第六話:真名の座標
「……画面の輝度、25パーセント上昇」
宮内暦の声は、低く、かすかに震えていた。
自動で起動した3DマイクロCTのモニターが、深夜の研究室を青白く照らし出している。
画面の中でゆっくりと回転を続けるのは、現在の被害者――榊原一馬の骨ではない。
皮質骨の厚み、密度、骨端線の閉鎖状況から計算されるスタッツは、明らかに「20代前半の、未だ発育を終えていない若い女性」の大腿骨だった。
しかも、その骨梁の網目は、現在進行形で細かく破断し、別の異常な幾何学構造へと再構築されつつあった。
デジタルデータを通じて、今まさにどこかの暗闇で、生きたまま骨を刻まれ、絶叫している人間のバイタルが、1000分の1秒単位で法医学教室へと流し込まれているのだ。
「宮内、このデータの発信元はどこだ」
槇原がトレンチコートのポケットから手を引き抜き、画面を睨みつけた。
彼の奥歯の間で、イチゴ飴がガリリと狂暴な音を立てて砕け散る。
「……プロキシ(踏み台)が多重に組まれていて、追跡不可能よ。
世界中の100以上のサーバーを経由して、この部屋の計測器のバックドアに直接流し込まれているわ。
奴は、私に見せつけているのよ。
自分が構築した『生体ハッキングの方程式』が、今この瞬間も、完璧に機能しているという最高の結果を」
暦は白衣の長い袖をきゅっと握りしめ、爪が肉に食い込むほどの手のひらに怒りを集めた。
モニターの右下。
データストリームの末尾に、あの溶けたガラスの破片と同じ、13桁の初期値コードが明滅している。
それは、10年前、彼女がまだ何も知らなかった学部生の頃、純粋な科学の美しさに魅せられて書き上げた、彼女だけの数式。
それを歪め、悪魔の拷問システムへと昇華させた男。
暦の脳内で、これまですべての思考から「既知のエラー値」として排除し、名前を消去していた記憶の領域が、一気に臨界点を迎えた。
これ以上、あの男の名前を隠し続けることは、法医学という科学そのものに対する裏切りスタッツを意味していた。
「……五条顕」
暦の唇から、その名前が滑り落ちた。
「五条、顕……?」
槇原が低く反唱する。
入り口に立つ2人のSPが、その名前にわずかに身じろぎしたのを、暦は見逃さなかった。
「元・T大学医学部、統計法医学教授。
日本の監察医制度の基盤を創り、科学捜査のインフラをすべて構築した、私の唯一の……師だった男よ」
暦はデスクの上のカロリーメイトの袋を乱暴に引き裂き、そのチョコレートの塊をガリリと激しく噛み砕いた。
その目は、ポチの死に涙を流していた泣き虫の女のものでは決してない。
師を自らの手で解剖せんとする、冷酷な狩人の瞳だった。
「5年前、あの人は『生者の司法は不完全であり、統計学のみが死者の時間を正しく裁くことができる』という論文を最後に、大学を去った。
警察庁はあの人の頭脳を惜しみ、厚生労働省の監察医組織の最高顧問という席を用意したはずだけど……実態は違ったのね」
「あのジジイ、最高顧問の肩書きを隠れ蓑にしやがって、裏でこんなイカれた実験室をいくつも運営してやがったのか」
槇原は手帳を取り出し、五条顕の名前の横に太い線を引き、激しく叩いた。
「星野征一郎の事件で134度の滅菌トリックを教えたのも、今回の榊原を拉致して浮浪者の骨へと彫刻したのも、すべては五条の書いたコードだった。
そして今、3人目の検体を、お前の目の前で刻んでみせている」
「これ、ただの検体じゃないわ、槇原さん」
暦は画面の骨盤の計測データを拡大した。
寛骨臼の微小な形状エラー、そして大腿骨の歪み。
「この20代の女性の骨……見覚えがあるわ。
3年前、五条ゼミの最後の教え子であり、私の1学年下の後輩だった、一ノ瀬舞。
彼女は3年前の4月12日、海外の医療ボランティアへ向かう途中で、飛行機事故に巻き込まれて死亡したと処理されていたはず……」
「死亡したはずの人間が、今、生きて骨を削られているって言うのか」
槇原の顔が、驚愕と怒りで完全に凍りついた。
「ええ。
事故のスタッツそのものが、五条によって偽造されていたのよ。
あの人は、お気に入りのサンプルを死んだことにして手元に置き、3年間、ずっと自分の『最高の方程式』を完成させるための生肉として飼育していたのよ。
……サイコパスなんて言葉じゃ足りない。
あの人は、自分を物質の神だと思っているわ」
暦は立ち上がり、だらしなく袖の余った白衣を翻した。
「槇原さん、この一ノ瀬舞の骨梁データ、1分ごとに結合密度が0.8パーセントずつ上昇している。
このペースだと、あと48時間以内に『別の別人の骨』への書き換えが完了し、彼女の本当のスタッツは、この地上から完全に消滅するわ。
48時間以内に、五条顕の現在座標を特定して、その頭蓋骨を物理的に叩き割らなければ、彼女は本当に『存在しなかった死体』にされる」
「48時間だな」
槇原は新しいイチゴ飴を口に放り込み、鉄のような冷たい笑みを浮かべて手錠を引き抜いた。
「上等だ。
元教授だろうが、国の顧問だろうが関係ねえ。
生きた人間の骨を弄ぶ悪魔に、俺の冷たい鉄格子を味あわせてやる。
宮内、その画面のデータから、1ミリでもいいから奴の次の居場所を割り出せ。
猟犬の仕事は、ここからだ」
青白い光が点滅する部屋の中で、宮内暦はついに五条顕という最大のバグへ向けて、自らの頭脳という顕微鏡の照準を完全に合わせ、猛烈なタイピングを開始した。




