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法医学 宮内暦の事件簿  作者: 泉水遊馬
CASE1 骨が語る詩

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第六話:埃をかぶった楽譜

「……宇佐美、楓さん」


こよみはその名前を舌の上で転がすようにして呟いた。

彼女の視線は、楓の顔ではなく、楽譜を抱きしめるその『左手の指先』に完全に固定されている。

中指と薬指が、まるで目に見えない糸で引っ張られているかのように、手の甲の側へと不自然に反り返っている。

それは、脳の指令が筋肉に正しく伝わらず、意思に反して指が硬直してしまう、局所性ジストニアの典型的な初期症状、いや、無理な負荷をかけ続けた結果の『代償運動』のフォームそのものだった。


「音大時代の、同級生……」


槇原がパイプ椅子から立ち上がり、重い足取りで楓に近づいた。

彼のコートから、かすかにタバコの残臭と、さっき噛み砕いたイチゴ飴の人工的な甘い香りが漂う。


「あんた、十年前の逢坂絢斗の失踪事件のとき、警察の聞き込みにこう答えてるな。

『彼はコンクールのプレッシャーで精神的に追い詰められていた。失踪直前はほとんど口をきいてくれず、何を考えていたか分からなかった』……と。

この調書に間違いはねえな?」


楓は小さく息を呑み、胸元の楽譜をさらに強く抱きしめた。

古い紙の擦れる音が、誰もいないレッスン室に寂しく響く。


「はい。間違いありません。

絢斗は……完璧主義者でしたから。

自分の演奏に納得がいかなくなって、すべてを放り出して消えてしまった。

私たちはみんな、そう思っていました」


「みんな、か。その『みんな』の中に、所属事務所の社長だった御子柴も含まれてるのか?」


槇原の問いに、楓の肩が微かに跳ねた。

だが、彼女はすぐに視線を落とし、小さく首を振った。


「御子柴社長がどう考えていたかは知りません。

私はただの同級生で、あの方にとっては絢斗の『おまけ』のような存在でしたから」


「おまけ、ですか」


一歩前へ出たこよみの声は、夕暮れの教室の空気を凍らせるほど冷徹だった。

そしてモニターの代わりに楓の手元を指し示した。


「宇佐美先生、あなたのその左手、いつからその状態ですか?」


「え……?」


「局所性ジストニア。

ピアニストにとっての死刑宣告と呼ばれる病です。

あなたの左手の中指と薬指は、すでに屈筋と伸筋のバランスが完全に破綻しています。

先ほど、あなたが弾いていたショパンの夜想曲……一見すると完璧な演奏でしたが、低音部の和音のいくつかが、不自然に間引かれていました。

指が動かないのを、ペダリングと右手のアゴーギクで必死に誤魔化している。

……違いますか?」


楓の顔から、すっと血の気が引いていくのが分かった。

彼女は、まるで凶器を見咎められた犯人のように、左手を白衣を着た若い女の視線から隠そうと、背中の後ろへ回した。


「失礼ね……。私はただ、少し指を痛めているだけです。よくある腱鞘炎です」


「嘘ですね。骨と筋肉は、腱鞘炎とジストニアの区別を絶対に見誤りません」


こよみは歩を進め、埃をかぶったスタインウェイの鍵盤に、自分の細い指先をそっと触れさせた。


「十年前、逢坂絢斗さんは失踪する数ヶ月前、自分の個人口座から一千万円という巨額の現金を動かしています。

目的は、海外の医療機関に特注オーダーメイドで発注された、チタン製の金属プレートの購入でした。

……槇原さん、ジストニアの治療において、骨に直接プレートを固定し、筋肉の硬縮を物理的に抑制する術式が存在しますね」


「ああ、最先端の、だが成功率も低けりゃ費用も莫大なギャンブルみたいな手術だな」


「ええ。当時の逢坂さんは、すでにクラシック界のスターでしたから、一千万円の用意は難しくなかったはずです。

ですが、おかしいと思いませんか?

失踪直前の彼の両手の指の骨は、凄惨な『疲労骨折』を繰り返していました。

もし彼が、自分のためにそのプレートを購入し、左腕に埋め込んだのだとしたら……手術の後に、指を骨折するほどの負荷をかけるような演奏は、医学的に絶対に不可能です。

プレートを固定した時点で、骨への異常な負荷は分散されるはずですから」


こよみの瞳が、暗がりのレッスン室でガラス玉のように鋭く光る。


「つまり、逢坂さんは、その特注プレートを『自分のため』に買ったのではない。

……同じ病を発症し、ピアニストとしての未来を絶たれかけていた、別の誰かのために注文したんです」


レッスン室の空気が、完全に凝固した。

楓は背中の後ろで、自分の左手を狂ったようにきつく握り締めていた。

爪が皮膚に食い込み、微かな震えが彼女の全身に伝わっていく。


「彼はそのプレートを、あなたに渡そうとしたのではないですか?

宇佐美楓さん」


こよみの言葉は、確固たる質量を持って楓に突き刺さった。


(逢坂絢斗は、自分の指が壊れていく恐怖の中で、同じ絶望の淵にいた彼女を救おうとした。

一千万円のプレートは、彼なりの、あまりにも不器用で巨大な『愛の証明』だったはずだ)


「……違う」


楓の口から、かすれた声が漏れた。


「違う、違います……! 絢斗は、あの子はそんなこと……!」


「御子柴の取調室での動揺、そしてあなたが今見せた代償運動。

すべてのパズルピースが、十年前のあの夜へと向かって収束を始めています」


槇原がトレンチコートのポケットに手を突っ込み、新しいイチゴ飴の袋をカサリと鳴らした。

彼の目は、哀れみと同情、そして刑事としての冷徹な追及の色を孕んでいる。


「宇佐美さん。あんた、あの夜、逢坂くんとここで会ったな?

御子柴が偽造したあの『履歴書』と『遺書』の裏側にある、本当の協奏曲の続きを……そろそろ聞かせてもらおうか」


夕闇が完全にレッスン室を飲み込み、古いピアノの黒い筐体が、まるで巨大な棺桶のように二人の前に横たわっていた。

十年の沈黙を破り、伝説の天才ピアニストの最期にまつわる「本当の嘘」が、いま剥ぎ取られようとしていた。


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