プロローグ:血肉のスタッツ
宮内暦という男を構成する要素は、表向きは極めて無機質である。
だらしなく袖の余った白衣。
漆黒のクマ。
生きている人間の言葉を一切信じず、ただ骨塩の結晶構造だけを信仰する法医学教室の新人助教。
彼のデスクの上には、常にカロリーメイトのチョコレート味が整然と並び、それが彼の唯一の燃料であると誰もが信じて疑わなかった。
しかし、西条署のベテラン刑事、槇原玲二だけは知っている。
このボーン・オタクの真の「裏の顔」を。
深夜十一時。
東京・神田の路地裏にある、看板のない会員制の肉料理店。
重い鉄の扉を開けた槇原は、立ち込める濃厚な脂と、血の匂いを孕んだ熱気に眉をひそめた。
店の最奥のカウンター席。
そこに、いつも通りだらしない黒髪を揺らし、白衣を脱ぎ捨てた黒いシャツ姿の暦が座っていた。
彼の目の前には、炭火で豪快に焼き上げられた、一キログラムはあろうかというエゾシカの塊肉が鎮座している。
暦はナイフを一切使わなかった。
細く白い指先で、焼き上がった肋骨の端を直接掴み、野生の獣さながらにその赤身肉へと歯を立てた。
「……美味いか、宮内」
槇原が横の席に腰を下ろし、不機嫌そうにイチゴ飴を噛み砕く。
暦は口の端に微かに血の混じった肉汁を滲ませたまま、視線だけを槇原に向けた。
その漆黒の瞳は、法医学教室で顕微鏡を覗き込むときと同じ、あるいはそれ以上の、異様なまでの光を放っている。
「人間の舌は『美味しい』という曖昧な言葉で味覚を偽造しますが、私の肉体は、この野生動物が命を維持するために蓄積した完璧なアミノ酸のスコアを求めているだけです」
暦はそう言うと、骨から剥ぎ取った肉を、咀嚼の計算通りに的確に噛み砕いて飲み込んだ。
「植物性のプロテインや人工的な栄養素は、脳の維持には効率が良い。
しかし、私の骨髄が新しい赤血球を造り、思考の純度を保つためには、この鉄分とヘム鉄に満ちた『剥き出しの血肉』が必要不可欠なのです。
骨を理解するためには、その骨を包んでいた究極の肉を、私の細胞と同化させねばならない」
生きている人間の涙には一滴の価値も認めない男が、死した獣の「肉のスタッツ」には、異常なまでの狂気と敬意を払う。
彼にとって、肉を食らうということは、生命という数理モデルを分子レベルで体内に取り込む聖なる儀式であった。
「相変わらず、へどが出るほど極端な女だ」
槇原は苦笑し、コートのポケットから一枚の汚れた写真をデスクに、いや、カウンターの木目の上に滑らせた。
「肉の次は、お前の大好物の出番だ。
神保町の古い書庫の地下から、これが出てきた」
暦は骨付き肉を皿に置くと、油のついた指をペーパーナプキンで丁寧に拭い、写真を取り上げた。
そこにあったのは、天井まで届く古書の山が崩れ落ちた隙間から、まるで現世を睨みつけるようにして露出した、完全に白骨化した一具の頭蓋骨だった。
「神保町の『星野文庫』。
昭和の時代から放置されていた廃墟同然の古書店だ。
取り壊しの作業中に、地下の隠し書庫からこれが見つかった」
「保存状態は?」
暦の声から、肉を食らっていたときの野生の熱が引き、一瞬にして法医学者の冷徹なトーンへと戻る。
「最悪であり、最高だ」
槇原は奥歯で飴玉をガリリと鳴らした。
「遺体の傍らには、昭和四十七年の新聞と、当時の過激派のヘルメット、それから『内ゲバ』の顛末を記した手記が残されていた。
本庁の上層部は、連合赤軍時代の遺物として、公訴時効がとっくに成立した『歴史の骸』として片付けたがっている」
暦は写真の頭蓋骨の、特に眼窩の縁と、下顎骨のラインをじっと見つめた。
「昭和四十七年、ですか」
「ああ。
事件性なしの、ただの形式的な検視だ。
お前がサインをすれば、この骨は明日には無縁仏の灰になる」
暦は皿に残された、完全に肉を剥ぎ取られ、白く剥き出しになったエゾシカの肋骨をピンセットのように指でつまみ上げた。
「槇原さん、人間の脳は過去を都合よく偽造しますが、地球の物理法則だけは嘘をつけない」
「何が言いたい」
「写真に写っている古書の紙の劣化度と、この骨の表面の脱カルシウム状態のスタッツが、数理的に全く噛み合わない。
この骨は、五十年間もあの地下で眠っていたのではない」
暦の漆黒のクマの奥で、恐るべき猟犬の目が覚醒した。
「この骸は、昭和の亡霊などではない。
もっと新しく、もっと冷酷な、現代の殺人の記録です。
私の研究室に持ってきなさい。
時間の嘘を、科学のメスで切り裂いて見せます」
プロローグが終わり、昭和の闇に偽装された「現代の死」が、いま、法医学教室の冷たい光の中へと運び込まれようとしていた。




