表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
法医学 宮内暦の事件簿  作者: 泉水遊馬
CASE1 骨が語る詩

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
8/52

第七話:弾けない指の旋律

「あの子は……絢斗は、誰も救おうなんて思っていなかった」


夕闇が完全に支配した第一レッスン室で、宇佐美楓は絞り出すようにそう言った。

彼女は背の後ろに隠していた左手をゆっくりと前に戻し、愛おしむようにその強張った指先を見つめた。


「一千万円のプレート? ええ、確かに絢斗はそれを私に持ってきました。

『これであの術式を受けろ、そうすれば君の指はまた動くようになる』って。

……でもね、刑事さん。それは愛なんかじゃない。

あの子にとって、私は自分を映す鏡でしかなかったのよ」


楓の瞳に、十年前の青い情念がよみがえる。

彼女はよろめくようにスタインウェイの鍵盤に手を置き、一本の指だけで、ぽつん、と高音のキーを叩いた。


「私たちは同じ年齢で、同じ時期にジストニアを発症した。

でも、絢斗は『天才』で、私は『凡才』だった。

天才のあの子は、自分が壊れていく恐怖に耐えられなかったの。

だから、凡才の私に先に実験をさせようとしたのよ。

その特注のプレートを私の腕に埋め込んで、指が動くようになるか、それともピアニストとして完全に破滅するか……あの子は、私の骨を使って、自分の未来を占おうとしたの!」


激しい告白だった。

その言葉は、人間のドロドロとした醜いエゴと、天才ゆえの孤独な狂気に満ちていた。


「私は拒絶しました。

あの子の身代わり(モルモット)になるなんて真っ平ご免だった。

私がプレートの受け取りを拒むと、絢斗は狂ったように笑って、

『いいよ、だったら僕がこれを自分の腕に埋める。君の分の絶望も、全部僕が背負って、誰も到達できない地獄でピアノを弾いてみせる』

……そう言って、去っていった。

それが、私が生きてるあの子を見た最後です」


楓はそこで言葉を切り、深く息を吐いた。


「その後、御子柴社長が自供しました。

『絢斗が死んだ。オフィスで首を吊った』って」


「首を吊った?」


槇原が眉をひそめ、口の中のイチゴ飴をカチリと鳴らした。


「ああ。御子柴は取調室で、あいつは失踪したの一点張りだったがな。

やっぱり、最初から死んでいたか」


「ええ。御子柴社長はパニックになっていました。

コンクール直前の看板スターの自殺なんて世間に公表されたら、莫大な違約金で事務所は一発で破産する。

だから、あの方は絢斗の死体を隠し、あらかじめ別件の契約更新用に書かせてあった『履歴書』の日付を書き換え、直筆の手紙を偽造して『失踪劇』を仕組んだんです。

私は、その工作を黙認する代わりに、音楽教室の講師の座を斡旋してもらった……。

これが、十年前の真実です」


楓は冷たい笑みを浮かべ、こよみと槇原を交互に見た。


「私はあの子を殺していません。

死体を山に埋めたのは御子柴社長です。

死体遺棄の時効はとうに過ぎているはず。

……これで満足ですか、お巡りさん」


レッスン室に、再び重苦しい沈黙が降りた。

楓の告白は筋が通っており、御子柴の動機とも完全に一致する。

生きて動く人間の言葉としては、これ以上ない「完結した物語」だった。

しかし。


「完璧な嘘ですね」


こよみは白衣のポケットから手を引き抜き、冷徹な一歩を踏み出した。

彼女の目は、涙を浮かべる楓の顔など一瞥もせず、ただただ、彼女が触れているピアノの鍵盤へと向けられていた。


「宇佐美先生。生きている人間は、そうやって自分のプライドや保身のために、死者の物語を都合よく書き換える。

……ですが、先ほども言いました。骨は絶対に嘘をつきません」


こよみはタブレットの画面を操作し、逢坂絢斗の『首の骨(頸椎)』のレントゲン写真を空間に提示した。


「御子柴が発見したとき、逢坂さんは本当に首を吊っていたのかもしれません。

ですが、それは『死後、自殺に見せかけるために吊るされた』ものです。

逢坂さんの第三・第四頸椎の損傷痕、および舌骨の骨折の角度を解析した結果、彼は背後から、極めて限定的な力で頸部を圧迫されて窒息死しています。

それも、ただ力任せに首を絞めたのではない。

柔道などの格闘技の技でもない。

……ピアノを弾く人間独特の、ある特定の『指の動き』によってです」


「な、何を言って……」


「ジストニアを発症した人間は、特定の動作をしようとするとき、意思に反して筋肉が異常に硬縮します。

逢坂さんの首に残された骨の圧迫痕には、人間の親指、人差し指、そして薬指の先端が、常軌を逸した力で一点に集中して食い込んだ痕跡がありました」


こよみは自分の左手を持ち上げ、中指と薬指を不自然に反り返らせてみせた。

それは、先ほどから楓がずっと見せている、ジストニアの『代償運動』のフォームと完全に一致していた。


「この指の形のまま、狂気的な力で首を絞めなければ、あの骨折痕は生まれません。

宇佐美先生、逢坂さんの首を絞めたのは、御子柴ではない。

……あなたの、その動かないはずの『左手』です」


(彼はあなたを実験台にしようとしたのではない。

ただ、同じ絶望を共有したあなたと、最後の和音を奏でようとしただけだった。

それを、あなたの歪んだプライドが許さなかった)


「生きている人間の言葉は、どれだけでも飾れる」


槇原がトレンチコートのポケットからゆっくりと手錠を取り出した。

その金属の冷たい音が、静かな部屋にカチャリと響く。


「だが、あの山の底で十年間眠っていた逢坂くんの骨はな、あんたのその『指の形』を、片時も忘れずに覚えていたんだよ」


宇佐美楓の顔から、今度こそすべての仮面が剥がれ落ちた。

彼女はその場に崩れ落ち、動かない左手を床に叩きつけながら、獣のような悲鳴をあげて泣き叫んだ。

凸凹な二人が追いかけた十年前の残響は、白い骨が語る真実によって、ついに完全な終止符を打たれた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ