第七話:弾けない指の旋律
「あの子は……絢斗は、誰も救おうなんて思っていなかった」
夕闇が完全に支配した第一レッスン室で、宇佐美楓は絞り出すようにそう言った。
彼女は背の後ろに隠していた左手をゆっくりと前に戻し、愛おしむようにその強張った指先を見つめた。
「一千万円のプレート? ええ、確かに絢斗はそれを私に持ってきました。
『これであの術式を受けろ、そうすれば君の指はまた動くようになる』って。
……でもね、刑事さん。それは愛なんかじゃない。
あの子にとって、私は自分を映す鏡でしかなかったのよ」
楓の瞳に、十年前の青い情念がよみがえる。
彼女はよろめくようにスタインウェイの鍵盤に手を置き、一本の指だけで、ぽつん、と高音のキーを叩いた。
「私たちは同じ年齢で、同じ時期にジストニアを発症した。
でも、絢斗は『天才』で、私は『凡才』だった。
天才のあの子は、自分が壊れていく恐怖に耐えられなかったの。
だから、凡才の私に先に実験をさせようとしたのよ。
その特注のプレートを私の腕に埋め込んで、指が動くようになるか、それともピアニストとして完全に破滅するか……あの子は、私の骨を使って、自分の未来を占おうとしたの!」
激しい告白だった。
その言葉は、人間のドロドロとした醜いエゴと、天才ゆえの孤独な狂気に満ちていた。
「私は拒絶しました。
あの子の身代わり(モルモット)になるなんて真っ平ご免だった。
私がプレートの受け取りを拒むと、絢斗は狂ったように笑って、
『いいよ、だったら僕がこれを自分の腕に埋める。君の分の絶望も、全部僕が背負って、誰も到達できない地獄でピアノを弾いてみせる』
……そう言って、去っていった。
それが、私が生きてるあの子を見た最後です」
楓はそこで言葉を切り、深く息を吐いた。
「その後、御子柴社長が自供しました。
『絢斗が死んだ。オフィスで首を吊った』って」
「首を吊った?」
槇原が眉をひそめ、口の中のイチゴ飴をカチリと鳴らした。
「ああ。御子柴は取調室で、あいつは失踪したの一点張りだったがな。
やっぱり、最初から死んでいたか」
「ええ。御子柴社長はパニックになっていました。
コンクール直前の看板スターの自殺なんて世間に公表されたら、莫大な違約金で事務所は一発で破産する。
だから、あの方は絢斗の死体を隠し、あらかじめ別件の契約更新用に書かせてあった『履歴書』の日付を書き換え、直筆の手紙を偽造して『失踪劇』を仕組んだんです。
私は、その工作を黙認する代わりに、音楽教室の講師の座を斡旋してもらった……。
これが、十年前の真実です」
楓は冷たい笑みを浮かべ、暦と槇原を交互に見た。
「私はあの子を殺していません。
死体を山に埋めたのは御子柴社長です。
死体遺棄の時効はとうに過ぎているはず。
……これで満足ですか、お巡りさん」
レッスン室に、再び重苦しい沈黙が降りた。
楓の告白は筋が通っており、御子柴の動機とも完全に一致する。
生きて動く人間の言葉としては、これ以上ない「完結した物語」だった。
しかし。
「完璧な嘘ですね」
暦は白衣のポケットから手を引き抜き、冷徹な一歩を踏み出した。
彼女の目は、涙を浮かべる楓の顔など一瞥もせず、ただただ、彼女が触れているピアノの鍵盤へと向けられていた。
「宇佐美先生。生きている人間は、そうやって自分のプライドや保身のために、死者の物語を都合よく書き換える。
……ですが、先ほども言いました。骨は絶対に嘘をつきません」
暦はタブレットの画面を操作し、逢坂絢斗の『首の骨(頸椎)』のレントゲン写真を空間に提示した。
「御子柴が発見したとき、逢坂さんは本当に首を吊っていたのかもしれません。
ですが、それは『死後、自殺に見せかけるために吊るされた』ものです。
逢坂さんの第三・第四頸椎の損傷痕、および舌骨の骨折の角度を解析した結果、彼は背後から、極めて限定的な力で頸部を圧迫されて窒息死しています。
それも、ただ力任せに首を絞めたのではない。
柔道などの格闘技の技でもない。
……ピアノを弾く人間独特の、ある特定の『指の動き』によってです」
「な、何を言って……」
「ジストニアを発症した人間は、特定の動作をしようとするとき、意思に反して筋肉が異常に硬縮します。
逢坂さんの首に残された骨の圧迫痕には、人間の親指、人差し指、そして薬指の先端が、常軌を逸した力で一点に集中して食い込んだ痕跡がありました」
暦は自分の左手を持ち上げ、中指と薬指を不自然に反り返らせてみせた。
それは、先ほどから楓がずっと見せている、ジストニアの『代償運動』のフォームと完全に一致していた。
「この指の形のまま、狂気的な力で首を絞めなければ、あの骨折痕は生まれません。
宇佐美先生、逢坂さんの首を絞めたのは、御子柴ではない。
……あなたの、その動かないはずの『左手』です」
(彼はあなたを実験台にしようとしたのではない。
ただ、同じ絶望を共有したあなたと、最後の和音を奏でようとしただけだった。
それを、あなたの歪んだプライドが許さなかった)
「生きている人間の言葉は、どれだけでも飾れる」
槇原がトレンチコートのポケットからゆっくりと手錠を取り出した。
その金属の冷たい音が、静かな部屋にカチャリと響く。
「だが、あの山の底で十年間眠っていた逢坂くんの骨はな、あんたのその『指の形』を、片時も忘れずに覚えていたんだよ」
宇佐美楓の顔から、今度こそすべての仮面が剥がれ落ちた。
彼女はその場に崩れ落ち、動かない左手を床に叩きつけながら、獣のような悲鳴をあげて泣き叫んだ。
凸凹な二人が追いかけた十年前の残響は、白い骨が語る真実によって、ついに完全な終止符を打たれた。




