第二話:歪んだ彫刻
「……待って。
この骨梁の密度勾配、何かが狂っているわ」
宮内暦の細い指先が、キーボードの上で不自然に凍りついた。
デスクの上に並んだカロリーメイトの空箱を、彼女は漆黒のクマを湛えた目で凝視する。
3DマイクロCTが描き出した海綿骨の網目構造は、ラガーマンの骨を「浮浪者の歩行障害」へと改ざんした、あの見えない黒幕の恐るべき術式を証明していた。
しかし、その応力線の幾何学をさらに1ミクロン単位でスキャンし進めた瞬間、暦の背筋に、氷水を流し込まれたような戦慄が走ったのだ。
「どうした、宮内」
槇原がトレンチコートの襟を正し、解剖台の骨へ視線を落とした。
彼の奥歯の間で、イチゴ飴がガリリと鈍い音を立てて砕け散る。
「犯人は、榊原一馬をただ監禁して、超音波で骨の形を変えただけじゃない。
……この骨梁の微細な骨折と修復のスタッツ、全て『生存状態』で、かつ、完全な意識下で行われているわ」
暦は白衣の長い袖を乱暴に捲り上げ、モニターの数値を激しく指差した。
「見てください、この微小骨折の痕跡。
骨の網目を人為的に組み替えるために、犯人は数日おきに、精密に計算された衝撃荷重を榊原の右足に直接与え、骨の内部を『意図的に内部崩壊』させている。
それも、麻酔を一切使わずに、よ」
「麻酔を、使わずにだと?」
「ええ」
暦は白衣のポケットから次のカロリーメイトを取り出すことすら忘れ、乾いた声で言った。
「生体の骨形成反応《ウォルフの法則》を最大化させるには、中枢神経が『激痛』を検知し、患部に大量の血流とカルシウムを送り込ませる必要があるわ。
犯人は、法医学の盲点を突くためだけに、榊原一馬を3ヶ月間ベッドに縛り付け、意識がある状態で、定期的に彼の骨の内部を器具で圧砕し続けたのよ。
激痛に悶絶する彼の肉体を利用して、この『美しい浮浪者の骨』を体内で生きたまま彫刻したの」
室内の空気が、一瞬にして凍りついた。
それは、単に証人を口封じのために殺害するという、生者の即物的な犯罪の領域を遥かに超えていた。
被害者を人間としてではなく、自らの数理モデルを完成させるための「ただの生肉、ただの検体」としてしか扱っていない、底なしのサイコパスの狂気。
星野征一郎の事件の背後にいたあの影は、単なる知能犯ではない。
科学の法則を執行するためなら、人間の尊厳や絶叫など、1ミリのノイズとしてもカウントしない本物の怪物だった。
「……さらに、信じられないスタッツがあるわ」
暦は狂ったようにマウスを操作し、大腿骨の頭部にある、ごく小さな傷を拡大した。
「犯人は、この骨の彫刻を施している間、榊原一馬の目の前に『1枚の鏡』を置いていたはずよ」
「鏡?
何のためにそんな真似を」
「精神の崩壊スタッツを測定するためよ」
暦の瞳が、恐怖と、それを上回る科学的探究心で妖しく明滅する。
「骨組織はストレスホルモン――特に高濃度のコルチゾールに晒されると、骨代謝の速度が異常に加速するわ。
犯人は、五体満足だったエリート銀行員が、自分の足の骨を文字通り『化け物の浮浪者』へと作り変えられていく恐怖のプロセスを、本人にリアルタイムで観察させたのよ。
絶望による精神の破壊が、皮質骨の代謝を極限まで高め、この3ヶ月という短期間での『完璧な偽装』を可能にした。
これは、医学的な拷問による、生体ハッキングよ」
槇原の手が、ポケットの中で手錠を凄まじい力で握りしめ、金属音を軋ませた。
彼の顔は、怒りと、その黒幕の異常性への嫌悪で、鬼の形相へと変貌している。
「あの野郎……。
人間を、何だと思っていやがる」
「最高の手型、とでも思っているのよ」
暦は、ようやく震える手でカロリーメイトの銀色フィルムを剥ぎ取り、それを口へと放り込んだ。
しかし、いつもなら無機質に感じるチョコレートの甘みが、今はひどく鉄の味を帯びているように感じられた。
「生者の言葉は、激痛と恐怖でいくらでも書き換えられる。
犯人は、榊原一馬の悲鳴をBGMにしながら、この骨梁の幾何学を、1マイルの狂いもない完璧な方程式として完成させたのよ。
……槇原さん、私たちは、人間の形をした『悪魔の数式』と戦っているわ」
深夜の法医学教室の冷たい光の中で、白いラガーマンの骨は、ただ静かにその凄惨な記憶を告発していた。
見えない黒幕の冷酷なメスは、すでに警察の捜査網の遥か先で、次の生贄の骨を切り刻む準備を始めているのかもしれない。




