第三話:背骨の詩
翌日も、T大学医学部法医学教室の空気は凍てついたままであった。
解剖室のシャーカステンには、星野美津子の全身の骨格X線写真が、整然と並べられていた。
暦は、いつものようにサイズ違いの大きすぎる白衣のポケットに両手を突っ込み、その白い光の前に立ち尽くしていた。
彼女の眼窩の底にある漆黒のクマは、昨日よりもさらに色濃くなっているように見える。
引き出しから取り出したカロリーメイトのチョコレート味を無感動に齧り、その咀嚼音だけが、沈黙した室内に微かに響いていた。
背後の重い扉が開き、泥臭いトレンチコートを纏った槇原玲二が入ってきた。
彼の車内から連れてこられた煙草の残り香が、一瞬だけ法医学教室の無機質な空気を揺らす。
槇原は無言のまま、コートのポケットからイチゴ味の飴玉を取り出し、口へと放り込んだ。
ガリリ、と奥歯でそれを激しく噛み砕く音が、彼が外でしてきた泥臭い聞き込みの苛立ちを雄弁に物語っていた。
「槇原さん、西条署の古い記録と、二十年前の気象データを照合してくれましたか」
暦は振り返ることもせず、シャーカステンのフィルムを見つめたまま問いかけた。
「ああ、お前の言う通りだったよ、暦。
星野美津子が姿を消したとされる二十年前の八月十五日の夜、この奥多摩全域を過去最大級の大型台風が直撃していた。
総雨量は四百ミリを超え、各所で土砂崩れや河川の氾濫が相次いでいた。
だが、当時の警察は、彼女がその大嵐の夜にわざわざ幼い娘を置き去りにして、男の車で遠くへ逃げたと結論づけていた。
実に都合の良い、おめでたい頭の持ち主たちだ」
槇原の声には、生者の浅はかな怠慢に対する、深い嫌悪が滲んでいた。
当時の捜査員たちは、村にはびこる「悪女の駆け落ち」という噂話を鵜呑みにし、嵐による被害の混乱に紛れて、捜査を早期に打ち切っていたのだ。
「生者の脳が紡ぐ物語など、その程度のものです。
ですが、彼女の肉体の中心にいたこの物質は、全く異なる光景を記憶していました。
これを見てください」
暦はピンセットの先で、X線写真に写る「胸椎」すなわち背骨の、ちょうど胸の裏側にあたる部分を指し示した。
拡大されたその画像には、椎骨のいくつかが、不自然に押し潰されたように変形している様子が克明に写し出されていた。
「これは、圧迫骨折、および激しい骨肥厚の痕跡です。
それも、死の直前に生じた、生前傷です。
槇原さん、彼女の背骨は、上部から加えられた絶望的なまでの重量、おそらくは何十キロ、あるいは数百キロに及ぶ土砂や家屋の倒壊による重圧を、この背中で直接受け止めていたのです。
それだけではありません。
彼女の『胸骨』と『肋骨』の前面にも、内側から激しく押し返したことによる疲労骨折の痕跡が見つかりました。
これは物理的に、何を意味すると思いますか」
槇原は口の中の飴の破片を転がし、鋭い目をさらに細めた。
「背中から凄まじい重圧を受けながら、胸の前にある『何か』を、自らの肉体を盾にして押し包むように守っていた……ということか」
「その通りです。
人間という生物が、これほどの激痛を伴う骨折を起こしながら、なおも『人間の形』を保ってその圧迫に耐え続けた。
彼女の胸の前にあったものは、物理的に、そして空間的に守られなければならなかった。
それは、硬い物質ではなく、柔らかく、壊れやすい生命です。
槇原さん、二十年前のあの日、土砂崩れに巻き込まれた炭焼き小屋から、当時四歳だった娘の紗季さんだけが、なぜ傷一つなく救出されたのですか。
村の人間たちは、それを『大嵐の中で母親に置き去りにされ、奇跡的に生き残った憐れな子供』と呼びました。
ですが、それは大いなる逆転です。
奇跡などではない。
この背骨が、肋骨が、彼女を包み込む強固な『檻』となり、ゆりかごとなって、迫り来る土砂の恐怖から娘を命がけで守り抜いたのです」
解剖室の冷気の中に、暦の冷徹な、しかし確固たる事実の言葉が、重く沈み込んでいった。
骨が語る真実は、あまりにも凄絶で、そしてあまりにも圧倒的な母性の証明であった。
星野美津子は、娘を捨てて夜逃げなどしていなかった。
彼女は、最期の瞬間まで娘の身代わりとなり、その肉体が軋み、骨が砕ける激痛の中で力尽きたのだ。
槇原はしばらくの間、何も言わずに解剖台の上の茶褐色の骨を見つめていた。
彼の奥歯が、再びガリリとイチゴ飴を噛み砕く。
取調室で「あの人を母親だと思ったことはない」「自業自得だ」と冷淡に言い放った星野紗季の、頑なな横顔が脳裏に浮かんでいた。
彼女は、自分を命がけで生かし、その命の文字通りの盾となって死んでいった母親を、二十年間、激しく呪い続けてきたのだ。
他人が作り上げた、醜い嘘の物語のせいで。
「……あの娘は、何も知らん。
村の連中から『お前の母親は汚い悪女だ』と教え込まれ、それを信じることでしか、自分が捨てられたという傷から身を守れなかったんだ」
「生きている人間は、耳に心地よい言葉や、自分を守るための嘘を容易に信じます。
ですが、この骨が遺した『沈黙の詩』は、いかなる感情の潤色も拒絶する。
槇原さん、美津子さんはあの台風の夜、あの場所で死んだのです。
だとしたら――」
暦はゆっくりと顔を上げ、その鋭い瞳で槇原を真っ直ぐに見据えた。
「なぜ彼女の骨は、二十年後の今になって、そこから遠く離れた別の山林から掘り起こされたのですか。
死体は、自ら歩きません」
「ああ」
槇原はトレンチコートのポケットから手を抜き、不敵な笑みを浮かべた。
「誰かが死体を動かした。
美津子が台風の土砂崩れで死んでもらっては困る奴、あるいは、彼女がそこにいたこと自体を隠さなければならなかった奴が、この世にいるということだ。
そして、そいつが『駆け落ち』という極上の嘘を村にバラ撒いた。
……俄然、きな臭くなってきたな、暦」
槇原はそう吐き捨てると、踵を返して解剖室を出て行った。
彼の足音が遠ざかる中、暦は再び静かに顕微鏡の前に座り、ピンセットを握り直した。
生きている人間の傲慢な嘘を、骨という冷厳な物質が完全に剥ぎ取る瞬間は、確実に近づいていた。




