第二話:不在の証明
「名神鉄之助の顔をした……20代の若者?」
槇原玲二は、手にする手帳を破らんばかりの力で握りしめた。
彼の奥歯の間で、イチゴ飴がガリリと悲鳴をあげるように砕け散る。
解剖台の上に横たわる遺体は、どこからどう見ても、贅沢な暮らしの末に老衰に近い脳梗塞で死んだ80代の老人そのものだった。
皮膚の弛緩、白髪の密度、顔に刻まれた無数の皺。
人間の目視による鑑識スタッツを、それは完璧に欺いていた。
しかし、宮内暦が偏光顕微鏡で暴き出した骨の深層、コラーゲン線維の「複屈折」が描く干渉色は、黄金色と鮮緑色の力強いスタッツを放ち続けている。
それは重力と肉体が交わしてきた、20年そこらの瑞々しい若さの証明に他ならなかった。
「五条顕は、外見の老化プロセスを『分子レベルで加速』させたのよ」
暦は白衣の長い袖を雑に振り払い、モニターの数値を激しく指差した。
「高濃度のアミノ酸製剤と遺伝子治療を悪用し、皮膚の角質と毛髪の脱色を急速に行わせた。
そして骨に対しては、カルシウムを吸い出す『破骨細胞』のスタッツだけを強制的に最大化させ、内部をスカスカの骨粗鬆症に変形させた。
けれど、骨の鉄骨であるコラーゲン線維の配列だけは、数ヶ月やそこらの監禁では書き換えられなかった。
物質の幾何学は、五条顕の嘘を許さなかったのよ」
暦はデスクの上のカロリーメイトを乱暴に掴むと、銀色のフィルムを長い指でスマートに剥ぎ取った。
それをガリリと噛み砕く彼女の漆黒のクマに縁取られた瞳は、激しい数理の怒りでギラギラと輝いている。
一ノ瀬舞を目の前で塵に変えたあの男への、これは言葉なきリベンジの始まりだった。
「待て、宮内。
もし、この死体が五条に肉体をハッキングされた身元不明の20代の若者だとするなら……」
槇原はトレンチコートの襟をむんずと掴み、血走った目を暦に向けた。
「本物の名神鉄之助は、一体どこにいる?」
その疑問が、深夜の解剖室の冷たい空気に重く突き刺さった。
総資産50億円を超える資産家。
高級シニアマンションに引きこもり、ここ数年はケアマネージャー以外の人間とは誰とも会っていなかった老人。
「本物の名神は……すでにこの世にいないか、あるいは」
暦はカロリーメイトを飲み込み、冷淡に言った。
「五条顕の『別のキャンバス』にされているか、ね」
「クソが……!」
槇原は警察無線を引っこ抜き、西条署の捜査一課へ怒号を叩き込んだ。
「俺だ、槇原だ!
今すぐ名神鉄之助の資産状況を洗え!
銀行口座の変動、不動産の売買履歴、この3ヶ月の間に1円でも不審な動きがなかったか確認しろ!
それと、名神が最後に通っていた病院のカルテのスタッツ、すべて宮内の研究室へ転送させろ!」
無線を叩き切るようにポケットへ戻した槇原の顔は、鬼の形相へと変貌していた。
「宮内。
五条の目的は、単に人間を殺して実験することじゃねえ。
200億円の不正融資の榊原のときもそうだ。
奴は、社会的価値のある人間の『スタッツ』をそっくり入れ替えることで、その背後にある莫大な資本や権力をハッキングしようとしている」
「ええ。
本物の名神鉄之助をどこかに監禁、あるいは処理した上で、この20代の若者を『名神の身代わり』としてホームに住まわせた。
そして用が済んだから、脳梗塞の自然死に見せかけて処分した。
完璧な、老人の不在証明ね」
暦はキーボードを叩き、被害者の顔認証データを警察庁の「未解決行方不明者リスト」へと照合し始めた。
画面に走るプログレスバー。
アスリート並みの身体能力を持ち、この数ヶ月の間に突如として失踪した20代の若い男。
「……出たわ、槇原さん」
モニターに、1人の青年の顔写真が表示された。
精悍な顔立ち、大学ラグビー部の主将。
「3ヶ月前に渋谷で突如消息を絶った、東都大学ラグビー部のプロ選手候補、阿久津蓮、23歳。
……五条顕は、日本の未来を担うはずだった若い骨を、老人の皮の中に閉じ込めて殺したのよ」
廊下に立つ本庁のSPの靴音が、カチャリと不気味に響いた。
五条顕の仕掛けた「偏光の罠」は、50億円の資産を巡る、国家の闇へとさらに深く繋がっていた。




