第三話:二つの動線
「23歳のアスリートを、80代の老人の器に閉じ込めて使い捨てたか……」
槇原玲二は、トレンチコートのポケットの中で、金属手錠を壊れるほどの力で握りしめた。
彼の奥歯の間で、イチゴ飴がガリリと凶暴な音を立てて砕け散る。
その瞳には、一ノ瀬舞を灰にされたあの夜の屈辱と、五条顕という怪物に対する飽くなき執念が、黒い炎となって燃え盛っていた。
「宮内。
俺はこれより、名神鉄之助が暮らしていたシニアマンションへ直行する。
50億円の資産がどこへ流れたか、そして本物の名神を連れ去った『動線』のスタッツを、力ずくで引き剥がしてくる」
「行ってらっしゃい、槇原さん」
暦はだらしなく袖の余った白衣の袖口を再びきゅっと縛り、解剖台の遺体へと視線を戻した。
「私はこの阿久津蓮の肉体を、分子の1個に至るまで完全に解剖するわ。
五条顕が施した『老化の術式』。
その化学的プロセスのなかに、必ず奴自身のラボの環境スタッツが、ノイズとして残留しているはずだから」
「廊下のSPはそのまま残していく。
お前の骨は、奴に1ミリも触らせや indigenous」
槇原はそう言い残すと、トレンチコートの裾を激しく翻し、解剖室のドアを蹴破るような勢いで飛び出していった。
廊下に立つ本庁のSPたちの張り詰めた空気を切り裂きながら、彼の足音は夜の闇へと消えていく。
室内に残されたのは、電子機器の無機質な駆動音と、宮内暦という名の冷徹な顕微鏡だけだった。
「……さて。
私とあなたの、2回目の数理的対話ね、五条先生」
暦はデスクの引き出しから、新しいカロリーメイトのフルーツ味を取り出し、銀色のフィルムを長い指でスマートに剥ぎ取った。
それを口に放り込み、ガリリと冷酷に噛み砕きながら、彼女はメスを握り直した。
生者の感情を一切排除した彼女のブレインは、今や完全なハッキングモードへと突入している。
まず、暦が着手したのは、阿久津蓮の体内に残留する「ホルモン・スタッツ」の網羅的解析だった。
わずか数ヶ月で23歳の肉体を80代の皮膚と骨へ変貌させるためには、通常の生体反応を遥かに超越した、超高濃度の「加速剤」が必要となる。
ガスクロマトグラフィー質量分析計(GC-MS)のモニターに、抽出された化合物のピークが次々と浮かび上がる。
「……やっぱりね。
通常の医療市場には存在しない、人工合成のプロテアソーム阻害剤、そして……骨細胞のテロメアを強制的に短縮させる特殊な『核酸医薬』のスタッツが検出されたわ」
暦はキーボードを叩き、その化合物の分子構造式を画面に展開した。
緻密に設計された、美しくも悍ましい人工の毒。
これほどの分子デザインを個人で行える人間など、この地上に五条顕の他に存在するはずがない。
しかし、暦の目は、その分子構造の末端に付着している、ごく微小な「不純物」のデータに釘付けになった。
「これは……重水素の、異常な偏り?」
化合物の合成プロセスで溶媒として使用された形跡のある、特殊な重水。
通常のH2Oではなく、水素の同位体である重水素の比率が、極めて高いスタッツを示している。
暦はカロリーメイトの最後のひとかけらを口に放り込み、無表情のまま画面を睨みつけた。
日本国内で、これほど高純度の重水素水を実験室レベルで大量に製造、あるいは入手できる場所は限られている。
「重水ベースの触媒合成を行える、私設の超高圧環境……」
それは、警察のデータベースには決して登録されていない、五条顕が潜む「真の実験室」の地質学的、あるいは産業的な座標スタッツを逆算するための、大いなる鍵だった。
その頃、槇原の乗った覆面パトカーは、都心の最高級シニアマンションの前へと、タイヤを激しく軋ませて滑り込んでいた。
夜の帳が降りたエントランスで、槇原は警察手帳をコンクリートの壁に叩きつけるように提示し、名神鉄之助の自室へと、猟犬の歩みを加速させていた。




