表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
法医学 宮内暦の事件簿  作者: 泉水遊馬
CASE5 時の檻

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
31/52

第二話:原子の年齢

「2023年……」

槇原の口から漏れた数字は、深夜の法医学教室の冷気に重く沈んだ。

昭和47年という半世紀前の幻影は、加速器質量分析計が弾き出した炭素14の絶対的な数値によって、文字通り一瞬で霧散した。

遺体の傍らに並べられた赤ヘルも、ゲバルト棒も、黄ばんだ新聞紙も、すべては現代の殺人を過去の遺物へと格下げするための、悪質な舞台装置に過ぎなかったのだ。

「犯人は、我々の時間感覚を嘲笑っているのです」

宮内暦はだらしなく袖の余った白衣を翻し、解剖台の頭蓋骨へと近づいた。

彼の細い指先が、頭蓋骨の上顎にしっかりと残された「第一大臼歯だいきゅうし」に触れる。

「槇原さん、炭素14のスタッツは『死亡時期』だけを証明したのではありません。

この男が『いつ生まれたか』、それも今から完全に数値化します」

「死亡時期だけじゃ足りねえのか?」

「足りません。

3年前に行方不明になった人間など、この東京には星の数ほどいる。

分母を極限まで減らすためには、彼の生年を特定し、個人のタイムラインを完全に復元する必要がある」

暦はピンセットを使い、頭蓋骨から慎重に大臼歯を1本、引き抜いた。

彼が次に狙いを定めたのは、歯の表面を覆う「エナメル質」である。

人間の大腿骨などの骨組織は、生涯を通じて絶えず破壊と再生《代謝》を繰り返すため、炭素14の濃度は「死の直前までの平均値」を示す。

しかし、歯のエナメル質は全く異なる性質を持っていた。

エナメル質は、幼少期――すなわち永久歯が形成される12歳前後の時期に完全に完成し、その後は死ぬまで一切の代謝を行わない。

つまり、エナメル質に含まれる炭素14の濃度を測れば、その人間が「12歳だった当時の地球の大気状態」が、完璧なタイムカプセルとして保存されているのだ。

「エナメル質のコラーゲンを測定すれば、彼がいつ子供時代を過ごしたかが分かります」

暦は抽出したサンプルを再び分析ラインへと乗せ、無造作に白衣のポケットからカロリーメイトのチョコレート味を取り出した。

銀色のフィルムを剥ぎ取る手が、興奮で僅かに素早くなる。

生きている人間の事情には一滴の涙も流さないが、物質が語る精密な生命のスタッツに直面するときだけは、彼の細胞が激しく脈動する。

「……出ました」

モニターに表示された炭素14の減少カーブと、エナメル質の濃度が交差する。

「彼の第一大臼歯が形成されたのは、2008年前後。

逆算すれば、この男がこの世に生を受けたのは――1996年前後です」

「1996年生まれ……」

槇原は奥歯のイチゴ飴を、ガリリと激しく噛み砕いた。

「昭和47年の連合赤軍の時代には、生まれてすらいねえ。

影も形もない。

それなのに、死んだ後に赤ヘルを被せられ、過激派の亡霊にされたわけだ」

「ええ。

被害者は、死亡時におよそ27歳。

現代を生きる、ごく普通の若者です」

生者の嘘を剥ぎ取った後に残された、27歳という剥き出しの数字。

その事実は、感傷を嫌う暦の胸にすら、ある種の冷徹な重量感を持ってのしかかった。

犯人は、この若者の未来だけでなく、彼が確かに現代を生きていたという存在の証明そのものを、昭和という歴史の地層の下へ埋め殺しようとしたのだ。

「1996年生まれで、3年前の秋から行方不明になっている27歳の男……」

槇原は手帳を取り出し、鉛筆の芯を走らせた。

「神保町の古書店『星野文庫』の周辺で、そんな若者の影がなかったか、西条署のデータベースをひっくり返してやる。

本庁の上の奴らが『時効成立』の判子を押す前に、この首根っこを掴んで引きずり出してやる」

「探すべきなのは、単なる行方不明者ではありません」

暦はカロリーメイトを一口 噛み砕き、その無機質な甘みの中で脳細胞を加速させた。

「彼はなぜ、あの地下書庫にいたのか。

現場に残されていた過激派の手記や新聞は、犯人が用意したものですが、本物の昭和の遺物です。

つまり、あの場所には本当に『昭和の秘密』が眠っていた。

被害者はそれを知って、あるいは探そうとして、あの檻に迷い込んだはずです」

「昭和の秘密、か」

槇原はトレンチコートのポケットに手を突っ込み、法医学教室の出口へと歩き出した。

「神保町の古書の街には、いまだにあの時代の燃え残りの灰がくすぶっている。

宮内、その原子の証明書、すぐに正式な書面にしておけよ。

本庁の管理官のツラに叩きつけてやる」

「言われずとも、スタッツは既に確定しています」

暦はそう言うと、再び顕微鏡に向かい、27歳の若者の歯のエナメル質が放つ、冷たい青い光を見つめ直した。

地球の大気が記憶していた核の傷跡――炭素14。

それは半世紀の時を超え、現代の孤独な殺人を暴く、最も厳粛な告発状へと姿を変えていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ