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法医学 宮内暦の事件簿  作者: 泉水遊馬
CASE6 虚構の軌跡 ―― 骨梁の幾何学

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プロローグ:感傷のエラー

宮内暦という女の涙腺は、生者の現実に対しては完全に退化している。

解剖台の上で遺族がどれほど無惨な泣き声をあげようが、だらしなく袖の余った白衣を着た彼女の瞳は、1ミリの揺らぎも見せない。

「生者の涙は水分と塩分の無駄な排泄に過ぎない」と冷淡に言い放ち、カロリーメイトを無表情に噛み砕く姿は、冷徹な精密機械そのものだった。

しかし、西条署の槇原玲二だけは、この女の脳内にあるもう1つの、あまりにも致命的な「バグ」を知っている。

深夜1時。

大学の法医学教室の奥にある、暦の個人研究室。

「う、うう……うああああん……っ!」

部屋の前に立った槇原は、ドアの隙間から漏れ聞こえる、この世の終わりかのような女の号泣に、深くため息をついた。

不審者の侵入ではない。

槇原は慣れた手つきでドアを開け、室内の惨状に呆れ果てた。

デスクの上には、消費し尽くされたティッシュペーパーの山が、まるで白骨遺体の山のようにうずたかく積まれている。

その中央で、白衣の長い袖口でぐしゃぐしゃに顔を拭いながら、暦がスマート本の画面を凝視し、大粒の涙をボロボロと溢れさせていた。

「……宮内。

お前、今度は何を見てるんだ」

槇原が呆れ声を出しながら、奥歯のイチゴ飴をガリリと不機嫌に砕く。

暦は鼻水をズズ、と派手にすすり上げ、涙で真っ赤に腫れ上がった目を槇原に向けた。

「ま、槇原さん……っ。

信じられますか、この、第8話の展開……っ。

主人公をずっと陰から支えていた忠犬のポチが、最後の最後で、主人公を庇ってトラックの前に飛び出すなんて……っ。

ポチの頭蓋骨の硬度では、大型車両の衝撃荷重に耐えられるはずがないのに、それでも走ったんです……っ!」

暦が画面を握りしめ、再び烈火のごとく泣きじゃくる。

彼女が観ていたのは、動画配信サービスで大流行している、ベタな動物ものの感動作フィクションだった。

生きている人間のリアルな悲劇には爪の垢ほどの共感も示さない女が、虚構の物語、それも犬やアニメのキャラクターの健気な姿に対してだけは、異常なほどの涙腺の決壊を起こす。

彼女にとって、演出された美しきフィクションこそが、現実のノイズに汚されていない「純粋な数理的感動」なのだという。

「現実の人間は嘘を吐くから嫌いですが……ポチの純粋な忠誠心スタッツは、100パーセント本物です……うう、ポチ……!」

「うるせえよ。

ティッシュの無駄遣いをしてんじゃねえ、ボーン・オタク」

槇原はデスクのティッシュの山を乱暴に外へと掻き分けると、手に持っていた無骨なプラスチックケースをドン、と置いた。

ケースの表面には、「奥多摩署・証拠品」のシールが貼られている。

その衝撃音とプラスチックの硬質な響きに、暦の涙がピタリと止まった。

ズズ、と最後の鼻水をすすると、彼女の瞳から一瞬にして「ポチの感傷」が消え失せ、いつもの冷酷な顕微鏡の目へと切り替わる。

「……新しい骸、ですね」

「ああ。

奥多摩の山林、崖下100メートルの岩場から回収された。

完全に肉が削げ落ちた、大腿骨と骨盤のセットだ。

現場には、地元で何年も放浪していた身元不明の老人の遺留品――杖や古びた靴が残されていた」

槇原はコートのポケットに手を突っ込み、顔をしかめた。

「奥多摩署の鑑識の見立てじゃ、骨の形状から見て、生前に重度の歩行障害――右足を引きずって歩く癖があった男だそうだ。

足を滑らせて真っ逆さまに落ちた、不運な浮浪者の事故死として、明日には処理される予定だったが……お前に回してきた」

暦は白衣の長い袖を雑に捲り上げると、ケースから大腿骨を取り出し、室内の蛍光灯にかざした。

油を吸ったようなその骨の輪郭を、彼女の細く白い指先がなぞる。

そして、そのまま研究室の奥にある高解像度3DマイクロCTのステージへと骨をセットした。

「槇原さん。

人間の骨の内部にある『骨梁こつりょう』は、その人間が生前に地球の重力と交わしてきた、生涯にわたる荷重のロードムービーです。

右足を引きずっていたなら、その応力線の軌跡が、鉄骨のように骨の内部に美しく彫り込まれているはずですが……」

モニターに、スキャンされた海綿骨の三次元網目構造が浮かび上がる。

それを見た瞬間、暦の薄い唇が、ゾッとするほど冷たく歪んだ。

先ほどまでポチの死に涙を流していた女とは、到底思えない、冷酷な拒絶のスタッツが画面に刻まれていた。

「……不愉快だわ。

この幾何学構造には、致命的な『数学的連続性のバグ』が存在する」

「バグだと?」

「ええ。

この骨梁は、何何年もかけて形成された生活の記憶ではない。

わずか数ヶ月の間、人工的な超高負荷を特定の角度で与え続け、強制的に『変形させられた』骨の悲鳴よ」

暦の漆黒の瞳が、青い光の中で妖しく輝いた。

「この骨の主は、放浪の浮浪者などではない。

何者かによって肉体を拘束され、骨の記憶までを科学的に書き換えられた、全く別の重要人物よ」

ポチの死に涙していた泣き虫の女はそこにはいなかった。

物質の法則を弄んだ見えない黒幕プロフェッサー・ゼロの冷酷な術式に対し、宮内暦は、激しい怒りを孕んだ鉄の笑みを浮かべていた。


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