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法医学 宮内暦の事件簿  作者: 泉水遊馬
CASE3 偽りの系譜

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19/52

第一話:社会のない命

フリルまみれの私服という奇妙なノイズが去った翌日、T大学医学部法医学教室は、本来の冷徹な静寂を取り戻していた。



挿絵(By みてみん)



解剖室のステンレス製解剖台の上には、すでに新たな「物質」が、まるで博物館の標本のように系統立てて並べられている。

それは、昨日、西条署管内の古い都営住宅の床下解体現場から発見されたという、小さな、あまりにも小さな一揃いの白骨であった。

こよみは、袖がだらしなく余った大きすぎる白衣のポケットに両手を突っ込み、その小さな骨格を偏執病的な細かさで見つめていた。

彼女の鋭い眼窩の底にある漆黒のクマは、相変わらず万年寝不足の深さを保っている。

引き出しから取り出したカロリーメイトのチョコレート味を無感動に前歯で齧り、その無機質な咀嚼音だけが、顕微鏡の冷たいレンズに反射していた。

彼女にとって、骨の大きさや、それが生前に受けていたであろう社会的境遇などは、すべて思考のノイズに過ぎない。

ただ、その硬組織がどのような物理的負荷を記憶しているか、それだけが彼女の精神を回す唯一の燃料であった。

部屋の重い扉が、音もなく開いた。

西条署の槇原玲二が、トレンチコートの襟を立てたまま入ってくる。

彼の車内から連れてこられたタバコの臭いは、この法医学教室の冷たい空気によって、瞬時に打ち消されていった。

槇原は無言のまま、ポケットから新しいイチゴ味の飴玉を取り出し、口へと放り込んだ。

ガリリ、と奥歯でそれを激しく噛み砕く無骨な音が、静まり返った室内に響き渡る。


こよみ

その小さな骨が、今度の『嘘つき』か」


槇原は解剖台の横に立ち、木箱の中に並べられた、人間の掌に収まるほどの小さな大腿骨を見下ろした。


「ええ、極めて質の悪い嘘です、刑事さん。

この骨の主は、生後わずか三ヶ月前後の乳児。

発見された床下の状況、および周囲に残された家財の年代から見て、遺棄されたのは今から約十五年前の、二〇一一年前後と推測されます。

当時のその部屋の居住者は、すでに別の土地へ移住しているか、あるいは社会の底に隠れて名前を変えている。

文字通り、社会から抹殺された生命です」


こよみはピンセットの先で、乳児の「頭蓋骨」の断片を慎重に指し示した。

その表面には、一見するとただの成長途中の隙間に見える、奇妙な「陥没の痕跡」が刻まれていた。


「人間は脳で都合の良い物語を紡ぎ、言葉で自らを正定化します。

十五年前、この子の親は、周囲に対して『子供は病気で死んだ』、あるいは『最初から生まれなかった』とでも言ったのでしょう。

役所の記録にも、この子の出生届は存在していません。

文字通り、社会に存在しなかった命です。

ですが……この子の骨は、その短い生涯の最期に受けていた、凄絶な重圧をそのまま保存していました」


こよみはピンセットを置き、壁のシャーカステンにX線透過写真のパネルを掲げた。

白い光の中に、細く、脆い乳児の肋骨が、まるで魚の骨のように弱々しく浮かび上がる。

しかし、その細い線のところどころには、不自然な「こぶ」のような突起が、いくつも並んでいた。


「見てください、槇原さん。

この左右の肋骨に刻まれた、無数の修復痕を。

折れては治り、治ってはまた折られるというサイクルを、この短い三ヶ月の間に、少なくとも三回は繰り返している。

これは法医学において、児童虐待の決定的な証拠となる『多発性骨折』の痕跡です。

破骨細胞と骨芽細胞は、この赤ん坊が泣き叫ぶたびに加えられた、生者の理不尽な暴力を、ただ愚直に骨塩量の変化として刻み続けていた。

この骨は、十五年前に自分を殺した親の罪を、今も告発し続けているのです」


解剖室の空気が、一瞬にして凝固した。

槇原の口の中で、イチゴ飴の動きがピタリと止まる。

彼の鋭い目が、さらに細められ、刑事としての猟犬の血が静かに騒ぎ始めるのを感じていた。

生者の吐き散らす言葉がいかに醜く、いかに容易く真実を隠蔽するか。

槇原はその泥臭い現実を、誰よりも知っている。


「出生届もない、十五年前の乳児の遺棄か……。

当時の居住者の足跡は、とっくに泥に塗れて消え失せている。

戸籍のない子供の死など、生きてる人間の世界じゃ、存在しなかったことと同じだからな。

だが、こよみ、お前がその骨の声を聴いた以上、俺がそいつを『現実の事件』として引きずり出してやるよ」


槇原はトレンチコートのポケットに両手を突き込み、椅子を引いて立ち上がった。

彼の奥歯が、再びガリリと飴玉を噛み砕く。


「まずは十五年前のその都営住宅の家賃口座、および周辺の人間関係の泥を浚ってくる。

人間の言葉は嘘ばかりだが、金を動かした跡と、骨が遺した傷だけは嘘をつけねえからな」


「頼みますよ、刑事さん。

星野美津子の事件と同じです。

脳は忘却を決め込みますが、このリン酸カルシウムの結晶は、決して裏切らない。

生者がどれほど完璧な忘却を装おうとも、この子の硬組織に刻まれた悲鳴は、決して消せない物理的な真実です。

まずは、十五年前のその402号室に誰がいたのか、その足跡を暴いてきてください」


こよみはそう言うと、大きすぎる白衣の袖を乱暴にまくり直し、再び顕微鏡のレンズへと顔を戻した。

生きている人間の傲慢な嘘を、物言わぬ骨という冷厳な物質が完全に剥ぎ取るための、二人の新たなる対話が、今、本格的に幕を開けた。


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