プロローグ:フリルと白衣の境界線
ある日曜日。
T大学医学部法医学教室の重い扉の前に、西条署の槇原玲二は立っていた。
休日だというのに、奥多摩で発生した古い事件の書類に不備が見つかり、その確認のためにわざわざ大学まで足を運ぶ羽目になったのだ。
槇原はいつもの泥臭いトレンチコートのポケットに両手を突き込み、口の中に放り込んだイチゴ味の飴玉を、苛立ちと共にガリリと奥歯で噛み砕いた。
年中無休で骨の間に引き籠もっているあの「ボーン・オタク」の顔を思い浮かべるだけで、口の中の甘さが少しだけ苦く変わる。
槇原がノックもせずに解剖室の扉を押し開けた瞬間、彼の動きは完全に硬直した。
解剖台の横、顕微鏡の前に座っていたのは、いつもの「死体のような漆黒のクマを宿した不気味な法医学者」ではなかった。
いや、顔はその宮内暦本人なのだが、その身体を包んでいる「物質」が、あまりにも異常であった。
彼女が着ていたのは、白衣ではなかった。
それは、過剰なまでのレースと、幾重にも折り重なったピンク色のフリルが激しく主張する、いわゆる「ゴシック・アンド・ロリータ」と呼ばれる系統の、極めてデコラティブな私服であった。
頭には大きなフリルのついたヘッドドレスが乗っかっており、普段のボサボサの黒髪は、なぜか完璧な縦ロールのツインテールに整えられている。
しかし、その人形のような衣装のままで、暦はいつものように前歯でカロリーメイトのチョコレート味を無感動に齧り、顕微鏡のレンズを睨みつけていた。
「……おい、暦。
お前、ついに脳の神経パルスでも焼き切れたのか」
槇原は口の中の飴の破片を転がしながら、引きつった声で問いかけた。
暦は顕微鏡からゆっくりと顔を上げ、万年寝不足の漆黒のクマが刻まれた目で、冷淡に刑事を見据えた。
そのゴージャスなフリルと、呪怨の塊のような目元のギャップは、ホラー映画の登場人物さながらの不気味さを醸し出している。
彼女はサイズの合わない大きすぎる白衣を、そのフリフリのドレスの上から羽織ろうと、短い腕をバタつかせ始めた。
「失礼ですね、槇原さん。
これでも私は、生きている人間としての最低限の社会性を保持するために、休日の外出着を選別する知性を持っています。
今日は大学の帰りに、骨専門の古本市へ行く予定があるため、一番『よそ行き』として相応しいと判断した衣服を着用しているだけです」
「それがよそ行きだと?
お前、その格好で奥多摩の山林を歩いたら、別の意味で通報されるぞ。
第一、そのフリルの量が多すぎて、白衣の袖に全く収まってねえじゃねえか」
槇原が指差した通り、暦がいつもの大きすぎる白衣に腕を通した結果、袖口や襟元から、収まりきらないピンクのレースとフリルが、まるで破裂したクッションの綿のように大量に飛び出していた。
小柄な彼女の身体は、白衣とフリルの相乗効果によって、普段の二倍近い容積に膨れ上がっている。
本人は至って真剣な表情で、白衣のポケットに無理やり両手を突っ込もうとしているが、フリルが邪魔をして手が届いていない。
「物理的な容積の計算を誤ったことは認めます。
ですが、この衣服は衣服としての構造が極めて緻密であり、繊維の織り込みの密度において、私の美意識を満たしているのです。
人間が脳で紡ぐ流行などというくだらない物語よりも、この圧倒的な布の質量と、リン酸カルシウムのごとき強固なレースの骨組みこそが、私を精神的に安定させる。
何か文句がありますか、刑事さん」
「大ありだ。
お前と並んで歩く俺の身にもなってみろ。
泥臭いトレンチコートのオヤジと、白衣からフリルを爆発させた限界不眠症のロリータだぞ。
どこの不審者グループだ」
槇原は頭を抱え、もう一粒イチゴ飴を口に放り込んでガリリと噛み砕いた。
この女の「骨への信仰」が常軌を逸していることは知っていたが、衣服のセンスまでが完全に人類の斜め上を行っているとは思いもしなかった。
暦はフリルまみれの腕で、机の上の書類を不器用につまみ上げ、槇原の前に差し出した。
「生者の視線など、ただの光子の反射に過ぎません。
そんなノイズを気にする暇があるなら、この書類の確認を終わらせてください。
私の脳の糖分が、このフリルの重圧によって急速に消費されています」
「それはお前が勝手に自滅してるだけだろうが」
槇原は吐き捨てながらも、書類を受け取って目を通し始めた。
解剖室の青白い蛍光灯の下で、真剣に事件の数値を検証する二人の影が伸びる。
一方は泥臭いトレンチコート、もう一方は白衣からフリルをはみ出させた、奇怪極まる凸凹のバディ。
しかし、その見た目のコミカルさとは裏腹に、二人の視線は、すでに人間のドス黒い欺瞞を暴くための「鉄の冷徹さ」を帯び始めていた。
「終わったぞ。
さっさとその爆発したフリルを引き連れて、古本市へ失せろ」
「言われずともそうします。
それでは、良い物質の日曜日を、刑事さん」
暦はフリルをガサゴソと鳴らしながら、だらしなく余った白衣の裾を引きずって、おぼつかない足取りで解剖室を出て行った。
残された槇原は、彼女が置いていったカロリーメイトのゴミを見つめながら、深くため息をついた。
生きている人間の嘘を暴くための、生者を信じない二人の孤独な戦いは、このように時折、致命的なまでの妙なズレを伴いながらも、確実に次の「骨の告発」へと向かって進んでいくのである。




