第二話:原子の年齢
「2023年……」
槇原の口から漏れた数字は、深夜の法医学教室の冷気に重く沈んだ。
昭和47年という半世紀前の幻影は、加速器質量分析計が弾き出した炭素14の絶対的な数値によって、文字通り一瞬で霧散した。
遺体の傍らに並べられた赤ヘルも、ゲバルト棒も、黄ばんだ新聞紙も、すべては現代の殺人を過去の遺物へと格下げするための、悪質な舞台装置に過ぎなかったのだ。
「犯人は、我々の時間感覚を嘲笑っているのです」
宮内暦はだらしなく袖の余った白衣を翻し、解剖台の頭蓋骨へと近づいた。
彼の細い指先が、頭蓋骨の上顎にしっかりと残された「第一大臼歯」に触れる。
「槇原さん、炭素14のスタッツは『死亡時期』だけを証明したのではありません。
この男が『いつ生まれたか』、それも今から完全に数値化します」
「死亡時期だけじゃ足りねえのか?」
「足りません。
3年前に行方不明になった人間など、この東京には星の数ほどいる。
分母を極限まで減らすためには、彼の生年を特定し、個人のタイムラインを完全に復元する必要がある」
暦はピンセットを使い、頭蓋骨から慎重に大臼歯を1本、引き抜いた。
彼が次に狙いを定めたのは、歯の表面を覆う「エナメル質」である。
人間の大腿骨などの骨組織は、生涯を通じて絶えず破壊と再生《代謝》を繰り返すため、炭素14の濃度は「死の直前までの平均値」を示す。
しかし、歯のエナメル質は全く異なる性質を持っていた。
エナメル質は、幼少期――すなわち永久歯が形成される12歳前後の時期に完全に完成し、その後は死ぬまで一切の代謝を行わない。
つまり、エナメル質に含まれる炭素14の濃度を測れば、その人間が「12歳だった当時の地球の大気状態」が、完璧なタイムカプセルとして保存されているのだ。
「エナメル質のコラーゲンを測定すれば、彼がいつ子供時代を過ごしたかが分かります」
暦は抽出したサンプルを再び分析ラインへと乗せ、無造作に白衣のポケットからカロリーメイトのチョコレート味を取り出した。
銀色のフィルムを剥ぎ取る手が、興奮で僅かに素早くなる。
生きている人間の事情には一滴の涙も流さないが、物質が語る精密な生命のスタッツに直面するときだけは、彼の細胞が激しく脈動する。
「……出ました」
モニターに表示された炭素14の減少カーブと、エナメル質の濃度が交差する。
「彼の第一大臼歯が形成されたのは、2008年前後。
逆算すれば、この男がこの世に生を受けたのは――1996年前後です」
「1996年生まれ……」
槇原は奥歯のイチゴ飴を、ガリリと激しく噛み砕いた。
「昭和47年の連合赤軍の時代には、生まれてすらいねえ。
影も形もない。
それなのに、死んだ後に赤ヘルを被せられ、過激派の亡霊にされたわけだ」
「ええ。
被害者は、死亡時におよそ27歳。
現代を生きる、ごく普通の若者です」
生者の嘘を剥ぎ取った後に残された、27歳という剥き出しの数字。
その事実は、感傷を嫌う暦の胸にすら、ある種の冷徹な重量感を持ってのしかかった。
犯人は、この若者の未来だけでなく、彼が確かに現代を生きていたという存在の証明そのものを、昭和という歴史の地層の下へ埋め殺しようとしたのだ。
「1996年生まれで、3年前の秋から行方不明になっている27歳の男……」
槇原は手帳を取り出し、鉛筆の芯を走らせた。
「神保町の古書店『星野文庫』の周辺で、そんな若者の影がなかったか、西条署のデータベースをひっくり返してやる。
本庁の上の奴らが『時効成立』の判子を押す前に、この首根っこを掴んで引きずり出してやる」
「探すべきなのは、単なる行方不明者ではありません」
暦はカロリーメイトを一口 噛み砕き、その無機質な甘みの中で脳細胞を加速させた。
「彼はなぜ、あの地下書庫にいたのか。
現場に残されていた過激派の手記や新聞は、犯人が用意したものですが、本物の昭和の遺物です。
つまり、あの場所には本当に『昭和の秘密』が眠っていた。
被害者はそれを知って、あるいは探そうとして、あの檻に迷い込んだはずです」
「昭和の秘密、か」
槇原はトレンチコートのポケットに手を突っ込み、法医学教室の出口へと歩き出した。
「神保町の古書の街には、いまだにあの時代の燃え残りの灰が燻ぶっている。
宮内、その原子の証明書、すぐに正式な書面にしておけよ。
本庁の管理官のツラに叩きつけてやる」
「言われずとも、スタッツは既に確定しています」
暦はそう言うと、再び顕微鏡に向かい、27歳の若者の歯のエナメル質が放つ、冷たい青い光を見つめ直した。
地球の大気が記憶していた核の傷跡――炭素14。
それは半世紀の時を超え、現代の孤独な殺人を暴く、最も厳粛な告発状へと姿を変えていた。




