第七話:箱根の迷宮 ―― 硫黄の座標
午前10時15分。
箱根の山嶺は、濃密な白い霧と、重く垂れ込めた雨雲に完全に支配されていた。
標高1100メートル。
かつて戦前に感染症患者を隔離するために建設され、数十年前の法改正によって地図上から抹消されたはずの『国立箱根療養所跡』。
その入り口に続く未舗装の山道は、硫黄の臭気を含んだ濁流によって、骨の髄まで侵食されたように深く抉れていた。
「……周囲の空間スタッツ、視界10メートル以下ね」
宮内暦は、だらしなく袖の余った白衣の上に、防滴の黒いナイロンパーカーを羽織り、ぬかるんだ土を踏みしめた。
彼女の瞳にある漆黒のクマは、連夜の徹夜解析によってさらに深く、その冷徹さを増している。
手にしたアタッシュケースには、偏光顕微鏡のポータブルキットと、五条の「若返り因子」をその場で無効化するための化学試薬が厳重に収められていた。
生身の人間の涙には目もくれない泣き虫の女が、今や師の息の根を止めるための完全な「執行人」の顔をしている。
「宮内、これ以上は車じゃ進めねえ。
ここからは足で猟犬の仕事を果たすぞ」
すぐ横で、槇原玲二がヨレヨレのトレンチコートの襟を立て、泥水に塗れたコンバットブーツで立っていた。
彼の奥歯の間で、イチゴ飴がガリリと激しい音を立てて砕け散る。
右手に握られた警察拳銃の重みが、霧の中に張り詰めた殺気を生々しく具現化していた。
本庁のSPたちには、ここへ至る手前の国道で待機を命じてある。
五条顕という国家のインフラを設計した怪物を相手にするには、警察組織の正規の動線そのものが最大の「バグ」になり得るからだ。
動くのは、この世で最も五条の数式を理解している暦と、その嘘を物理的に踏み潰してきた槇原の2人だけで十分だった。
「槇原さん、足元の地質スタッツを見て」
暦は立ち止まり、泥の中に埋もれた「1本の太い高圧ケーブル」をライトで照らした。
「地表には硫黄の温泉水が流れているけれど、このケーブルの表面温度だけが異常に高いわ。
この山奥の廃墟の地下で、大規模な重水素の精製プラントと、3DマイクロCTを含む巨大な計算機が、現在進行形で莫大な電力を消費している証拠よ」
「間違いない。
五条のジジイと、20代の肉体をハッキングした名神鉄之助が、この下で次の『不老不死のインフラ』を組み立ててやがるんだな」
槇原は手錠のチェーンをカチャリと狂暴に鳴らし、ケーブルの動線に沿って歩みを速めた。
霧の奥から、コンクリートが風化した不気味な巨大建造物の影が、牙を剥くように現れる。
ツタに覆われた隔離病棟の正面玄関。
その鉄格子の扉は、何者かを歓迎するかのように、不自然に大きく開け放たれていた。
室内に入ると、外の雨音が完全に遮断され、不気味なほどの無音のインフラが2人を迎えた。
床には湿った埃が積もっているが、その上に、つい数時間前につけられたと思われる「2つの新しい靴跡」が、奥の地下階段へと真っ直ぐに伸びている。
1つは、高齢者の引きずるような歩幅ではない。
強靭な脚力を持った「20代の若者」のスタッツ。
そしてもう1つは、10年前に暦が何度も耳にした、あの正確無比な歩調――五条顕の足跡だった。
「……罠かもしれないわね、槇原さん」
暦はデスクの代わりに、ポケットから取り出したカロリーメイトのフルーツ味を口に放り込み、ガリリと冷酷に噛み砕いた。
その甘みさえも、今は脳の計算速度を限界まで引き上げるための純粋な熱量に過ぎない。
「奴はお前がボトルを持ち帰ることも、俺たちがここに辿り着くことも、すべて『13桁の初期値』の中に計算してやがったんだ。
一ノ瀬舞のときと同じ、180秒の死のプログラムを用意してな」
槇原は階段の手すりに手をかけ、暗闇の奥を睨みつけた。
「だが、今回はすり抜けさせねえ。
宮内、お前が奴の数式を解剖する前に、俺があのジジイの頭蓋骨を物理的に叩き割って、この地獄を強制終了させてやる」
地下へと続く階段の壁に、特殊な紫外線ライトが等間隔で設置されているのが見えた。
その青い光が、壁のコンクリートに刻まれた、巨大な13桁の数字を不気味に浮かび上がらせる。
『ようこそ、宮内くん。最終講義を始めよう』
暗闇のスピーカーから、調律されたあの電子音声が、箱根の地下深くへと冷たく響き渡った。




