第一話:時間の偽証
神保町の片隅に佇む「星野文庫」の地下書庫は、半世紀もの間、生者の記憶から忘れ去られた密室だった。
そこから運び込まれた白骨死体は、法医学教室のステンレス台の上で、奇妙な人工物たちに囲まれていた。
色褪せた赤ヘル。
「全学連」の文字が掠れたゲバルト棒。
そして、昭和四十七年の日付が鮮明に残る、黄ばんだ新聞紙。
西条署の刑事たちの誰もが、これを「あの激動の時代に起きた内ゲバの犠牲者」と信じて疑わなかった。
時効が成立した歴史の残骸として、処理の書類を一枚書けば、すべては終わるはずだった。
「……反吐が出るほどの、過剰な演出だ」
宮内暦は白衣の袖をだらしなく余らせたまま、デスクに並んだカロリーメイトのチョコレート味の箱を細い指先で弾いた。
彼の目は、遺体の傍らに置かれた遺留品には一瞬たりとも向いていない。
ただ一具の骨、その大腿骨の断面だけを凝視している。
「宮内先生、本庁の連中はもう『事件性なし』で処理を進めてるぞ」
部屋のドアを開けて入ってきた槇原玲二が、トレンチコートの襟に染み付いた古書の埃を払いながら言った。
彼の奥歯の間で、イチゴ味の飴玉がガリリと不機嫌に砕ける。
「彼らは文字で書かれた『手記』や『新聞』という、人間がいくらでも偽造できる記号しか見ない」
暦は顕微鏡のモニターを指差した。
「見てください、槇原さん。
五十年間、湿った地下書庫に放置されていた骨なら、土壌の水分によってコラーゲン《有機成分》の分解が進み、骨の質量は少なくとも三割は減少しているはずです。
しかし、この骨は極めて重い。
内部に水分と有機物質が、まだ完全に保持されている」
「つまり、死んでからそんなに時間が経っていない、と?」
「ええ。
この男は、昭和の活動家ではない。
私たちは今、高度な『時間の偽装トリック』を見せられているのです」
暦はそう言うと、引き出しから一本の鋭利なメスを取り出した。
今回の鑑定には、ハイドロキシアパタイトの結晶変化は使えない。
1000度の炎で焼かれたわけではないこの骨には、全く異なる「時間のスタッツ」が刻まれているはずだった。
暦が選択したガジェットは、大気圏に遺された核の記憶――^{14}\text{C}(炭素14)ボンブ・ピーク鑑定である。
1950年代から60年代、世界中で繰り返された大気圏核実験。
その放射性物質は地球全体の大気を包み、植物や動物、そしてそれらを摂取した人間の肉体へと取り込まれた。
大気中の炭素14濃度は、ある時期をピークに、年単位で厳密な減少のグラフを描き続けている。
人間が生き、呼吸をし、食物を摂取していたその瞬間の大気中の炭素14濃度が、骨のコラーゲンにはそのままフリーズされて残る。
それは、地球という惑星の歴史と連動した、絶対に改ざん不可能な「時間の履歴書」だった。
「大腿骨の骨皮質からコラーゲンを抽出します」
暦は骨の表面を薄く削り取り、特殊な試薬の入った試験管へと投入した。
「これを加速器質量分析計《AMS》にかけ、炭素14の原子数を直接カウントする。
人間がいくら昭和の新聞で死体を包もうが、その細胞が最後に摂取した地球の原子の数だけは、神の手によっても偽造できない」
槇原は壁に背を預け、タバコの代わりに新しいイチゴ飴を口に放り込んだ。
「もし、お前の言う通りこの骨が現代の死体だとしたら……犯人はなぜ、わざわざそんな面倒な真実の衣装を着せた?」
「時効ですよ」
暦は薬品の臭いが立ち込める室内で、カロリーメイトを一口、ガリリと噛み砕いた。
「現代の殺人は、どれほど巧妙に隠しても、発覚すれば警察が全力で追う。
しかし、それを『五十年前の学生運動の亡霊』に仕立て上げれば、警察は法的な壁――公訴時効という制度の前に、自ら思考を停止してくれる。
犯人は、警察組織の怠惰な習性を完全に熟知している」
「俺たちを手玉に取ったつもりか、クソ野郎が」
槇原の奥歯が、猛烈な力で飴玉を粉砕した。
生者の都合で塗り潰されようとしている、もう一つの剥き出しの殺人。
その真実の座標を指し示すために、法医学教室の分析装置が、静かに、しかし冷徹な電子音を立てて稼働し始めた。
モニターに映し出される、炭素14の濃度曲線。
その交点が示すのは、昭和四十七年という過去の闇ではなかった。
「スタッツ《数値》が出ました、槇原さん」
暦の漆黒のクマに縁取られた瞳が、青い光の中で妖しく輝いた。
「この骨の主が、この地上で最後に呼吸をしていたのは――わずか三年前。
二千二十三年の秋です」
時間の檻が、いま、科学の数字によって粉々に打ち砕かれた。




