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法医学 宮内暦の事件簿  作者: 泉水遊馬
CASE2 冷たい揺籃(ようらん)

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第四話:檻の証言

西条署の槇原玲二が次に向かったのは、奥多摩の斜面にへばりつくようにして建つ、立派な日本家屋であった。

そこは、地域一帯の土木工事を長年一手に引き受けてきた「岩田工務店」の社長、岩田権三の邸宅である。

六十八歳になる岩田は、小肥りした体躯を上等な作務衣に包み、応接間の重厚な革製ソファに深く腰掛けていた。

部屋の隅の神棚からは、高価な線香の煙が頼りなく立ち上っている。

槇原は泥臭いトレンチコートのままソファに座り、無造作にイチゴ味の飴玉を口に放り込んだ。

ガリリ、と奥歯で噛み砕く無骨な音が、静かな応接間に不躾に響く。

岩田は不快そうに眉をひそめ、手元の湯呑みを乱暴に机に置いた。


「何の用だね、刑事さん。

星野美津子の骨が見つかったとかいう話なら、もう警察には話したはずだ。

あの女はだらしのない女だった。

二十年前のあの台風の夜、うちの事務所から金を盗み、男の車に飛び乗って山を降りたんだ。

幼い娘を置き去りにしてな。

村の人間なら誰でも知っている事実だよ」


岩田の言葉は、澱みなく滑らかであった。


挿絵(By みてみん)


それは二十年間、彼が周囲に語り続け、自らの中でも完成させてきた「完璧な物語」の響きを持っていた。

しかし、人間の言葉を一切信用しない槇原の耳には、その滑らかさこそが、過剰に塗り固められた漆喰の壁のように不自然に聞こえた。


「岩田さん。

当時、美津子さんが住んでいた炭焼き小屋は、台風の土砂崩れで完全に押しつぶされていた。

だが、四歳だった娘の紗季さんは、なぜか無傷で救出されている。

駆け落ちするほどの悪女が、なぜ嵐の夜にわざわざ娘を炭焼き小屋へ連れていき、自分だけが逃げ出すんだ。

辻褄が合わないとは思わんか」


「そんなことは知らんよ」


岩田は吐き捨てるように言い、鼻で笑った。


「悪女の考えることなど、まともな人間の物差しで測れるわけがないだろう。

男に目が眩んで、子供のことなど忘れていたのさ。

死体があんな山奥で見つかったのも、男に捨てられて、帰る場所もなくなって野垂れ死んだだけに決まっている。

これ以上、昔の蒸し返しで時間を取らせないでくれ」


岩田はそう言うと、露骨に顔を背けた。

その傲慢な態度と、一瞬だけ泳いだ老獪な瞳の動きを、槇原は見逃さなかった。

生きている人間は、都合の悪い真実から目を背けるために、いくらでも他者を泥で汚す。

槇原は無言で立ち上がり、岩田の邸宅を後にした。


同じ頃、T大学医学部法医学教室の薄暗い研究室に、一人の来訪者があった。

被害者の娘、星野紗季であった。

彼女は、西条署で槇原から渡された連絡先を手に、迷いながらもここまで足を運んだのだ。

その瞳には、母親への消えない憎悪と、それ以上に深い、己の過去に対する怯えが混ざり合っていた。

こよみは、サイズの合わない大きすぎる白衣のポケットに両手を突っ込んだまま、入ってきた紗季を冷ややかに見つめた。

引き出しから取り出したカロリーメイトのチョコレート味を無感動に齧り、挨拶も、遺族への慰めの言葉も一切口にしない。

そんなものは、この法医学教室においては無意味なノイズでしかなかった。


「あなたが、美津子さんの娘さんですね。

ここへ何をしに来ましたか。

死者の涙を期待しているのなら、お引き取りください。

ここには物質としての骨しかありません」


こよみの容赦のない言葉に、紗季は唇を噛み締め、拳を握りしめた。


「分かっています。

私はただ、あの人が本当に野垂れ死んだのかを確かめに来ただけです。

私は二十年間、あの人を恨んで生きてきました。

村の人たちから『お前を捨てた悪女の娘だ』と言われ、後ろ指を指されながら、保育士として必死に生きてきたんです。

あの人が私のすべてを壊した。

その真実を、この目で確かめたいだけです」


紗季の声は、激しい感情で震えていた。

こよみはその震えを冷徹に見つめ、一歩も動かなかった。


「人間は脳で都合の良い物語を紡ぎ、言葉で他者を呪います。

ですが、あなたの母親の骨は、あなたの言葉とは全く異なる詩を遺していました。

紗季さん、感情を捨てて、このレンズの先を見てください」


こよみは紗季を促し、顕微鏡の前に立たせた。

紗季は躊躇いながらも、レンズに片目を押し当てた。

そこに映し出されていたのは、美津子の肋骨の断面であった。

骨の内部組織が不自然に歪み、激しい圧迫によって何度も微細な骨折と修復を繰り返した痕跡が、生々しい模様となって広がっていた。


「見て。

それが、あなたの母親の肋骨です。

ここにある異常なまでの骨の変形は、上部から降ってきた絶望的な重圧に対し、彼女が『人間の形』を保ったまま、文字通り死ぬまで耐え続けた証拠です。

彼女の胸の骨と背骨は、内側にある『何か』を押し潰さないよう、強固な檻となって重圧を跳ね返していた。

紗季さん、あの日、台風の土砂崩れの中で、四歳のあなたを包み込んでいたのは、木造の古い小屋の壁などではありません。

この、ボロボロに砕け散った母親の肉体と骨です」


こよみの声には、一切の感情の揺らぎがなかった。

だからこそ、その事実の重みが、紗季の胸に容赦なく突き刺さった。


「え……?

そんな、嘘……だって、お母さんは私を置いて、男の人と……」


「骨は嘘をつきません」


こよみは冷酷に、しかし絶対的な真実を告げた。


「彼女はあなたを捨てて逃げ出してなどいない。

あなたの母親は、迫り来る土砂の恐怖の中で、自らの骨が軋み、砕ける激痛に耐えながら、あなたを守るための『檻』になり、揺籠になったのです。

世間の言葉は彼女を悪女と呼びましたが、この物質だけは、彼女が命を賭してあなたを守り抜いた『聖母』であったことを証明している」


顕微鏡から目を離した紗季の瞳から、大粒の涙が溢れ出し、冷たい床へと落ちていった。

二十年間、彼女の心を支え、同時に縛り付け続けてきた「憎しみ」という名の嘘の物語が、物言わぬ骨の真実によって、跡形もなく崩壊していく。

紗季はその場に崩れ落ち、声を上げて泣き続けた。

その光景を、こよみは大きすぎる白衣の袖をまくりながら、ただ無感動に冷めた目で見つめていた。

人間は嘘をつく。

だが、骨は決して裏切らない。

泣き叫ぶ娘の背後で、こよみの目は、すでに次なる「骨の告発」へと向けられていた。

美津子が命を賭して娘を守った場所から、なぜ骨が移動していたのか。

その物質的な矛盾を解き明かすための鍵は、すでにこよみの手の中にあった。


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