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法医学 宮内暦の事件簿  作者: 泉水遊馬
CASE7 複屈折のカルテ ―― 偏光の罠

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プロローグ:灰の洗礼

五条顕という男の講義は、いつも冷たい静寂から始まった。

10年前、T大学医学部の狭い講義室。

当時まだ20代前半の学部生だった宮内暦は、最前列の席で、だらしなく袖の余った白衣のポケットに両手を突っ込み、黒板に流麗な数式を書き連ねる五条の背中を見つめていた。

『宮内くん。

生きて動いている人間は、保身のためにいくらでも嘘のスタッツを吐き出す。

だが、死者の骨だけは、地球の重力と交わした数理的契約を絶対に裏切らない。

法医学とは、肉というノイズを剥ぎ取り、骨という完璧なインフラを解剖する幾何学だ』

振り返った五条の瞳は、底のない深淵のように黒く、傷一つないアクリル板のように澄んでいた。

暦にとって、その冷徹な知性こそが、現実の泥臭い人間関係から逃れるための唯一の聖域だったのだ。

あの日、五条の手元に預けた、13桁の初期値コード。

それが10年の時を経て、まさか生きた人間の骨を削り、別人の人生へと書き換える「悪魔の拷問システム」のマスターキーとして使われるなど、当時の暦には知る由もなかった。

「……五条、先生」

深夜2時。

大学の法医学教室で、暦はぽつりとその名前を呟いた。

液晶モニターの青い光が、彼女の漆黒のクマに縁取られた瞳を寂しげに照らし出す。

画面に映っているのは、一ノ瀬舞のバイタルスタッツが完全に途絶えた瞬間の、冷酷なエラーログだった。

48時間のタイムリミットの最果て、奥多摩の山林に踏み込んだあの夜。

暦と槇原の前に突きつけられたのは、五条の「完璧な数式」による圧倒的な敗北と、あまりにも凄惨な死の光景だった。

一ノ瀬舞が囚われているはずの地下実験室。

その防音扉を槇原がこじ開けた瞬間、1秒の狂いもなく、五条の仕掛けたサーモバリック爆縮(熱圧力爆弾)の術式が作動した。

凄まじい閃光と、超高温の衝撃波。

暦たちの目の前で、拘束椅子に縛り付けられていた一ノ瀬舞の肉体は、叫び声をあげる暇さえ与えられず、一瞬にして四散し、肉片と灰の塊へと爆砕された。

科学的に骨のスタッツを書き換えられ、生きたまま弄ばれた若き後輩の命は、手の届くわずか数メートルの距離で、文字通りの「塵」へと還されたのだ。

守れなかった。

あと一歩のところで、五条顕の冷徹な知性と暴力に、文字通り完膚なきまでに叩きのめされたのだ。

五条顕はまだ、見つからない。

日本の科学捜査のインフラを設計したその男は、警察のすべての動線を先回りし、再び深い霧の彼方へと消え失せた。

「宮内、まだ起きてんのか」

部屋のドアが重く開かれ、トレンチコートを羽織った槇原玲二が入ってきた。

彼の奥歯の間で、イチゴ飴がガリリと激しい音を立てて噛み砕かれる。

その表情には、目の前で少女を爆砕されたことへの、猟犬としての凄まじい屈辱と激昂が刻まれていた。

「槇原さん……」

「本庁の二課も動かして、五条の足跡を洗わせているが、手応えはゼロだ。

奴の戸籍も、隠し口座も、すべて5年前の時点で綺麗にダミーへ置換されていやがる。

生きている人間を追う俺たちの捜査網じゃ、あの幽霊には手が届かねえ」

槇原はデスクの椅子を引き、乱暴に腰掛けた。

ポケットの中で、金属手錠がカチャリと虚しい不協和音を奏でる。

「奴を引っ張り出すには、奴が自ら送りつけてくる『死体の数式』を、お前が顕微鏡で引き裂くしかねえんだ」

「分かっています」

暦はデスクの上のカロリーメイトのチョコレート味を無造作に掴み、銀色のフィルムを長い指で剥ぎ取った。

「あの人は完璧主義のサイコパス。

自分の数式が私に解読されることを、何よりも愉しんでいる。

一ノ瀬舞を私たちの目の前で殺害したのも、私に対する最大級の挑発よ。

五条顕は必ず、次の『美しいエラー』を私たちの前に運んでくるわ」

暦はカロリーメイトを一口、ガリリと噛み砕き、その無機質な甘みを咀嚼した。

悲しみに涙を流す時間は、すでに終わっていた。

生身のフィクションにだけ涙もろい泣き虫の女の仮面を、彼女は完全に引き剥がす。

「次にあの人が仕掛けてくる幾何学が何であれ……私は1ミクロンの狂いもなく、その嘘を暴いてみせる。

それが、あの人の狂気を止めるための、唯一のスタッツだから」

そのとき、研究室の固定電話が、深夜の静寂を切り裂くように鳴り響いた。

西条署の鑑識係からの、新たな変死体の発見を告げる緊急連絡だった。

都内の高級老人ホームの自室。

死後わずか3日しか経過しておらず、肉体には生々しさが残る、80代の資産家老人の遺体。

一見すれば、高齢者によくある脳梗塞による「自然な孤独死」だ。

しかし、鑑識が不審に思ったのは、その老人の骨のX線データだった。

五条顕からの第二題となる、肉体を欺く「偏光の罠」が、いま静かに幕を開けようとしていた。


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