第五話:反転の方程式
『若者を老人に変形させたのなら、その逆もまた、あの方の方程式の中には当然、組み込まれているはずよ』
宮内暦の冷徹な声が、スマートフォンのスピーカーを通じて、白金の高級マンションの書斎に響き渡った。
槇原玲二は、受話器を握りしめたまま、総大理石の床を見つめて硬直していた。
彼の口の中で、砕けたイチゴ飴の鋭い破片が、歯茎にチクリと痛みを刻む。
五条顕の狙いは、50億円という資本の強奪だけに留まらない。
若きアスリート・阿久津蓮の骨から「若さのスタッツ」を絞り尽くし、それを82歳の名神鉄之助の肉体へと注入する、生命の等価交換。
それこそが、あの男が5年前に法医学界から姿を消してまで完成させようとした、禁忌の逆転方程式だったのだ。
「……宮内、そいつは確かなのか」
槇原は声を低め、カーテンの隙間から夜明け前の街を鋭く見下ろした。
『阿久津蓮の骨髄組織を、いま追加で超高速遠心分離にかけたわ。
……結果が出た。
彼の骨髄からは、通常の20代男性の1000倍以上の濃度で、骨芽細胞を異常活性化させる「未知のシグナル因子」が検出された。
それも、人為的に遺伝子を組み換えられ、外へ吸い出されるために濃縮されたスタッツよ』
暦のタイピング音が、まるでマシンガンのように激しく解剖室に響いている。
『五条先生は、阿久津蓮をこの白金のマンションに監禁している間、ただ老化させていたわけじゃない。
彼の骨髄を「若返り因子の栽培工場」として使い、極限まで抽出した因子を、本物の名神鉄之助に投与し続けていたのよ。
名神を、20代の肉体へと強引に巻き戻すためにね』
「クソが、どこまで人間を材料扱いすれば気が済むんだ、あのジジイは」
槇原は手帳をポケットに叩き込み、書斎を出てリビングへと引き返した。
「本物の名神が、20代の肉体を手に入れてどこかの陰に潜んでいるとすれば、もはや外見のスタッツで追うことは不可能だ。
……ん?」
リビングの中央に差し掛かったとき、槇原の足がピタリと止まった。
先ほどまで無音だったはずの、名神が寝ていたとされる特注の介護ベッド。
その枕元に設置された、医療用モニタリング装置の液晶画面が、誰も触れていないにもかかわらず、突如として緑色の発光を開始したのだ。
奥多摩の実験室が爆破されたあの夜と、全く同じ「既視感」。
「宮内、通信を切るな。
奴のハッキングだ」
槇原はトレンチコートの内側から、迷わず警察拳銃を引き抜いた。
銃身の冷たい感触が、彼の掌にじっとりとした汗を滲ませる。
モニター画面に表示されたのは、心拍数や血圧のスタッツではなかった。
13桁のあの初期値コードが明滅した直後、画面いっぱいに、滑らかな幾何学のグラフが描かれ始める。
それは、偏光顕微鏡で暦が観測した「複屈折の干渉色」の波形データを、さらに複雑に暗号化したものだった。
そして、スピーカーから、調律されたあの不気味な電子音声が流れ出す。
『素晴らしい着眼点だ、宮内くん。
骨梁の破壊から、コラーゲン線維の配向解析へ至るその動線……私の講義をこれほど正しく理解している生徒が、まだ警視庁の犬の横にいることに、深い悦びを禁じ得ない』
「五条顕……!」
槇原は銃口をモニターへと向け、低く吠えた。
『槇原刑事、銃を向ける相手が違うのではないかね。
私はただの、時間の観測者だ。
名神鉄之助という老いたインフラは、阿久津くんの美しい骨の記憶を譲り受け、すでに完璧な「第2のスタッツ」へと新生を遂げた。
50億円の資本と共に、彼は世界を裏側から動かす若き神へと生まれ変わったのだよ』
「御託はいい、その本物の名神と、お前はどこに隠れてやがる!」
『お前たちが立っているその部屋が、すでに次の数式の「開始点」だ』
電子音声が冷酷に告げた瞬間、ベッドの背後にある壁のインフラから、プツリ、という不吉な機械音が響いた。
ガスの噴出音。
エアコンの通気口から、無色無臭の、しかし空気を急速に歪ませる「可燃性ガス」が室内に充満し始める。
五条顕は、白金のマンションすらも、証拠ごと槇原を巻き込んで灰に変える算段を、秒単位で組み立てていたのだ。
『さあ、180秒のカウントダウンだ。
宮内くん、君の相棒の骨髄スタッツが、熱圧力で炭化する前に、私の居場所を逆算できるかね?』
画面のタイマーが「180」からカウントダウンを開始する。
スマホの向こうで、暦が「槇原さん、今すぐそこから逃げて!」と叫ぶ声が激しく響いた。
猟犬の執念と、黒幕の圧倒的な殺意が、夜明けの白金で再び最悪の爆縮を呼び起こそうとしていた。




