第三話:暴かれた履歴書
翌日、暦のいる法医学教室に、槇原が重い足取りで戻ってきた。
その手には、西条署の地下倉庫から掘り出してきたという、埃をかぶった茶封筒が握られている。
「宮内、お前の言う通りだったよ。
シリアルナンバーの照会結果が出た。
……ご遺体の名前は、逢坂絢斗だ」
「逢坂……絢斗」
暦は口に咥えていたカロリーメイトの手を止め、その名をつぶやいた。
「驚いたな。
十年前、クラシック界の寵児と呼ばれながら、コンクール直前に忽然と姿を消した、あの『伝説の天才ピアニスト』だ。
世間じゃ、プレッシャーに負けて海外へ敵前逃亡しただの、女と蒸発しただの、好き勝手言われてた男さ」
槇原はそう言って、茶封筒から一枚の書類を取り出し、解剖台の横のデスクに叩きつけた。
それは、失踪当時に所属事務所の社長から提出されたという、逢坂絢斗の『履歴書』のコピーだった。
「警察は当時、こいつを自発的失踪、つまり自分の意志で逃げ出したと判断した。
根拠はこれと、一緒に残されていた『探さないでください』という直筆の手紙だ」
暦は、黄ばんだ履歴書のコピーを手に取り、その端正な文字を凝視した。
一画一画が美しくコントロールされ、一切の迷いなく書かれた、完璧な筆跡。
右上に貼られた写真の中の青年は、どこか憂いを帯びた瞳で、こちらを見つめている。
「綺麗な字ですね。
これほど乱れのない筆跡を見せられれば、警察が事件性なしと判断するのも無理はありません」
「だろ?
だから当時の担当刑事も、事務所の社長の言う通りに捜査を打ち切った。
生きてる人間の書いた文字ってのは、それだけで強力な証拠になっちまうからな」
槇原は胸のポケットからイチゴ飴を取り出し、不機嫌そうに口に放り込んだ。
だが、暦の目は、履歴書の文字ではなく、デスクの上の顕微鏡モニターへと向けられていた。
「……いいえ、槇原さん。
この履歴書が書かれた日付を見てください。
失踪のちょうど一ヶ月前になっていますね?」
「ああ。
それがどうした?
所属事務所との契約更新のために、事前に書かされたものらしいが」
「そこが、決定的な矛盾です」
暦は履歴書を机に置き、スライドガラスにセットされた『指の骨』の断面図をモニターに大きく映し出した。
「私は昨晩、逢坂さんの手の骨をマイクロCTで再解析しました。
十年前、彼が失踪する一ヶ月前の時点で、両手の中指と薬指の基節骨は、疲労骨折が完全に破綻し、周囲の神経を圧迫して重度の麻痺を引き起こしていたはずです」
「麻痺……?
ってことは、手が動かない状態だったってことか?」
「ええ。
ジストニアの末期症状と、この骨折の度合いから見て、彼は箸を持つことすらままならず、激痛でペンを握ることさえ不可能な状態でした。
それなのに、見てください、この履歴書の文字を」
暦は、履歴書の端正な文字を指先で激しくなぞった。
「これほど均一な筆圧で、ブレのない美しい文字を、失踪直前の逢坂さんが書けるわけがありません。
医学的に、絶対に不可能です」
「……何だと?」
槇原の目が、鋭い肉食獣のそれに変わった。
口の中のイチゴ飴が、カツンと音を立てる。
「つまり、彼が自分の意志で書いたとされるこの履歴書も、そして失踪の決定打となった『探さないでください』という置き手紙も……」
「本人が書いたものではない、か。
あるいは、まだ手が自由に動いていた何年も前に、別の目的で書かされた『サイン入りの白紙』を、誰かが流用したか、だな」
暦は深く頷き、白衣のポケットに両手を突っ込んだ。
(生きている人間は、どれだけ確実に見える証拠であっても、都合よく偽造してみせる。
だけど、彼が最後に失ってしまった『手の機能』の真実までは、誰も偽装できない)
「槇原さん、この履歴書を警察に提出した所属事務所の社長……御子柴という男は、今どこにいますか?」
「御子柴徹、当時五十代。
逢坂の失踪後は事務所が倒産して没落し、今は小さな芸能事務所のしがない雇われマネージャーをやってるはずだ。
……なるほど、お前の言う通り、俄然きな臭くなってきたな」
槇原はガリリと飴玉を噛み砕き、不敵な笑みを浮かべた。
「よし、宮内。
その御子柴って男のところに、十年前の『嘘』の味見をしに行こうじゃねえか。
お前のその『骨オタク』の証明書を持ってな」
「喜んで同行します。
ただし、移動中に車内でカロリーメイトを食べる許可をいただけますか?」
「粉をシートにこぼさねえなら、いくらでも食え」
死者の骨が暴いた一枚の嘘から、十年の闇に葬られた天才ピアニスト失踪事件の、本当の扉が開かれようとしていた。




