第四話:真実の分水嶺
神保町の再開発ビル最上階にある星野征一郎のオフィスは、昭和の権力者が好んだ重厚なマホガニーの家具で満たされていた。
76歳になる星野は、西条署の刑事たちが部屋に踏み込んできたときも、眉ひとつ動かさずに高級な葉巻に火をつけた。
彼の背後のガラス窓からは、夜の東京の街並みが、まるで彼自身の領地であるかのように眼下に広がっている。
「失礼だな、槇原くん」
星野は紫煙をあつそうに吐き出しながら、冷淡な声を響かせた。
「あの星野文庫の地下で見つかった遺体なら、本庁の公安がすでに『昭和47年の過激派の内ゲバ事件』として処理を終えているはずだ。
時効が成立した過去の骸をめぐって、所轄の老刑事が夜中に騒ぎ立てるなど、品性を疑うよ」
槇原はトレンチコートのポケットに手を突っ込んだまま、星野のデスクの前に歩み寄った。
彼の奥歯の間で、イチゴ味の飴玉がガリリと鋭い音を立てて砕ける。
「本庁の官僚どもは、あんたが用意した『昭和47年』という都合の良い記号に飛びついた。
だがな、星野さん。
人間の社会が作った法律や書類はいくらでも誤魔化せるが、地球の大気と原子の数だけは、あんたの金と権力でも買収できなかったようだぜ」
「何の話だ」
「3年前の10月14日。
あんたはここで『秘密会合』を開いていたとアリバイを主張していたが、本当は違った。
あの地下書庫の奥で、あんたの過去の汚い資金源を突きつけてきた27歳の大学院生――藤井蓮を背後から殴り殺していたんだ」
星野は一瞬、葉巻を止めたが、すぐに鼻で笑った。
「馬鹿馬鹿しい。
本庁の最新の科学捜査――炭素14の鑑定とやらでも、あの骨は『昭和47年の濃度』を示したと聞いている。
科学が私のアリバイを証明しているのだよ」
「ああ、あんたの仕掛けた『骨の偽装術式』は完璧だった」
槇原は懐から、宮内暦が署名した最新の鑑定書を星野のデスクに叩きつけた。
「あんたは法医学がボンブ・ピークのグラフを使うことを知っていた。
1972年の上昇期と、2023年の下降期の炭素濃度が、数理的に『全く同じ数値』になるポイントを狙って、藤井の遺体を地下の産業用滅菌器にかけ、昭和40年代の高濃度炭素を骨の表面に強制吸着させた。
……だが、詰めが甘かったな。
あんたが騙せたのは、骨の皮層という外側の1枚だけだ」
星野の老いた眼球が、一瞬だけ不穏に揺れた。
「骨の最深部――骨髄腔の内部にあるコラーゲンは、あんたの滅菌器の熱を拒絶し、2023年の純粋な現代の数値を維持していた」
槇原はデスクに両手を突き、星野の顔を覗き込んだ。
「表面は昭和47年、中心部は2023年。
1具の骨の中に存在する『51年の時間差』という致命的なエラーだ。
T大のボーン・オタクの顕微鏡は、あんたが骨の分子レベルに仕込んだ嘘を、完全に解剖してみせたんだよ」
同じ頃、大学の法医学教室では、宮内暦が静かにカロリーメイトの新しい箱を開けていた。
彼の前には、藤井蓮の顎の骨と、星野のオフィスから押収されるであろう凶器のシミュレーションデータが、冷たい青い光を放ちながら回転している。
暦にとっては、星野がどれほどの権力者であるかなど、1ミリの価値もないノイズだった。
彼が求めているのは、物質が描く完璧な因果関係の美しさだけである。
「人間は、言葉によっていくらでも歴史を偽造できると思い上がる」
暦はカロリーメイトを一口、ガリリと噛み砕いた。
「しかし、細胞が最後に刻んだ代謝のスタッツは、どれほど時間を巻き戻そうとしても、2023年という真実の座標へ必ず収束する。
物質の声を無視した者に、科学を語る資格はありません」
星野征一郎のオフィスでは、老名士の顔から、完全に余裕の笑みが消え失せていた。
彼が半世紀の時間をかけて築き上げてきた富と名声の牙城が、わずか数ミリグラムの、骨の芯に残された原子の数によって、音を立てて崩壊しようとしていた。
「星野征一郎。
藤井蓮に対する殺人罪、および死体遺棄の容疑で、逮捕状が出ている」
槇原はトレンチコートのポケットから手錠を取り出し、金属音を冷たく響かせた。
「あんたが昭和の闇に葬ろうとした若者の命は、51年の時間を逆流して、今ここにあんたの息の根を止めに来たんだ」
窓の外の東京の夜景が、まるで主を失ったかのように、どこまでも冷たく反転していく。
骨塩と原子が暴いた真実の叙事詩は、ついに昭和の亡霊の仮面を、完全に引き裂いたのだった。




