プロローグ:骨と猛虎
歴史という名の巨大な砂時計において、人間が流す涙の一滴など、砂の一粒ほどの重みも持たない。
ましてや、死者の怨嗟や生者の欺瞞が渦巻く法医学教室という特異な空間においては、感情などという不確かな結晶は、最も排除されるべき「ノイズ」であった。
T大学医学部法医学教室の新人助教、宮内暦は、およそ現世のあらゆる喧騒から隔絶された静寂の中に生きていた。
サイズが二回りは大きな、だらしなく袖の余った白衣。
無造作に後ろで一本に結ばれた黒髪から、幾筋ものほつれ毛が落ちる。
万年寝不足を証明する漆黒のクマが、彼女の半ば死んだような両眼を縁取っていた。
午前二時。
死臭すら凍りつく深夜の研究室で、暦は顕微鏡の対物レンズを見つめていたわけではなかった。
彼女が凝視していたのは、デスクの隅に置かれた、支給品の型遅れなデスクトップPCの画面である。
画面の中で蠢いているのは、緑の芝生と、黄色と黒の縦縞をまとった男たちであった。
宮内暦という人間は、生きている人間の言葉を一切信用しない。
脳は嘘をつき、舌はそれを飾る。
しかし、彼女の冷徹な唯物論的思考において、唯一、生者でありながら「嘘をつかない」と信じられている領域が存在した。
それが、阪神タイガースのスタッツ《個人成績》である。
肉体が課せられた重力、スイングのヘッドスピード、そして甲子園の土に刻まれたスパイクの厳密な軌跡。
それらは分子レベルの物理現象であり、一切の政治的欺瞞を許さない「数理の叙事詩」であった。
ゆえに暦は、熱狂的な隠れ虎党であった。
九回裏、二死満塁。
一打逆転の局面において、画面の中の打者が、実に見当違いな外角のスライダーに踏み込み、空を切った。
バットは空気を引き裂き、捕手のミットが乾いた音を立てる。
ゲームセットであった。
暦の細い指が、無意識のうちに引き出しの奥へと伸びた。
彼女の脳を回す唯一の燃料である、カロリーメイトのチョコレート味。
その黄色い箱から引き抜かれたアルミ箔の塊が、暦の華奢な手の中で、みしり、と不穏な音を立てて握り潰された。
「……なぜ、あの配球で踏み込めるのか」
誰もいない研究室に、地獄の底から響くような昏い呟きが落ちた。
「配球チャートの確率論から言えば、外角への逃げる球は八割。
それを、人間の主観という浅薄なノイズで覆そうとするから、骨盤の連動が遅れる。
脳が嘘をついた証拠だ」
彼女は、粉々になったカロリーメイトの破片を、まるで白骨の灰でも手向けるかのように口に放り込んだ。
怒りのあまり、その漆黒のクマがわずかに痙攣している。
彼女にとって、打率二割一分の打者が放つ凡退は、法医学的に解析されるべき「人為的エラー」に他ならなかった。
その時、研究室の重い防火扉が、前触れもなく低く鳴って開いた。
泥臭いトレンチコートの裾を揺らし、夜の湿気を全身にまとった男が立っていた。
西条署のベテラン刑事、槇原玲二である。
その手には、いかにも不釣り合いなプラスチック製の段ボール箱が握られていた。
暦は刹那の速度でPCの画面を切り替え、何事もなかったかのように、虚無の瞳を槇原に向けた。
机の上には、握り潰されたカロリーメイトの残骸だけが転がっている。
槇原は、暦の様子に怪訝な目を向けることもなく、ただポケットからイチゴ味の飴玉を取り出した。
それを口に放り込み、奥歯でガリリと不機嫌そうに噛み砕く。
人間の言葉を一切信用しない刑事が、唯一信用する「死者の沈黙」を、そこに持参したのだ。
「宮内、夜分にすまねえな。
また、厄介な骨を拾っちまった」
槇原のしゃがれた声が、室内の冷気を震わせた。
暦は白衣の袖を軽く引き、いつもの冷徹な「ボーン・オタク」の仮面を完璧に整え直した。
「……ちょうど、人間の脳の愚かさに絶望していたところです。
生者のノイズがない世界へ、案内してください」
暦は立ち上がり、槇原が差し出した箱へと歩み寄る。
画面の向こうの猛虎たちの敗戦など、すでに過去の堆積物に過ぎない。
今、彼女の目の前には、1000度の炎で焼かれたという、新たなる「真実の告発者」が待っていた。




