表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
法医学 宮内暦の事件簿  作者: 泉水遊馬
CASE2 冷たい揺籃(ようらん)

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
12/52

第二話:沈黙の分娩痕

T大学医学部法医学教室の解剖室は、一年を通じて一定の低温に保たれている。

その空気は、生者が発するいかなる熱気をも拒絶するかのように、常に無機質で冷淡であった。

部屋の中央に据えられたステンレス製の解剖台の上に、今、奥多摩の凍土から掘り起こされた「星野美津子」とされる白骨遺体が並べられていた。

二十年という歳月は、肉組織を完全に土へと還し、残された硬組織を鈍い茶褐色に染め上げていた。

こよみは、サイズの合わない大きめの白衣の袖を乱暴にまくり上げると、解剖台の前に立った。

彼女の鋭い眼窩の底にある漆黒のクマが、蛍光灯の青白い光に照らされて一層深く見える。

主食であるカロリーメイトのチョコレート味を無感動に口へ放り込み、顎を動かしながら、彼女はピンセットと拡大鏡を手にした。

その目は、遺族の涙や世間の噂といった雑音を一切排し、ただ目の前にある物質としての「骨」だけを凝視している。

遅れて解剖室に入ってきた槇原玲二は、トレンチコートを脱ぐこともせず、部屋の隅で口の中にイチゴ味の飴玉を放り込んだ。

ガリリ、と奥歯で飴を噛み砕く無骨な音が、静まり返った室内に響く。

槇原の鋭い眼光が、解剖台の上の茶色い骨の塊へと向けられた。


「どうだ、こよみ

何か喋りそうか、その骨は」


こよみは顕微鏡から目を離さず、感情の起伏を一切排した冷めた声で応じた。


「骨はいつでも雄弁ですよ、槇原さん。

生きている人間のように、見栄や恐怖で辻褄を合わせるような真似はしませんから。

この骨の主は、二十六歳前後の女性。

骨盤の形態、および頭蓋骨の乳様突起の形状から見て、星野美津子本人であることに間違いありません。

ですが……世間が彼女に貼り付けた『悪女』というラベルとは、随分と異なる表情をしています」


こよみはピンセットの先で、遺体の「骨盤」の前面、左右の恥骨が接する部分を慎重に指し示した。

そこには、顕微鏡で拡大しなければ見落としてしまうほどの、微細な骨の溝と、不自然な肥厚が刻まれていた。

それは、かつて激しい肉体的苦痛を伴って生じた、組織の修復痕であった。


「見てください。

これが恥骨結合面です。

ここにある微細な亀裂の痕跡、そして骨の過形成。

これは法医学において『分娩痕ぶんべんこん』と呼ばれるものです。

人間という生物が、骨盤を極限まで押し広げ、命を削って子供を産み落とした際にしか残らない、消えない刻印です。

それも、尋常ではない負荷がかかったことを示している。

この骨の主は、二十年前に娘の紗季さんを産んだ際、自身の肉体を文字通り破壊するほどの激痛に耐え、彼女をこの世に送り出した。

少なくとも、彼女の骨は、その出産を『命がけの重大な営み』として記録しています」


槇原はイチゴ飴の破片を舌で転がしながら、小さく鼻を鳴らした。

取調室で「あの人は私を捨てた悪女だ」と吐き捨てた娘、星野紗季の冷酷な表情が脳裏をよぎる。

「だが、世間ってやつは、そんな内側の事情にゃ興味を持たない。

出産までは健気だった母親が、その後に男に狂って子供を捨て、夜逃げした。

村の連中は皆、そう言っているし、娘もそれを信じ込んでいる。

骨がいくら『命がけで産んだ』と主張したところで、その後の失踪という嘘を打ち消す証拠にはならんぞ」


「話はまだ終わっていません、刑事さん」


こよみの声が、一層冷徹な響きを帯びた。

彼女はピンセットを置き、今度は遺体の「大腿骨」と「肋骨」の断面を写した、X線透過写真のパネルを壁のシャーカステンに掲げた。

白い光の中に、骨の内部構造が不気味に浮かび上がる。


「私はこの骨の『骨塩量こつえんりょう』と、微量元素の分析を行いました。

驚くべきことに、彼女の骨組織は、死の直前において、極度の栄養失調状態を示しています。

骨の代謝バランスが著しく崩れ、カルシウムが異常に流出している。

つまり、彼女は死ぬまでの数週間、まともな食事を一切与えられていなかったか、あるいは激しい飢餓状態に置かれていた。

槇原さん、あなたに聞きます。

男と駆け落ちし、金を盗んで夜逃げした悪女が、なぜ死の直前に『餓死』寸前の状態に陥るのですか。

新しい男と贅沢な暮らしをするために娘を捨てた人間が、飢えを抱えたまま、あのような寂しい山林で野垂れ死ぬなどという物語が、医学的に成立すると思いますか」


解剖室の空気が、一瞬で凍りついたように張り詰めた。

槇原の目が、鋭く細められる。

彼が長年の経験で培った「刑事の勘」が、二十年前の事件の裏に隠された、巨大な欺瞞の輪郭を捉え始めていた。

村の人間たちが語った「駆け落ち」という物語は、単なる噂話ではない。

誰かが意図的に流し、定着させた「都合の良い嘘」だったのだ。

美津子は、自分の意思で村を去ったのではない。


「つまり、あの女は逃げ出したんじゃない。

何者かによって囚われていたか、あるいは……動けない状態に置かれていた、ということか」


「脳は容易に忘却を決め込み、生者は自らの都合の良いように物語を書き換えます。

ですが、破骨細胞と骨芽細胞は、その人間が生きた最後の瞬間まで、その負荷をただ愚直に刻み続ける。

この骨は、世間の嘘を告発しています。

彼女は娘を捨ててなどいない。

死という絶対的な沈黙の淵に沈むその瞬間まで、彼女の骨は、別の『何か』を訴え続けていたはずです」


こよみはそう言うと、再び大きすぎる白衣の袖を直し、顕微鏡のレンズへと顔を戻した。

彼女の指先が、今度は遺体の「背骨(胸椎)」に見つかった、さらなる不自然な変形へと向かっていく。

生きている人間の醜い嘘を暴くための「骨の詩」の解読は、まだ始まったばかりであった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ