第八話:無響の温室 ―― 二つの若さ
コンクリートの地下階段を降りきった先には、地上からは想像もつかない巨大な空間が広がっていた。
空間の壁面すべてが、音を完全に吸収する特殊な波形炭素プレートで覆われている。
足音すらもその漆黒の吸音材に吸い込まれ、自らの心臓の鼓動スタッツだけが、鼓膜の内側で暴力的に跳ね返るような完全な無響室。
その中央に、周囲の硫黄温泉水を利用した超高温の熱交換器と、冷たい電子音を立てる青い巨大サーバーラックが設置されていた。
そしてその中央のガラスケージの中には、不気味なほど青々と茂る「クローバーの温室」が構築されている。
「……偏光の、最終シミュレーターね」
暦はアタッシュケースを胸に抱え、その温室の前に立ち止まった。
温室のガラスには、3DマイクロCTと連動した「偏光板」が何重にも重ねられ、透過する光の波長をミリメートル単位で屈折させている。
その光を浴びているすべての植物は、細胞分裂のプログラムを極限まで加速され、あるいは完全に「巻き戻されて」いた。
「よく来たね、宮内くん。
お祝いを言おう、私の重水素のイニシャルから、よくぞこの座標を逆算してくれた」
無響室の奥から、白衣を着た1人の老人が歩み出てきた。
五条顕。
10年前とまったく変わらない、整えられた白い髪と、フレームのない眼鏡。
そのレンズの奥の目は、自らの研究室で最も優秀だった弟子の帰還を、まるで授業の始まりを待つかのように温かく見つめていた。
「五条先生……」
暦の瞳が、憎悪と純粋な科学的知的好奇心のパラドックスによって、激しく収縮した。
「一ノ瀬舞の網膜データを歪め、阿久津蓮の骨髄をハッキングし、老いた富豪たちを偏光の檻に閉じ込めた。
それが、あなたの作った『13桁の完全なバグ』の正体ですか」
「バグではないよ、宮内くん。
これは人類のインフラを再設計するための、最も美しい最適化のスタッツだ」
五条は細い指先で、温室のガラスを愛おしげに撫でた。
「人間は光の二面性を理解したつもりでいるが、偏光という『進む方向の偏り』の物理的干渉力を侮りすぎている。
特定の複屈折ストレスを脳と網膜のタンパク質に与え続ければ、生体の時間スタッツは人工的にリセットできるのだよ。
彼が、その完璧な証明だ」
五条が合図を送ると、サーバーラックの陰から、1人の若者が静かに姿を現した。
その姿を見た瞬間、槇原は構えていた拳銃の引き金にかけた指を、思わず硬直させた。
20代前半の、引き締まった強靭な肉体。
滑らかな皮膚と、黒々とした豊かな髪。
だが、その若者の「目」だけは、80年以上の歳月をかけてこの国の黒幕として君臨し、数え切れないほどの人間を踏みつぶしてきた名神鉄之助の、あの傲慢で冷酷な光を宿していた。
「……名神、鉄之助」
槇原の口から、噛み砕かれたイチゴ飴の赤い液が、血のように一滴、コンクリートの床へと滴り落ちた。
「信じられねえな。
本当に、肉体のすべてのスタッツを50年以上巻き戻したってわけか」
「信じる信じないは関係ない、刑事。
これが現実のデータだ」
20代の若者――名神鉄之助は、自らの引き締まった手のひらを握り締め、その感触を確かめるように冷笑した。
彼の声は、かつての濁った老人のものではなく、張りのある金属的な若者の響きを持っていた。
だが、その傲慢なスタッツは、老いた怪物のそれと完全に一致している。
「私はこの若い肉体と、無限の資産を再び手に入れた。
これからもう一度、この国の100年先のインフラを、私の都合の良いように書き換える。
五条の数式は、神の数式だ」
「神の数式、ですか」
暦はアタッシュケースから、1本の青い試薬ボトルを取り出し、冷酷にそれを掲げた。
「五条先生。
あなたは確かに美しい計算式を作った。
けれど、あなたの数式には、1つだけ致命的な『熱力学第二法則のバグ』が存在しているわ」
暦の言葉に、五条の穏やかな笑みが、初めてわずかに凍りついた。
「お前の言うバグとは何だ、宮内くん」
「複屈折によって巻き戻されたのは、生体組織の『情報スタッツ』だけよ。
エントロピーの総量は減っていない。
むしろ、急激に巻き戻された細胞の歪みは、ある特定の偏光ストレスの遮断によって、一瞬で『逆複屈折』を起こし、数十倍の速度で崩壊を始める」
暦は試薬ボトルのキャップを外し、温室の吸気口へと向けた。
「つまり、その重水素のインフラを今ここで破壊すれば、名神鉄之助の20代の肉体は、180秒以内に『80年分の崩壊』を一気に迎えて灰になるわ。
……それが、私の導き出した最終講義の回答よ、先生」
無響室の空気が、2人の天才の計算の衝突によって、一瞬で爆発寸前の臨界点へと達した。




