第六話:180秒の残響
『172……171……170……』
医療用モニターの液晶画面で、血のような赤色に変色したデジタル数字が、冷酷に時を刻んでいく。
通気口から噴き出す可燃性ガスが、リビングの空気を不気味に歪ませていた。
火花ひとつ、あるいはスマートフォンの微弱な静電気ひとつで、この32階の空間は奥多摩の実験室と同じ「熱圧力の地獄」へと反転する。
「チッ……!」
槇原玲二は、構えていた拳銃を素早くホルスターへと叩き込んだ。
彼の奥歯の間で、砕けたイチゴ飴の最後の破片がガリリと音を立てて完全に噛み砕かれる。
恐怖によるアドレナリンの分泌スタッツが、彼の脳幹を強烈に突き刺していた。
「支配人、走れ!
エレベーターは使うな、非常階段だ!」
呆然と立ち尽くしていたマンションの支配人の襟髪を掴み、槇原はリビングの重厚なドアへと向かって身体を弾ませた。
スマートフォンの向こうからは、T大学の解剖室にいる宮内暦の、これまでに聞いたこともないような激しい怒号が響いている。
『槇原さん、そのガスの成分はおそらく、奥多摩と同じ窒息性の高分子化合物よ!
気化熱で周囲の酸素スタッツが急激に低下するわ!
あと120秒以内に気密エリアから脱出しなさい!』
「分かってやがる!
だがな宮内、このまま手ぶらで逃げ帰ったら、俺の刑事としてのスタッツが完全に死んじまうんだよ!」
槇原は廊下へ飛び出す直前、介護ベッドの脇に置かれていた「1本の点滴ボトル」に目を留めた。
中身はすでに空だったが、そのボトルの内壁には、阿久津蓮の骨髄から若返り因子を抽出するために使用されたと思われる、微量の「透明な液体」が結露となって付着している。
槇原は迷わずそのボトルを引っ掴み、トレンチコートのポケットに突っ込んだ。
『98……97……96……』
背後でカウントダウンの声が一段と高くなる。
五条顕の電子音声は、まるで愛弟子の限界をテストするかのように、楽しげに歪んでいた。
槇原は支配人を非常階段の踊り場へと突き飛ばし、自らも重い防火扉の向こう側へと身体を滑り込ませた。
その瞬間――。
ズウウウウン、という、鼓膜を強烈に圧迫する重低音。
3201号室の防音ドアの隙間から、凄まじい高熱の爆風が吹き荒れ、鉄製の防火扉が激しく歪んで悲鳴をあげた。
間一髪。
コンクリートの階段室を駆け下りながら、槇原は背中に迫る熱波を感じ、歯を食いしばった。
五条顕はまたしても、自らの最高の方程式の痕跡を、容赦なく灰へと変えてみせたのだ。
2時間後。
朝霧が立ち込めるT大学の法医学教室に、煤まみれになった槇原が帰還した。
彼のトレンチコートの裾は焦げ付き、顔には黒い煤のスタッツが刻まれている。
だが、その手には、あの白金の部屋から命がけで持ち帰った「空の点滴ボトル」が固く握られていた。
「……遅かったじゃない、槇原さん」
デスクの前に座る暦は、だらしなく袖の余った白衣のポケットに両手を突っ込んだまま、冷淡に言った。
彼女の足元には、感情のバグによって引き裂かれたカロリーメイトの銀色フィルムと、ティッシュペーパーの山が散乱している。
槇原の生存を確認した瞬間、彼女の脳内のエラー値は、ようやく正常なスタッツへと引き下げられたようだった。
「お前の欲しがっていた、五条の『ノイズ』だ」
槇原はボトルをデスクの上に事も無げに置いた。
暦の漆黒のクマを湛えた目が、ボトルの内壁の結露へと向けられた瞬間、彼女の細い身体が狂暴なまでの歓喜に震えた。
「……素晴らしいわ、槇原さん。
これ、ただの水分じゃない。
阿久津蓮に投与されていた、濃縮された『重水素水』の残渣よ」
暦はすぐさまその液体をマイクロピペットで吸い上げ、質量分析計へと投入した。
画面に走る高速のデータストリーム。
重水素の同位体比率、そしてその中に微量に含まれる「天然の不純物」の鉱物スタッツ。
「出たわ……五条先生の『本当の居場所』の座標が」
暦はキーボードを激しく叩き、日本地図のシミュレーション画面を展開した。
「重水素をこれほどの高純度で精製する過程で、必ず混入する特殊な地質学的スタッツ。
それは、関東近郊の通常の水道水や地下水じゃない。
……箱根山麓の、特定の熱水鉱床から汲み上げられた『火山性深層水』の成分よ」
画面の赤色のインジケーターが、箱根の深い山奥、地図上から完全に抹消された古い国立の「隔離病棟跡地」の座標をピンポイントで指し示した。
「あそこに、五条顕の真の方程式の心臓がある。
そして、20代の肉体を手に入れた本物の名神鉄之助も、そこにいるわ」
「箱根だな」
槇原は新しいイチゴ飴を口に放り込み、手錠のチェーンを狂暴に鳴らした。
「サツの包囲網をハッキングし尽くした幽霊のジジイも、山の中の実験室ごと踏み潰されれば、ただの骨に戻るだろ。
宮内、解剖道具の準備をしておけ。
あの怪物の真理を、今度こそ根こそぎ解剖しに行くぞ」
朝の光が差し込む実験室で、師弟の因縁を終わらせるための「最終座標」が、ついにその冷たい輪郭を現した。




