第五話:物質の告発
星野紗季が泣き崩れた法医学教室の片隅で、暦の作業は一歩も停滞していなかった。
彼女にとって、生者の流す涙は骨塩量を変化させる要因にはならず、したがって分析の対象外であった。
暦が今、偏光顕微鏡のレンズ越しに睨みつけているのは、星野美津子の遺体の「大腿骨の骨頭」および「椎骨の隙間」に強固に固着していた、微小な土砂の粒子であった。
それは二十年の歳月を経てなお、骨の多孔質な構造の奥深くに潜り込み、当時の記憶を保存しているカプセルのようであった。
解剖室の重い扉が開き、西条署の槇原玲二が戻ってきた。
彼の泥臭いトレンチコートからは、奥多摩の吹きすさぶ寒風の匂いが立ち上っている。
槇原は応接間での岩田権三との忌々しい会話を噛み消すように、新しいイチゴ味の飴玉を口に放り込んだ。
ガリリ、と激しく奥歯が鳴る。
「岩田の狸親父に揺さぶりをかけてきたが、面の皮が厚すぎて言葉じゃ割れん。
『あの女は金を盗んで男と逃げた』の一点張りだ。
当時の工務店の帳簿も二十年前の台風の混乱で紛失したことになってやがる。
生きている人間の足跡ってやつは、時間が経てばいくらでも泥を塗って消せるらしい」
槇原はそう吐き捨て、解剖台の横のパイプ椅子に腰掛けた。
暦は顕微鏡からゆっくりと顔を上げ、万年寝不足の漆黒のクマが刻まれた目で刑事を見つめた。
彼女はサイズの合わない大きすぎる白衣のポケットから、一通のデータシートを取り出し、机の上に滑らせた。
「人間の足跡は消せても、土の記憶は消せませんよ、槇原さん。
これを見てください。
遺体が発見された奥多摩の山林の地質データと、私が美津子さんの骨の隙間から採取した『土』のX線回折(線かいせつ)による成分分析結果です」
槇原はシートを手に取り、眉をひそめた。
そこには複雑な折れ線グラフと、化学物質の比率が並んでいる。
「俺にわかりやすく喋れ、暦。
この数字は何を意味している」
「遺体が発見された斜面の土壌は、主に花崗岩が風化した砂質土です。
酸性度が強く、有機物を急速に分解する性質を持っています。
ですが、美津子さんの骨の、特に深い亀裂の奥から検出されたのは、全く異なる性質の土でした。
モンモリロナイトを主成分とする、極めて粘性の高い『赤土(粘土質土)』です。
さらに、その粘土の中には、微量の木炭片と、不自然なほど高濃度の鉄イオンが含まれていました。
これは、彼女の骨が、あの山林の地中で二十年間を過ごしたのではないことを物理的に証明しています」
暦はカロリーメイトのチョコレート味を一本取り出し、前歯で小さく齧った。
淡々と事実を述べる彼女の声には、生者の推測を許さない冷厳な説得力があった。
「彼女の骨に固着していた赤土と木炭片――これは、二十年前に彼女が土砂崩れに巻き込まれた『炭焼き小屋の周辺の地質』と完全に一致します。
つまり、美津子さんはあの台風の夜、炭焼き小屋の跡地で一度、土砂に深く埋まったのです。
骨の表面の脱灰パターンから見て、彼女の遺体は、少なくとも数年間はその粘土質の土の中に安置されていた。
しかし、現在見つかったのは、そこから三キロメートルも離れた別の山林の斜面です。
死体は、自分の意志で土を掘り起こし、山を移動したりしません」
槇原の口の中で、イチゴ飴の動きがピタリと止まった。
彼の鋭い眼光が、シャーカステンの白い光に照らされた美津子の骨格へと向けられる。
ジグソーパズルの歪んだピースが、法医学という冷徹なメスによって、あるべき場所へと強制的に嵌め込まれていく。
「つまり、こういうことか。
二十年前のあの日、美津子は確かに炭焼き小屋で土砂崩れに遭い、娘を守って死んだ。
その後、誰かが土砂の中から美津子の遺体を探し出し、わざわざ別の山に運び、埋め直した。
そして、世間には『あの女は金を盗んで男と逃げた』という噂を流した」
「その通りです」
暦は白衣の袖を無造作にまくり上げ、ピンセットの先でデータの一点を叩いた。
「死体をわざわざ掘り起こして別の場所へ隠蔽し、失踪(駆け落ち)という極上の嘘を仕立て上げる必要があった人物。
美津子さんが、あの台風の夜に『その場所で死んでいては都合が悪かった』人物です。
槇原さん、美津子さんが死の直前まで極度の飢餓状態にあったという事実を、思い出してください。
彼女は台風によって偶然死んだのではない。
あの夜、すでに何者かによって『餓死寸前の状態』でどこかに監禁されており、そこを台風の土砂崩れが襲ったのです。
そして、その監禁場所こそが、当時の岩田工務店が管理していた敷地、あるいは炭焼き小屋だったのではないですか」
解剖室の空気が、一瞬にして凝固した。
生きている人間のドス黒い業が、物言わぬ骨の周囲に、不気味な影となって浮かび上がってくる。
岩田権三という地元の有力者が、二十年前に犯した真の罪。
それは、一人の若い女性を社会から隔離し、飢えさせ、最期は嵐のドサクサに紛れてその死を隠蔽したという、おぞましい復讐劇の輪郭であった。
槇原は、椅子からゆっくりと立ち上がった。
彼の顔には、容疑者を追い詰める猟犬の、冷酷な笑みが浮かんでいた。
奥歯がガリリと、口の中の飴玉を完全に粉砕する。
「死体遺棄の時効はとっくに過ぎている。
だが、監禁致死、あるいは殺人罪の影が見えるとなれば、話は別だ。
美津子の骨が、犯人の指紋の代わりになって、奴の喉元に噛みつこうとしているわけだな」
「骨はすべてを記憶しています」
暦は再び顕微鏡のレンズへと顔を戻し、冷たく言い放った。
「人間の言葉がどれほど巧妙であっても、物質としての地球の土と、リン酸カルシウムの結晶は、決して騙せません。
槇原さん、岩田の工務店が当時扱っていた資材、特に建材のデータを集めてください。
美津子さんの骨の『爪のあった場所』から、まだ説明のつかない不審な微粒子が見つかっています。
これが、奴の嘘を完全に粉砕する最後の鎹になるはずです」
「上等だ、暦。
その詩の最後の1行、俺が必ず岩田の目の前で読み上げてやるよ」
トレンチコートを翻し、槇原は解剖室を飛び出していった。
後に残されたのは、蛍光灯の青白い光と、顕微鏡に向き合う暦の小さな背中だけだった。
引き出しから取り出されたカロリーメイトの2本目が、沈黙の室内に、静かな咀嚼音を再び響かせ始めていた。




