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法医学 宮内暦の事件簿  作者: 泉水遊馬
CASE5 時の檻

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第六話:残響

星野征一郎の逮捕から3日後、神保町の地下書庫から回収された藤井蓮の遺骨は、ようやく遺族のいない無縁仏としての手続きのために、法医学教室の保管庫へと移された。

昭和47年の亡霊という「記号」を剥がされ、2023年10月14日に殺害された27歳の若者という、ありのままのスタッツを取り戻した骨。

その白い輝きは、深夜の蛍光灯の下で、どこまでも静かに鎮座していた。

宮内暦は、お気に入りのだらしなく袖の余った白衣のポケットに両手を突っ込み、保管ケースの前に立っていた。

彼の脳内では、星野のオフィスから押収された産業用滅菌器の、制御プログラムの書き換えコードが、未だに不協和音を奏でながら明滅している。

「……134度」

暦の口から漏れた数字は、冷たい部屋の空気に溶けて消えた。

骨の結晶構造ハイドロキシアパタイトを破壊せず、外層のイオン交換だけを最大化させるための、神業のようなピンポイントの熱量。

それは、単なる過激派崩れの不動産王が、自力で導き出せるほど生易しい領域の数値では決してなかった。

法医学の盲点を、あまりにも正確に見切っている。

まるで、日本の科学捜査システムのインフラそのものを設計し、その限界値を最初から熟知している何者かが、裏で糸を引いているかのように。

「……まさか、な」

暦が珍しく、感情の混じった呟きを漏らしたそのとき、部屋のドアが重く開いた。

入ってきたのは、西条署の槇原玲二だった。

彼のトレンチコートからは、冷たい雨の匂いと、いつもの安いイチゴ飴の甘い香りが漂っている。

槇原は無言で歩み寄ると、奥歯の飴玉をガリリと激しく噛み砕いた。

「宮内、星野のジジイの取り調べが完全に終わった。

検察への送致書類も作り終えたが……1つだけ、どうしても腑に落ちねえことがある」

「星野が自白した、滅菌器の入手ルートですか」

暦は視線を動かさずに言った。

「ああ」

槇原は手帳を取り出し、鉛筆の芯で1つの記述を叩いた。

「星野はあの滅菌器を、3年前の9月に『ある医療系の経営コンサルタント』から、全額キャッシュで買い叩いたと言い張っていやがる。

だが、そのコンサルタントの会社登記を洗ってみたら、実体のねえペーパーカンパニーだった。

名義人は、すでに5年前に死亡しているホームレスの男だ」

「犯人に知恵を授けた黒幕は、自分の足跡を紙の書類の上からは完全に消去している」

暦は白衣のポケットからカロリーメイトのチョコレート味を取り出し、銀色のフィルムを静かに剥き取った。

「当たり前です。

その人物にとって、生者の法律や警察の捜査網など、あらかじめ織り込み済みの『既知のエラー値』に過ぎない。

彼はただ、自分が構築した『時間の偽装数式』が、現代の法医学をどこまで欺けるか、星野というサンプルを使って実験しただけなのですから」

暦はカロリーメイトを一口、ガリリと噛み砕き、その無機質な甘みを咀嚼した。

「宮内、お前、その黒幕の正体に心当たりがあるのか」

槇原の鋭い眼光が、暦の漆黒のクマに縁取られた瞳を射抜く。

暦はすぐには答えなかった。

ただ、顕微鏡のモニターに映る、藤井蓮の骨の最深部――骨髄腔の2023年の炭素スタッツを静かに見つめ直した。

もし、この中心部の計測を暦が怠り、通常のルーティンワークとして骨の表面だけを分析していたら、事件は今頃、昭和47年の時効事件として完全に処理されていた。

そして星野征一郎は、実業界の名士のまま、何一つ失わずに生涯を終えていたはずだった。

黒幕は、警察を騙そうとしたのではない。

法医学という科学そのものを、嘲笑おうとしたのだ。

暦の脳裏に、かつて学んだ、ある圧倒的な数理の影が過る。

だが、それを言葉にすることは、自らの思考に余計なノイズを混ぜることに等しかった。

「……まだ、仮説の段階です」

暦は冷淡に、しかし確かな重量感を持って言った。

「ですが、もし私の仮説が正しいとしたら、この事件は終わりではない。

星野の件は、あの人物がこの地上に配置した、最初の方程式に過ぎません。

物質の法則を完全にハックし、死者の時間を自在に書き換える、見えない打ち手。

彼が本当に動き出しているのだとしたら、遠からず、次の『美しいエラー』が私たちの前に運ばれてくるはずです」

「上等だ」

槇原は新しいイチゴ飴を口に放り込み、鉄のような冷たい笑みを浮かべた。

「どんな天才が裏で糸を引いていようが、俺の仕事は変わらねえ。

死体を踏み台にしてのうのうと生きてる奴のツラを拝み、その手首に鉄格子をハメるだけだ。

宮内、次が来たら、またお前の顕微鏡でその数式とやらをブチ壊してくれよ」

「言われずとも。

物質のスタッツを汚す者は、誰であれ私の美意識が許さない」

暦はそう言うと、静かに顕微鏡の電源を落とした。

青い光が消えた法医学教室の暗闇の中で、2人はまだ見ぬ巨大な深淵の気配を、確かにその肌に感じていた。

星野文庫の地下に眠っていた骸の告発は終わりを迎えたが、それは同時に、時間を操る見えない「天才」との、長きにわたる数理的チェスの幕開けを告げる残響でもあった。

(第4章・完)


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