第一話:応力の証明
「3ヶ月前……」
宮内暦は、3DマイクロCTのモニターに表示された骨梁の三次元密度グラフを、細い人差し指でなぞった。
先ほどまでポチの悲劇に赤く腫らしていた彼女の目は、今は生者を射殺さんばかりの冷徹な知性を放っている。
「槇原さん、骨の変形にかかった期間は、最大で見積もっても90日前後。
それも、1日24時間、常に一定のベクトルで数10キログラムの持続的な圧縮応力をかけ続けなければ、海綿骨の結晶がこれほど不自然な『密な結合』を起こすはずがありません」
「90日、だと……?」
槇原はトレンチコートのポケットに両手を突っ込んだまま、解剖台の骨を見つめた。
彼の奥歯の間で、イチゴ飴がガリリと鈍い音を立てる。
「3ヶ月前に突如としてこの世から消え失せ、かつ、骨の中身をそっくり書き換えてまで『右足の不自由な浮浪者』に偽装する価値のある人間……」
槇原は手帳を取り出し、親指で素早くページを捲った。
「西条署のデータベースじゃねえ。
本庁の捜査二課が、この3ヶ月間、極秘裏に捜索を続けている特級の行方不明者が1人いる。
元・東都中央銀行の融資部次長、榊原一馬、45歳だ」
「その人物の、身体的スタッツは?」
暦はデスクの上のカロリーメイトを無造作に掴み、銀色のフィルムを長い指でスマートに剥ぎ取った。
「五体満足、大学時代はラグビーの選手だ。
身長178センチメートル、体重75キログラム。
政財界の巨頭たちが絡んだ、総額200億円にのぼる不正融資のスキームをすべて握っていた、検察側の『最重要証人』だよ。
3ヶ月前の公判前整理手続きの夜、ホテルの一室から煙のように消えやがった」
「200億円の不正融資……」
暦はカロリーメイトを一口、ガリリと小気密に噛み砕き、その無機質な甘みの中で計算式を組み立てた。
「ラグビーの選手であれば、大腿骨の皮質骨の厚みは、一般人よりも遥かに高密度に発達しているはずです。
激しい衝突を繰り返すスポーツの記憶は、骨の外壁に強固な『補強構造』として残りますから」
暦はキーボードを叩き、マイクロCTの透過データを皮質骨の厚み測定モードに切り替えた。
画面に表示された断面図の数値。
4.5ミリメートル。
それは、通常の放浪生活を送る老人の骨としては、あまりにも肉厚で、あまりにも強靭な、鍛え上げられたアスリートのスタッツそのものだった。
「ビンゴね、槇原さん」
暦は白衣の長い袖を翻し、鉄のような冷たい笑みを浮かべた。
「骨の外壁《皮質骨》は、15年前に引退したラガーマンの強固なスタッツを証明している。
しかし、その内側の網目《海綿骨》だけは、わずか3ヶ月の監禁によって、右足を引きずる人間の応力線へと『急造の改ざん』が施されている」
「つまり、犯人は榊原を拉致した後、どこかの秘密の監禁室で足にギプスをハメ、骨形成を促進する超音波を浴びせ続けながら、彼を『歩行障害の浮浪者』へと肉体改造したわけだ」
槇原の顔が、怒りで鬼のように歪んだ。
「そして、骨の改造が終わった段階で殺害し、奥多摩の崖から放り投げた。
これなら、もし骨が見つかったとしても、警察は『ああ、あの有名な足の悪い浮浪者のおじいさんが、足を滑らせて死んだんだな』と納得し、200億円の秘密は永久に闇に葬られるはずだった」
「人間の脳が作った『警察の捜査マニュアル』を、100パーセント見切った術式だわ」
暦はカロリーメイトの最後のひとかけらを口に放り込み、冷淡に言った。
「前回の星野征一郎の事件と同じ。
これは、法医学の測定限界を正確にハッキングし、死者の戸籍を骨の分子レベルから書き換えようとした、あの見えない黒幕の仕業よ」
「星野のバックにいた、例の入れ知恵野郎か……」
槇原は新しいイチゴ飴を口に放り込み、激しく噛み砕いた。
金属手錠がポケットの中で、カチャリと冷たい不協和音を奏でる。
「本庁の二課や検察は、榊原が200億円を持って海外へ高飛びしたと思い込んで捜査を縮小させている。
だが、証人はここにいた。
肉を溶かされ、骨の幾何学を弄ばれながら、奥多摩の冷たい岩場に転がされていたんだ」
「生者の言葉はいくらでも偽造できますが、重力と骨が交わした数理的エラーだけは、決して消去できない」
暦は再びモニターに向かい、ラガーマンの骨の深部に刻まれた、犯人の微細な「指紋」をさらに深くハッキングし始めた。
見えない神の数式を、彼女の顕微鏡が今度こそ完全に噛み千切るために。




