第二話:漆黒の署名
西条署の槇原玲二が、十五年前の都営住宅の居住データを手に再び法医学教室を訪れたのは、外の闇が完全に深まった深夜のことであった。
彼のトレンチコートの襟には、夜露の冷たさがうっすらと染み付いている。
解剖室のドアを開けた瞬間、槇原は何も言わずにポケットから新しいイチゴ味の飴玉を取り出し、口へと放り込んだ。
ガリリ、という鋭い咀嚼音が、静まり返った部屋の壁に跳ね返る。
解剖台の前では、暦が相変わらずサイズの合わない大きすぎる白衣の袖をだらしなく余らせたまま、ピンセットを握っていた。
彼女の鋭い眼窩の底にある漆黒のクマは、蛍光灯の青白い光を浴びて、まるで地層のように深い影を落としている。
引き出しから取り出したカロリーメイトのチョコレート味を無感動に前歯で齧りながら、彼女はデータ用紙の一点を見つめたままであった。
「槇原さん、そちらの足跡は何か見つかりましたか」
暦は振り返ることもせず、冷淡な声で問いかけた。
「ああ、十五年前の二〇一一年当時、その都営住宅の402号室に住んでいたのは、当時二十一歳の『浅野絵里』という女だ。
出生届の出されていない赤ん坊の存在を隠し通すには、うってつけの、社会の繋がりから切り離された孤独な女だったらしい。
だが、その女は十年前、別の男と籍を入れて名前を変え、今は都心の高級マンションで、何不自由ない『良き母親』として暮らしていやがる。
現在の名前は、一ノ瀬絵里。
ボランティア活動にも熱心な、地域の手本のような母親だとよ」
槇原はそう吐き捨て、胸の奥にある泥臭い怒りを噛み潰すように、もう一度飴をガリリと鳴らした。
過去をいくらでも書き換え、今日の平穏を貪る人間の欺瞞を、彼は誰よりも嫌悪していた。
現在の幸福な生活の裏で、十五年前に床下に遺された小さな骨のことなど、その女の脳からは完全に忘却されているに違いなかった。
「生者の脳とは、本当に都合の良い組織ですね。
ですが、この小さな骨の指先に付着していた物質は、彼女の『良き母親』という仮面を、分子のレベルで拒絶しています」
暦はゆっくりと振り返り、万年寝不足の目を細めてデータシートを差し出した。
「赤ん坊の指の骨、そのわずかな隙間から検出された微量成分の精密分析が終わりました。
そこから検出されたのは、ジブチルヒドロキシトルエン、および特定の希少な有機顔料です。
これは、二〇一〇年前後に海外の高級ブランドが限定販売していた、非常に特殊な成分配合を持つ『漆黒のネイルベースコート』の成分と完全に一致します」
「ネイルだと?」
槇原はシートを受け取り、鋭い目をさらに細めた。
「ええ。
一般的な市販品とは異なり、重金属の比率が極めて独特な、当時のサロン専用品です。
そして、この成分が乳児の『多発性骨折』が生じた肋骨の表面ではなく、指先、すなわち、大人の手を必死に拒絶し、掴みかかろうとした『爪の跡』からしか検出されなかった。
これが何を意味するか分かりますか、刑事さん」
暦は白衣の袖を乱暴にまくり上げ、自らの細い指先を解剖台に向けた。
その声には感情の起伏が一切ないからこそ、事実の持つ凶暴さが、そのまま室内の空気を凍らせていく。
「この赤ん坊は、自らの骨が砕かれるほどの暴力を受けた際、その漆黒の爪をした手の持ち主を、必死に押し返そうとしていたのです。
爪が剥がれ、指の骨が直接その皮膚に擦りつけられるほどの力で、その『母親』の化粧を、自らの骨に削り取っていた。
浅野絵里。
現在の一ノ瀬絵里が、どれほど高級な化粧で過去を隠そうとも、自らの子供の遺骨の中に、自分の爪の成分が十五年間も保管されていたとは夢にも思わなかったでしょう」
解剖室の冷気の中で、暦の言葉が重く沈み込んでいった。
人間は言葉で自らを飾り、記憶を塗り替える。
しかし、生命が最期に遺した硬組織は、その欺瞞の衣を容赦なく引き剥がす。
「上等だ、暦。
その高級マンションの『良き母親』のところへ、このデータを手土産に行ってくる。
十五年前、自分の子供の骨の中に、自分の爪の跡を遺してきた気分がどんなものか、じっくり聴かせてもらおうじゃないか」
槇原は不敵な笑みを浮かべ、トレンチコートのポケットに手を戻した。
彼の奥歯が、口の中のイチゴ飴の残骸を完全に粉砕する。
「時効の壁は、監禁致死罪の撤廃によって崩れている。
出生届のない命だろうが、床下に捨てられた骨だろうが、犯した罪の重さは一ミリも変わらねえ。
奴の目の前で、この骨の詩を叩きつけてやる」
「私は法医学者ですから、生者の罪の重さには興味がありません」
暦はそう言うと、再び静かに顕微鏡のレンズへと顔を戻した。
「ですが、人間が脳でつく嘘を、このリン酸カルシウムの結晶が完全に粉砕する瞬間だけは、何度見ても科学的に誠実であると感じます。
槇原さん、その女の現在の指先からも、同じ成分の残響が見つかるかどうか、鑑識に徹底的に調べさせてください。
それが、この小さな骨が遺した、最後の復讐の行になりますから」
「ああ、任せとけ」
トレンチコートを翻し、槇原は夜の法医学教室を疾風のように去っていった。
後に残されたのは、蛍光灯の青白い光と、顕微鏡に向き合う暦の小さな背中だけだった。
引き出しから取り出されたカロリーメイトの2本目が、沈黙の室内に、静かな咀嚼音を再び響かせ始めていた。
生きている人間の傲慢な嘘を暴くための、彼女と死者との孤独な対話は、まだ終わらない。




