第六話:鉄の枷
T大学医学部法医学教室の空気は、いよいよ凝固の度合いを増していた。
解剖台の上に鎮座する星野美津子の白骨は、今や一つの強固な「告発状」として、部屋の主である暦を媒介に機能し始めている。
暦は、袖がだらしなく余った大きすぎる白衣のポケットから左手を出し、右手で持った超微細ピンセットの先を睨みつけていた。
彼女が狙いを定めているのは、美津子の右手の
「末節骨」
すなわち、かつて爪が存在していた指先のごく微小な隙間であった。
万年寝不足の目をこすり、暦は引き出しから最後のカロリーメイトのチョコレート味を取り出した。
それを無感動に前歯で噛み砕きながら、偏光顕微鏡のピントを合わせる。
生者の流す涙の理由には興味がないが、死者が物理の世界に遺した「最後の足掻き」の成分には、偏執病的なまでの執着を隠さない。
彼女の脳細胞は、顕微鏡のレンズの先にある、茶褐色の微小な結晶体の正体を完全に突き止めようとしていた。
バタン、と解剖室の重い扉が乱暴に開いた。
西条署の槇原玲二が、肩で息をしながら滑り込んできた。
彼のトレンチコートには、奥多摩の泥ではなく、どこかの古い倉庫の埃が白く付着している。
槇原はポケットから新しいイチゴ味の飴玉を探し出そうとしたが、空の袋を認めると、舌打ちをしてそれをゴミ箱へ投げ捨てた。
飴の代わりに、彼の奥歯が怒りでガリリと鳴る。
「暦、当時の岩田工務店の資材管理台帳の写しを手に入れたぞ。
20年前の台風の直前、あの狸親父は村の端にある古い『亜鉛メッキ鋼板』製の備蓄倉庫を解体したことにしてやがった。
だが、その解体届が出されたのは、美津子が失踪したとされる日の3日後だ」
暦は顕微鏡からゆっくりと顔を上げ、黒いクマの奥にある瞳を不気味に輝かせた。
「やはり、線がつながりましたね、槇原さん。
これを見てください。
美津子さんの右手の指先、爪の裏側にあたる組織から検出された、超微量成分の元素分析結果です」
暦は、白いノイズのような波形が描かれたデータ用紙を、ピンセットで槇原の前に差し出した。
「彼女の指先から見つかったのは、ただの山の土ではありません。
酸化鉄の錆、そして、それに不自然に付着した『高純度の亜鉛』と、特殊な『防錆用塗料』の成分です。
これは、彼女が死の直前、非常に強固な亜鉛メッキ鋼板、すなわち、鉄製の扉か、あるいは金属製の檻のようなものを、素手で激しく引っ掻き続けていたことを意味します。
それも、爪が剥がれ、骨が直接その金属に擦りつけられるほどの狂気的な力で、です」
槇原の目が、獣のように鋭く光った。
彼の脳内で、20年前の嵐の夜の、ドス黒い光景が完全に再構成されていく。
「あの小屋は、ただの炭焼き小屋じゃなかった。
岩田が美津子を閉じ込めるために、内側から開かないよう金属の板と錠前で補強した、臨時の『監禁部屋』だったんだ。
美津子は、自分が盗みの濡れ衣を着せられ、そこに閉じ込められている間、餓死寸前の状態に置かれていた。
そして、あの台風の夜、土砂崩れが小屋を襲った」
「はい。
彼女は迫り来る土砂の音を聞きながら、自らの指が破壊されるのも忘れて、その鉄の壁を掻きむしり、脱出しようとしたのです。
なぜなら、その狭い監禁部屋の中には、自分だけでなく、4歳だった娘の紗季さんも一緒に閉じ込められていたから」
暦の声は、どこまでも平坦で、冷徹であった。
しかし、その内容の凄絶さは、解剖室の壁を震わせるほどの重圧を持っていた。
美津子は、男と逃げるために娘を置き去りにしたのではない。
岩田によって娘ごと監禁され、嵐の夜、崩落する土砂の中で、せめて娘だけでも助けようと、自らの肉体を盾にして押し包んだのだ。
鉄の壁に刻まれた彼女の爪の跡は、そのまま彼女の指の骨に、消えない『鉄の成分』として記憶されていた。
「岩田の目的は、美津子の口封じか、あるいは歪んだ独占欲の果ての凶行か。
いずれにせよ、あの男は土砂崩れで二人が死んだと思い込み、後から様子を見にいった。
ところが、奇跡的に娘の紗季だけが生きていた。
焦った岩田は、美津子の遺体だけを別の山へ運び出し、紗季には『お前の母親は金を盗んで男と逃げた』と吹き込んだ。
4歳の子供の記憶など、大人の都合でいくらでも書き換えられるからな」
槇原は拳を固く握りしめ、解剖台の横の鉄パイプを激しく叩いた。
ゴン、という鈍い音が室内に響き渡る。
人間の言葉が紡いできた20年間の嘘が、今、物言わぬ骨の分子構造によって、完全に粉砕された瞬間であった。
「時効という名の法律の壁が、あの老いぼれを守っていると思っていたが……。
暦、お前が暴き出したこの『爪のなかの鉄』は、単なる死体遺棄の証拠じゃない。
現在もなお、娘の紗季の心を監禁し続けている、岩田の『現在進行形の犯罪』の証拠だ。
監禁致死罪の公訴時効は、法改正によって撤廃されている。
20年前の嵐の夜の罪は、今、この令和の法廷で裁くことができる」
「私は法医学者ですから、裁判の行方には興味がありません」
暦はそう言うと、大きすぎる白衣の袖を再びまくり直し、顕微鏡のレンズへと視線を戻した。
「ですが、人間の脳がどれほど醜い嘘を吐こうとも、このリン酸カルシウムの結晶だけは、死者の尊厳を裏切らない。
槇原さん、その岩田という男の家に、美津子さんの爪の成分と完全に一致する、20年前の『亜鉛メッキの廃材』がまだ眠っているはずです。
あの男の性格なら、自らの罪の戦利品として、あるいは処分に困って、敷地の奥に隠している。
それを探して、彼女の骨の詩に、最後のピリオドを打ってあげてください」
「ああ、行ってくる。
極上のイチゴ飴を、あの糞ジジイの喉奥に詰まらせてやるよ」
槇原はトレンチコートの襟を立て、獲物を見つけた猟犬の足取りで、解剖室を疾風のように去っていった。
一人残された暦は、静まり返った部屋の中で、顕微鏡の冷たい金属の感触を指先に感じていた。
生きている人間の嘘を暴くための、彼女と死者との長い対話が、ようやく一つの結末を迎えようとしていた。




