第四話:最上階の擬態
午前4時15分。
港区の一等地にそびえ立つ、総大理石造りの超高級シニアマンション『レジデンス白金』。
その最上階である32階のフロアは、静寂という名の冷たい高気圧に包まれていた。
オートロックの強固なセキュリティを警察権力で強引に突破し、槇原玲二はヨレヨレのトレンチコートの裾を激しく翻しながら、名神鉄之助の自室である3201号室のドアの前に立っていた。
彼の奥歯の間で、イチゴ飴がガリリと狂暴な音を立てて噛み砕かれる。
「……鍵を開けろ」
槇原の背後で、マンションの支配人が怯えた手付きでマスターキーを電子錠にかざした。
電子音が短く鳴り、重厚な防音ドアがゆっくりと内側へ開く。
室内に漂っていたのは、生者の生活臭ではなかった。
高級なペルシャ絨毯、壁に掛けられた数1000万円クラスの名画、そして……かすかに鼻を突く、微量の「消毒液とオゾンの匂い」。
それは、T大学の解剖室で毎日嗅いでいる、あの無機質なインフラの匂いそのものだった。
「警察の鑑識が踏み込むまで待てねえ。
五条のスタッツは、今この瞬間も動いているんだ」
槇原は手袋を嵌めた手で懐中電灯を握り、リビングの暗闇を鋭く照らし出した。
部屋の中央には、名神鉄之助が最期を迎えたとされる、特注の最高級介護ベッドが置かれている。
一見すれば、寝たきりの老人が静かに息を引き取っただけの、ありふれた孤独死の現場。
しかし、槇原の刑事としての嗅覚は、その空間の不自然な「清潔さ」を敏感に察知していた。
「支配人。
名神鉄之助がここに引きこもるようになったのは、具体的にいつからだ」
「……ええと、確か4ヶ月前からです。
それまでは毎日のように、お若いパーソナルトレーナーの方を伴って外出されていたのですが、急に『体調を崩した、誰とも会いたくない』と仰るようになって。
それ以降は、五条と名乗る臨時の主治医の先生が、週に3回、深夜に往診に来られるだけでした」
「やっぱりな」
槇原はベッドの脇にある、高級なマホガニー製のサイドテーブルの引き出しを乱暴に引き開けた。
中に残されていたのは、名神鉄之助のものとされる、数種類の脳梗塞の薬。
だが、その薬瓶のラベルの裏側をライトで透かした瞬間、槇原の目が鋭く細められた。
ラベルの端に、ごく小さな「13桁のシリアルコード」がレーザー刻印されていたのだ。
宮内暦が暴き出した、あの五条顕の固有数式モデルの初期値。
この部屋にあるすべての医療インフラが、50億円の資産をハッキングするために、あらかじめ五条によって統制されていた証拠だった。
「名神の顔の皮を被せられた阿久津蓮は、このベッドの上で、数ヶ月間ずっと五条の薬物投与《生体ハッキング》を受け続けていた。
老人の声を出すための声帯処理、白髪の植毛、そして骨粗鬆症の偽装。
……ケアマネージャーの目を盗み、この部屋そのものが『老人の製造工場』に変えられていたんだ」
槇原はさらに奥の書斎へと踏み込み、デスクの上の金庫を調べた。
案の定、金庫の中身は空。
50億円相当の株券、債券、そして銀行口座の暗証鍵は、この3ヶ月の間に、すべてオンラインで五条のダミー口座へと融解を完了していた。
「名神鉄之助の資産を合法的に奪い尽くすために、奴は23歳のアスリートの骨を老人に書き換えて、ここで『死なせた』」
槇原は受話器を取り出し、大学の暦へと直通ダイヤルを入れた。
「宮内、俺だ。
白金の部屋を押さえたが、もぬけの殻だ。
金も戸籍もすべてハッキングされた後だ。
……だが、1つだけ決定的な違和感がある」
『違和感スタッツ?
何よ、槇原さん』
スピーカーから聞こえる暦の声の背景には、激しいタイピング音と、カロリーメイトの袋を引き裂く銀色のノイズが混じっていた。
「この部屋にはな、本物の名神鉄之助の『生活の痕跡』が一切残ってねえんだ。
老眼鏡も、過去のカルテも、まるで最初からこの部屋に『名神という人間が存在していなかった』かのように消去されている。
五条は、阿久津蓮を老人に仕立て上げるためのキャンバスとして、この部屋を急造したんだ」
『……それは、計算が合わないわね』
暦のタイピング音が、ピタリと止まった。
『五条先生が本物の名神鉄之助を拉致したのなら、その肉体をどこかへ隠蔽するか、あるいは……。
槇原さん、名神鉄之助の年齢スタッツは82歳、重度の糖尿病を患っていたはずよ。
あの人が、そんな都合のいい『使い古された骨』を、そのまま廃棄すると思う?』
「何が言いたい、宮内」
『五条先生の目的は、生命の幾何学へのハッキング。
阿久津蓮の若い肉体を老人に変形させたのなら、その逆もまた、あの方の方程式の中には当然、組み込まれているはずよ』
その瞬間、槇原の背筋に、氷の刃を突き立てられたような戦慄が走った。
「逆……だと?
若者を老人に変えたなら、本物の82歳の老人を……」
『ええ。
名神鉄之助の老いた骨組織に、阿久津蓮から抽出した若年の幹細胞と重水素触媒をハッキングし、今度は『老人の肉体を20代へ若返らせる』実験を行っている可能性があるわ。
五条顕は、50億円の資本を使って、自分自身の『不老不死のインフラ』を構築しようとしているのよ』
書斎の窓の外、夜明け前の白金の街を見下ろしながら、槇原は受話器を握りしめたまま立ち尽くした。
姿なき師が仕掛けた「偏光の罠」は、単なる資産強奪を遥かに超えた、人類の生物学的限界を書き換える悪魔のグランドデザインへと、その悍ましい貌を現し始めていた。




