第五話:鏡像のスタッツ
夜8時。
大学の法医学教室の廊下には、未だに2人のSPが、彫刻のように無機質な殺気を放って直立していた。
部屋の中に閉じ込められた宮内暦は、だらしなく袖の余った白衣のポケットに両手を突っ込んだまま、顕微鏡の前に座り込んでいた。
彼女の視線の先にあるモニターには、学生時代の古いノートのスキャンデータが映し出されている。
そこに並ぶ美しい数式群は、物質の記憶を統計的に解剖する「真理の座標」であり、同時に、現在の彼女の法医学的ベース《スタッツ》を構築した絶対的な教本でもあった。
名前を呼ぶことすら、脳内のエラー値を引き上げる。
それほどまでに巨大で、冷徹だった「あの人」の筆跡。
「宮内、生きてるか」
部屋のドアが重く開かれ、雨の匂いと共に槇原玲二が踏み込んできた。
彼のトレンチコートの裾は、奥多摩の泥と煤で黒く汚れている。
入り口のSPたちが一瞬だけ鋭い視線を向けたが、槇原はそれをイチゴ飴の包装紙を破る音で完全に無視した。
ガリリ、と奥歯の間で甘い砕裂音が響く。
「槇原さん、そのコートの炭化水素濃度……現場の灰をそのまま連れてきたのね」
暦は椅子を回転させ、冷淡な瞳を向けた。
「ああ、お前の予想通り、現場は綺麗さっぱり焼き尽くされてやがったよ。
だがな、完璧な数式を組む奴ってのは、自分の『署名』だけは消し忘れるらしい」
槇原はポケットから、厳重に密閉された証拠品袋を取り出し、デスクの上に置いた。
中にあるのは、熱で半分溶け落ちた、歪な耐熱ガラスの破片だ。
その表面には、ライトの光を浴びて、レーザー刻印された13桁の歪んだ数字が鈍く浮かび上がっている。
「被害者に鏡を見せていたという、あの実験室の残骸だ。
ガラスの表面に、量子暗号と思わしき管理コードが焼き付いていやがった。
宮内、お前のスペックで、この数字の出所を弾き出せるか」
暦の目が、その13桁の配列を捉えた瞬間、彼女の細い身体が目に見えて硬直した。
白衣の長い袖が、微かに小刻みに震える。
彼女は言葉を失ったまま、デスクの引き出しから先ほどの古い講義ノートを引っ張り出し、その最終ページを乱暴に開いた。
「……嘘でしょ」
暦の口から、掠れた声が漏れた。
「どうした、宮内」
「槇原さん、この13桁の数字、暗号なんかじゃないわ。
これは、マトリクス(行列)の初期値よ。
それも……私が10年前、T大の学部生だった頃、ある教授のゼミで『生体組織の動的応力モデル』を構築したときに、私自身が作った、私だけの固有の『数式ID』よ」
室内の空気が、凍りつくような静寂に支配された。
廊下に立つSPたちの靴音が、不気味なほど遠くに聞こえる。
「お前が作った、だと……?」
「ええ。
骨梁が荷重によってどう変化するか、その確率論的シミュレーションを実行するための、私独自のプログラムコード。
世界中で、この13桁の配列を初期値として使う人間は、私と……私の論文を管理していた、あの『教授』しかいないわ」
暦はカロリーメイトの袋を掴もうとしたが、その指先が激しく震え、銀色のフィルムをうまく引き裂くことができない。
見えない黒幕は、偶然に法医学の盲点を突いていたのではなかった。
星野征一郎の事件も、今回の榊原一馬の骨梁改ざん事件も、すべては暦が過去に生み出し、あの男に預けた「科学の雛形」をベースに実行されていたのだ。
これは、警察への挑戦ではない。
あの男から、愛弟子である宮内暦への、あまりにも冷酷で、あまりにもサイコパスな「再会のメッセージ」だった。
『私の愛した数式を、君はどこまで美しく解剖できるかね?』
受話器の向こうの電子音声が、脳内でその男の生前の声へと反転していく。
「奴は……お前の師匠は、生きてるんだな、宮内」
槇原が低く、地を這うような声で言った。
彼のポケットの中で、金属手錠がカチャリと狂暴な音を立てる。
「……分かりません」
暦はついに剥き出したカロリーメイトを、感情を押し殺すようにガリリと激しく噛み砕いた。
その瞳には、恐怖を完全に凌駕した、純粋な「数理の怒り」が炎のように燃え上がっていた。
「私の数式を、あんな歪んだ拷問のキャンバスに変えた。
物質のスタッツをここまで冒涜するなんて、いくら私の『師』であっても、絶対に許さない」
そのとき、研究室の壁に設置された、3DマイクロCTのモニターが、操作もしていないのに突如として勝手に起動した。
青い光が室内の闇を照らし出し、そこに新たな1つの骨の透過データが、ゆっくりと回転しながら表示され始める。
それは奥多摩の骸ではない、今まさにどこかで「生きたまま削られている」、次の犠牲者の骨のスタッツだった。




