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法医学 宮内暦の事件簿  作者: 泉水遊馬
CASE7 複屈折のカルテ ―― 偏光の罠

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第九話:エントロピーの清算

「180秒だ。

エントロピーの清算を、始めましょう」

宮内暦がその言葉と共に試薬ボトルを吸気口へ傾けた瞬間、無響室の空気が激しく振動した。

ボトルから流し込まれたのは、偏光の干渉を物理的に無効化する高濃度の「重合阻害剤」と「酸化促進触媒」の混合液。

それが植物の生育を制御する温室の加湿インフラへと直接噴霧され、室内の空気と混ざり合う。

「何を……っ!?」

名神鉄之助が驚愕の声を上げた。

だが、その声はすでに、先ほどまでの若々しい響きを失いかけていた。

彼が握りしめていた自分の若き腕の皮膚が、ドロリと黒い泥のように液状化し、そこから骨が剥き出しになる。

20代のアスリートの肉体という、あまりにも脆い虚構が、熱力学の絶対的な法則に逆らえないことを証明するように、急速に崩壊を開始したのだ。

「ああぁあああっ!!」

名神が喉を裂くような絶叫を上げる。

その身体を覆っていた瑞々しい筋肉組織が、まるで早送りされた映像のように萎み、皺が刻まれ、灰となって床へとこぼれ落ちていく。

「暦、離れろ!」

槇原玲二は叫び、暦を強引に引き寄せて、サーバーラックの裏へと飛び込んだ。

温室の中では、地獄のような光景が展開されていた。

名神鉄之助の肉体は、文字通り「時間を食い尽くされた」かのように、その場に留まることさえできずに崩れ去る。

かつて82年の歳月をかけて刻まれた老人の記憶と、50億円の資本によって手に入れた20代の肉体が、分子レベルで衝突し、どちらも存在を維持できなくなったのだ。

「素晴らしい。

本当に、素晴らしいよ、宮内くん」

五条顕の声は、狂気に満ちた笑みを湛えていた。

彼は崩壊しゆく名神の姿を見つめながら、自身の端末を操作し、その凄惨な死のプロセスを1秒も逃さず、冷徹に記録し続けている。

「人間の肉体という、たかだか100年程度の脆弱なインフラに、これほどまでの劇的な物理変化を与えるとは。

君は私の最高傑作だ。

法医学という檻の中で、ここまで論理的な暴力を行使できるようになったとは」

「……あなたは、結局何がしたかったの」

サーバーラックの影から、暦が青ざめた顔で問いかける。

「自分の肉体を永遠に保つこと?

それとも、権力者の寿命を書き換えること?

そんなものは、この崩壊の前では何の意味もないじゃない」

「意味など、最初から必要ないのだよ」

五条は眼鏡を外し、懐から1本の小さな注射器を取り出した。

「私はただ、私の設計した数式が、現実という物理空間で完璧に作動する様を観測したかっただけだ。

君たちが私を追い詰め、私の計算通りにこの箱根の山奥へ辿り着き、私の仕掛けた罠を一つずつ解き明かした。

そのプロセスそのものが、私にとって最高のフィクションであり、最高の方程式だったのだ」

「……この男、完全に狂っていやがる」

槇原が拳銃を構え、五条へと踏み出す。

だが、その瞬間、温室を支えていた重水素精製プラントが、崩壊する名神の肉体から放たれた異常な反応熱に耐えきれず、激しい火花を散らした。

床を走る高圧ケーブルがショートし、無響室全体が閃光に包まれる。

「あぁ、時間だ。

私の計算では、ここからこの隔離病棟跡地は、地盤の陥没と共に地下深くへ埋没することになっている」

五条は、崩れる天井を見上げ、どこまでも穏やかな声でそう告げた。

「また会おう、宮内くん。

君という『美しいエラー』が、いつか私の数式の外側で、どんな答えを導き出すのかを楽しみにしているよ」

五条顕の姿が、噴出する蒸気と、崩落する天井の瓦礫の向こう側へと消えていく。

「五条っ!」

槇原が叫び、その場へ駆け出そうとするが、暦がその腕を強く引き留めた。

「ダメ、槇原さん!

ここが落ちる!

この建物自体が、最初から五条先生の『計算の一部』だったのよ!」

建物の基盤が、激しい地鳴りを立てて箱根の地層深部へと崩落を開始した。

地下の温室は、かつての隔離病棟が抱えていた負の歴史と共に、地の底へと引きずり込まれていく。

「くそっ、あのジジイ……!」

槇原は歯を食いしばり、暦を抱きかかえて、崩れゆく通路の向こう側、わずかに残された脱出口へと全力で駆け抜けた。

背後では、重厚なコンクリートと鉄骨が、名神鉄之助の残骸と共に、永遠の闇の中へ消えていく音が聞こえる。

硫黄の雨が降る箱根の空の下、暦たちは泥濘に足を取られながらも、ようやく外の世界へと這い出した。

朝の冷たい空気が、肺を満たす。

背後で、かつての隔離病棟が、轟音と共に完全に地中へと飲み込まれた。

「……終わったの?」

暦は、土に塗れたパーカーのポケットから、くしゃくしゃになったカロリーメイトの空箱を取り出し、それを握りしめた。

「終わってねえよ」

槇原は泥を吐き出し、焼け焦げたトレンチコートを脱ぎ捨てた。

「五条は生きている。

あの笑い方……奴は、俺たちに次の『題材』を預けて消えやがったんだ」

遠くで、パトカーのサイレンが、霧を切り裂くように響き渡る。

箱根の山麓に、新たな朝が訪れようとしていた。

だが、暦と槇原の戦いは、まだ終わりの見えない「次の数式」へと向かって、静かに幕を開けていた。


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