、凍土を慎重に掘り返す作業を続けていた。
「槇原さん、衣服の残り滓と思われる繊維片が出てきました。
それと、これです」
若い鑑識員が差し出したプラスチック袋の中には、泥に塗れた樹脂製のコンパクト鏡と、経年劣化でボロボロになったビニール製の小銭入れが入っていた。
小銭入れの裏側には、油性マジックインキで書かれた、掠れた文字が辛うじて残されている。
『星野』
その二文字を見た瞬間、槇原の脳裏に、二十年前の古い捜査資料の記憶が鮮明に呼び覚まされた。
星野美津子。
当時二十六歳。
二十年前の夏、猛烈な大型台風がこの奥多摩地域を直撃した夜に、忽然と姿を消した女性であった。
当時、彼女は地元の岩田工務店で事務員として働きながら、わずか四歳の娘を一人で育てるシングルマザーであった。
だが、当時のこの閉鎖的な村における彼女の評判は、最悪に近いものであった。
「男癖が悪い」「あちこちに借金を作って逃げた」「幼い娘を置き去りにして、若い男と夜逃げした悪女」。
それが、村の人間たちが一致して彼女に下した確定的な評価であり、当時の警察もまた、その「駆け落ちによる失踪」という安易な物語を疑わずに捜査を打ち切っていた。
男と夜逃げをして今頃どこかで贅沢に暮らしているはずの悪女が、なぜこのような極寒の山林の地中深くで、白骨死体となって転がっているのか。
人間の吐き散らす言葉というものの不確かさを、槇原はその時、改めて舌の上の苦味として感じていた。
翌日、西条署の薄暗く冷え切った取調室に、一人の若い女性が呼び出された。
星野紗季、二十四歳。
山林で発見された遺体。
星野美津子の実の娘であり、現在は隣町の保育士を務めているという。
彼女の顔立ちは、古い写真で見た美津子の面影を色濃く残していたが、その瞳の奥には、奥多摩の凍土にも似た頑なな冷徹さが宿っていた。
槇原が静かに、ビニール袋に入れられた遺品の小銭入れを木目の机の上に置くと、紗季はそれを一瞥しただけで、眉ひとつ動かさなかった。
その態度は、肉親の遺体が見つかったという報せを受けた者のそれではない。
「星野紗季さん。
これが何であるか、分かりますね」
「母のものです」
紗季の声は、完全に乾ききっていた。
「二十年前、私を一人きりで家に置き去りにして、男と消えた、あの人のものです。
それが今更、私に何の用ですか」
「奥多摩の山林から、お母様と思われる白骨遺体が発見された。
事件性の有無を含め、現在、大学の法医学教室で詳細な鑑定を行っている」
その言葉に対し、紗季は痛ましげな、しかし明確な憎悪の籠もった自嘲の笑みを浮かべた。
その笑みには、二十年という歳月が彼女の心の中で育て続けた、根深い呪詛の澱が混じっている。
「事件も何も、最初から分かっているじゃないですか。
男に捨てられて、帰る場所もなくなって、あの山で行き倒れて野垂れ死んだ。
自業自得です。
私はあの人を母親だと思ったことは一度もありません。
あの日、台風の激しい音の中で一人で震えていた時から、私の時間は止まったままなんです。
今更、骨だけになって戻ってきて、私にどうしろと言うのですか」
彼女の言葉は、生きている人間の生々しい感情の吐露であった。
それは、村の大人たちが二十年間囁き続け、彼女の耳に叩き込み続けた「嘘の物語」を、彼女自身が真実として内面化してしまった結果の言葉でもあった。
人間は、自らの傷を癒やすために、時には他人を絶対的な悪に仕立て上げる。
この娘にとって、母は「自分を捨てた悪女」でなければならなかったのだ。
槇原はそれ以上、彼女の感情を宥めるような言葉を一切口にしなかった。
彼は、生きている人間の言葉がいかに虚しく、いかに容易く歪められるかを知っている。
この娘がどれほど母親を呪おうとも、あるいは村の人間たちがどれほど美津子を悪女と罵ろうとも、そんなものはすべて「生きている者の都合」に過ぎない。
真実を知っているのは、あの凍った土の下で二十年間、沈黙を守り続けていた物体だけだ。
「……分かった。
手続きが終われば、骨は引き渡す」
槇原はトレンチコートのポケットに両手を突き込み、椅子を引いて立ち上がった。
向かう先は一つししかかった。
生きている人間の感情の泥沼から、最も遠く離れた場所。
T大学医学部法医学教室。
そこには、ただ物質としての「真実」だけを厳格に待つ、あの風変わりな助教、暦が待っているはずであった。
槇原は口の中の飴玉をもう一度激しく噛み砕き、取調室を後にした。




