第五話:未完の協奏曲
西条署の取調室。
灰色に塗装された壁の向こうで、御子柴徹はパイプ椅子に背を丸め、終始黙秘を貫いていた。
机の上に置かれたカツカツという時計の針の音だけが、息詰まるような沈黙を刻んでいる。
「まだ喋らねえか」
取調室のハーフミラーを挟んだ観察室で、槇原は不機嫌そうにイチゴ飴の包み紙を破り、口に放り込んだ。
横に立つ暦は、相変わらず手元のタブレットに表示された骨の3Dモデルを注視している。
「御子柴は十年前、逢坂絢斗の遺書と履歴書を偽造し、彼の『失踪』を演出しました。
それによって得られた未発表音源の利権は、当時の彼の事務所を救うに十分な額です。
ですが、槇原さん……御子柴は、本当の意味での『主犯』ではありません」
「何?
あいつが偽装工作をして、死体をあの山に遺棄した急先鋒なのは間違いねえだろ」
「死体を遺棄し、書類を偽造したという意味では主犯でしょう。
ですが、彼は逢坂さんを『殺して』はいません。
いいえ、正確に言うなら、彼一人ではあの完璧な失踪劇を完遂することは不可能だったのです」
暦は画面をスクロールし、別の資料を提示した。
それは、十年前の事件関係者の一覧と、当時のミコシバ・プロモーションの財務諸表だった。
「失踪の数ヶ月前、高額な特注チタンプレートの購入代金が、事務所の経費ではなく『逢坂絢斗個人のプライベート口座』から一括で支払われています。
その額、およそ一千万円。
……槇原さん、彼は自分のためだけにそのプレートを買ったのではありません」
「自分のためじゃない?
じゃあ、誰のために買ったって言うんだ。
それに、御子柴が殺してねえなら、一体誰があいつの首を絞めたって言うんだよ」
(彼は自分の指が動かなくなる恐怖の中で、別の誰かのためにその一千万円を支払った。
そして御子柴は、その『誰か』を庇うため、あるいはその人物と共謀して、十年前の嘘を組み立てた)
暦の瞳に、激しい科学者の執念が宿る。
「……よし。
御子柴の周辺、特に十年前、逢坂に最も近い場所にいた人間をもう一度洗い直すぞ」
槇原は口の中の飴をガリリと噛み砕き、上着の襟を立てた。
翌朝、二人は手がかりを求めて、逢坂絢斗が失踪直前まで頻繁に出入りしていたという、都内の格式高い音楽大学の跡地へと向かった。
現在は統廃合され、数年後には解体されることが決まっているその古い校舎は、夏の陽光を浴びながら、まるで巨大な墓標のようにひっそりと佇んでいる。
「ここに、逢坂さんの過去の『残響』があるはずです」
暦は白衣のポケットからカロリーメイトを取り出し、歩きながら機械的に口へ運んだ。
パサパサとした食感が、真夏の焦燥感をさらに煽る。
校舎の奥、かつてピアノ科の学生たちがしのぎを削ったという第一レッスン室の重い防音扉を開けると、そこには埃をかぶった一台のスタインウェイのグランドピアノが、ぽつんと置かれていた。
「おい、宮内。
こんな誰もいない廃校舎に、何が残ってるって言うんだよ」
槇原が不満げに声をあげた、その時だった。
「どなたですか」
部屋の隅、遮光カーテンの影から、一人の女性が静かに姿を現した。
彼女は驚いた風でもなく、ただ手に持った古い楽譜を胸に抱え、二人を見つめている。
その女性の現れ方に、暦の観察眼が不自然な違和感を捉えた。
彼女は歩く際、左腕の肘を不自然に内側へ巻き込み、まるで見えない重荷をかばうような特異な姿勢をとっていたのだ。
「私たちは西条署の者です。
十年前の逢坂絢斗さんの件で、当時の関係者にお話を伺っています。
あなたは?」
槇原が警察手帳を掲げると、女性は自嘲気味な笑みを浮かべ、胸の楽譜をきつく抱きしめた。
「……私は、ここで講師をしています、宇佐美楓と申します。
絢斗とは、音大時代の同級生でした」
夕闇が迫る古いレッスン室で、新たな関係者との遭遇。
しかし、暦の視線は、彼女の顔ではなく、その不自然に強張った『左手の指先』へと完全に釘付けになっていた。
(あの左手のフォーム……まさか)
十年前の嘘を暴くためのミッシングリンクが、今、静かに繋がり始めようとしていた。




