第五話:灰の終幕
東の空が完全に白む頃、本庁の管理官は無言で西条署の廊下を去っていった。
宮内暦が突きつけた「国際学会へのデータ告発」という脅しは、警察官僚たちが最も嫌う『組織の面子の完全な破滅』を意味していた。
結果として、本庁は事件の隠蔽を断念せざるを得なくなった。
臨海部の地下工場は「国際的労働搾取および監禁致死事件」として正式に報道され、あの炭化骨もまた、名もなき行き倒れではなく「事件の被害者」として国の記録に厳格に刻まれることとなった。
生者の都合で塗り潰されかけた真実は、皮肉にも、1000度の炎で焼かれた骨塩の結晶によって守られたのだ。
午後二時。
激務を終えた槇原玲二は、重い足取りでT大学医学部の法医学教室へと戻ってきた。
トレンチコートには、あの地下工場のカビ臭さと、夜通しの捜査による泥の臭いが染み付いている。
「おい、ボーン・オタク」
槇原が部屋のドアを開けると、そこには相変わらずのだらしなさで、白衣の袖を余らせた宮内暦が椅子に深く沈み込んでいた。
彼の漆黒のクマはさらに色濃くなり、無造作な黒髪は完全に巣のようになっている。
卓上には、分析を終えたあの炭化骨が、厳重に保管ケースに収められて置かれていた。
「終わりましたか、槇原さん」
暦は視線すら上げずに、気怠そうに声を絞り出した。
「ああ、上が全面降伏だ。
被害者の引き取り手を探すために、外務省を通じて東欧の領事館に照会が始まった。
ハイドロキシアパタイトのデータが正確すぎて、向こうの政府も動かざるを得ないらしい」
槇原はそう言うと、白衣の男の前に、新しく買ってきたイチゴ味の飴玉の袋を放り出した。
「あんたの頑固さのおかげで、あの男はただの灰にならずに済んだ。
刑事として、一応礼を言っておく」
暦はその飴玉の袋を一瞥しただけで、興味なさそうに視線を外した。
「礼を言われる筋合いはありません。
私はただ、骨が提示した数理的なスタッツを、そのまま社会の言語に翻訳しただけです。
彼がどこの国の誰であろうと、骨塩の配列が示した事実が変わることはない」
暦はそう言うと、机の引き出しを乱暴に開け、中を漁り始めた。
しかし、彼の目当てのものは見つからないらしく、漆黒の眉が不機嫌そうに歪んでいく。
「……ない」
「何がねえんだ」
「カロリーメイトのチョコレート味です。
昨夜の分析で、私の脳の全エネルギーと、ストックのすべてを消費してしまった」
暦の細い指先が、空になった銀色の包装紙を忌々しそうに丸める。
生きている人間の涙や情熱には一滴の価値も認めない男が、己の肉体を維持するための人工的な栄養素の枯渇には、明らかな絶望を示していた。
「骨の尊厳を守るために、私の血糖値が危機に瀕している。
これは重大な計算ミスだ」
「そいつは災難だったな」
槇原は奥歯でイチゴ飴をガリリと噛み砕き、その冷徹な相棒の姿に、微かに口元を緩めた。
生者を信じないという虚無を共有しながら、死者の遺した物質的な証拠だけを鉄のルールとして連帯する。
この歪で冷たいバディ関係は、どうやらまだしばらく続きそうだった。
暦は大きくため息をつくと、白衣のポケットに手を突っ込み、保管ケースの中の骨を見つめた。
炎に焼かれ、すべてを剥ぎ取られた骨は、今や静かにその役目を終え、ただの無機質な物質として眠っている。
「人間の脳や舌は、生きるために都合の良い嘘を吐く。
しかし、重力と元素の記憶だけは、決してこの世界を裏切らない」
暦の呟きは、誰に宛てたものでもなく、法医学教室の冷たい空気に溶けていった。
一つの事件が終わり、また新しい死がこの部屋に運び込まれてくるまでの、束の間の静寂。
窓の外では、東京の街が何事もなかったかのように、数百万の生者の嘘と欲望を乗せて動き続けていた。




