第三話:剥がされる記号
西条署の未解決失踪者リストから、その男の名前が浮上するまでに、さほどの時間はかからなかった。
宮内暦が提示した「1996年生まれ」「3年前の秋から消息不明」「当時27歳」というあまりにも精密な三つのスタッツは、何万件もの警察のデータを一瞬で濾過してみせたのだ。
男の名は、藤井蓮。
3年前まで神保町のI大学に通っていた大学院生であり、歴史学、特に昭和の過激派運動の資金調ニアスを研究テーマにしていた若者だった。
「ビンゴだ、宮内」
翌日の深夜、槇原は西条署から持ち出してきた藤井蓮の捜索願の写しを、法医学教室のステンレス台の上に叩きつけた。
彼の奥歯の間で、イチゴ味の飴玉がガリリと不機嫌に砕け散る。
「3年前の10月、藤井は『星野文庫の地下に、当時の最高幹部が隠した資金の出納帳が眠っている可能性がある』と教授に言い残したまま、消息を絶っている。
本庁の組対や公安の連中が、この名前をリストから意図的に外していやがった」
暦はだらしなく袖の余った白衣のポケットからカロリーメイトを取り出し、無造作に口へと運んだ。
チョコレートの人工的な甘みを咀嚼しながら、彼は藤井蓮の顔写真を見つめる。
黒縁の眼鏡をかけた、どこにでもいる知的で線の細い若者の姿がそこにあった。
「生者の記憶や警察の思惑は、都合よく書き換えられますが、この男の肉体が過ごした日常は、骨の中にそのまま残されています」
暦はそう言うと、解剖台に置かれた藤井蓮の「鎖骨」をピンセットで指し示した。
「鎖骨の骨端線の閉鎖状況を確認しました。
人間の鎖骨が完全に骨化を完了するのは、25歳から28歳の間です。
彼の鎖骨は、まさにその閉鎖の最終段階で時計が止まっている。
炭素14の計算通り、彼が27歳でこの地上での新陳代謝を終えた動かぬ証拠です」
「だが、これだけじゃ本庁の腰は上がらねえ」
槇原はコートのポケットに手を突っ込み、苦々しく吐き捨てた。
「上の連中は、まだ『藤井が過去の過激派の遺体を発見し、何らかの理由でそのまま逃亡した。
あの骨はやはり昭和47年のものだ』と言い張るつもりだ。
DNAの照合をしようにも、藤井は一人っ子で両親はすでに他界している。
直接の比較対象がいねえんだよ」
「だから、彼らは紙の書類の上で真実を殺せると思っている」
暦の漆黒のクマに縁取られた瞳が、冷徹な光を放った。
「槇原さん、私は生者の都合には1ミリの関心もありませんが、骨が提示したスタッツを『無』にされることだけは我慢がならない。
DNAが使えないなら、別の物理的スタッツで、この骨が藤井蓮その人であることを証明すればいいだけのことです」
暦は白衣の袖を雑に捲り上げると、藤井の「下顎骨」を三次元スキャナーのレーザー光の中に置いた。
モニターには、27歳の若者の顎の骨の微細な構造が、鮮やかな青い3Dモデルとなって浮かび上がる。
「藤井蓮の大学の健康診断の記録、あるいは過去の歯科カルテは残っていませんか?」
「 dental データか?
さっき神保町の古い歯科医院から、5年前の治療痕のレントゲンを回収してきたところだ。
それがどうした?」
「下顎骨の内部にある『下顎管』の走行ルート、および骨梁の網目構造は、人間の指紋と同じく、100万人に1人として同じ形は存在しません。
これを5年前のレントゲンデータと重ね合わせ、三次元の骨構造トポロジー《位相幾何学》による数理的照合を行います」
暦の細い指先が、キーボードの上で弾丸のような速度で動き始める。
画面上で、5年前の平面的な歯科レントゲンの影と、現在のデジタルスキャンされた顎の骨の構造が、1マイルの狂いもなくピタリと重なり合っていく。
その合致率は、99.999パーセント。
「記号の偽装は、ここで完全に剥がれ落ちました」
暦はカロリーメイトの最後のひとかけらを口に放り込み、無表情に画面を指差した。
「この骨は、昭和47年の亡霊などではない。
3年前にあの地下書庫の檻で命を奪われた、27歳の大学院生・藤井蓮その人です」
「よくやった、ボーン・オタク」
槇原は新しく口に放り込んだイチゴ飴をガリリと噛み砕き、その鉄のような冷たい笑みを浮かべた。
「これで言い訳は通じねえ。
昭和の歴史の闇に隠れて、のうのうと生き延びてやがる犯人の喉元に、この骨のスタッツを突きつけてやる」
冷たい法医学教室の空気の中で、27歳の若者の死は、半世紀の時間を超えて、ついに「現代の殺人事件」としての牙を剥き始めていた。




