第一話:宮内暦
大学の法医学教室は、真夏だというのに冷蔵庫の中のような冷気が満ちている。
外では蝉が狂ったように鳴いているはずだが、分厚い遮光カーテンに遮られたこの部屋には、ただ解剖台を照らす無機質なLEDの光と、一定のハミングを繰り返す空調の音だけが響いていた。
宮内暦は白衣のポケットからカロリーメイトのチョコレート味を取り出し、無表情に噛み砕いた。
パサパサとした物体が口内の水分を容赦なく奪っていくが、彼女にとってはこれが最も合理的な燃料補給だった。
「宮内、お前それ主食にしてから何年経つ?」
部屋のドアを乱暴に開けて入ってきたのは、西条署のベテラン刑事、槇原玲二だった。
手には缶コーヒーと、なぜかイチゴ味の飴玉の袋を握っている。
「効率が良いですから。
人間の消化器官は、栄養を摂取するためだけに最適化されるべきです」
暦は口の周りにチョコ味の粉をつけたまま、真顔で答えた。
仕事中は冷徹な科学者だが、白衣を一歩脱げば、彼女の部屋は足の踏み場もないゴミ屋敷であり、私生活は完全にポンコツである。
槇原は呆れたようにため息をつき、ポケットからイチゴ飴を取り出して自分の口に放り込んだ。
「甘いもんは脳にいいんだよ。
それより、例の山林で見つかった白骨死体だがな……お前が早く来いってうるさいから、鑑識の報告を待たずにすっ飛んできたぞ」
「お疲れ様です、槇原さん。
ですが、ここからは私の時間です」
暦の目が、ふっと冷徹な科学者のそれに切り替わった。
彼女は作業台の上に並べられた、泥を丁寧に洗い流されたばかりの美しい骨格を、恋人でも見つめるかのような愛おしそうな視線で指し示す。
「生きている人間は、保身や嘘のために文字を書き、言葉を操りますが、骨は絶対に嘘をつきません」
暦が法医学に、ひいては「骨」という存在に異常なまでの執念を燃やすのには、ある過去があった。
高校時代、彼女の唯一の理解者であった親友が、ある日突然、川で遺体となって発見された。
周囲は「自殺」だと噂し、暦も絶望の淵に立たされたが、その遺体を解剖した法医が、骨に残された微細な痕跡から「足を滑らせたことによる不慮の事故死」であることを医学的に証明してくれたのだ。
その時から、彼女の信条は決まっていた。
(生きている人間の言葉には裏があるけれど、遺された骨だけは、故人が最期に迎えた真実だけを伝えてくれる)
だからこそ、彼女は二十代後半という若さで大学の助教という地位に就き、寝食を忘れて死者の本当の最期を明かすことに命を懸けているのだ。
「で、その嘘をつかないホネ公は、何か面白いことでも喋ったか?」
槇原は缶コーヒーのプルタブを引き抜きながら、解剖台に一歩近づいた。
「ホネ公ではありません、敬意を持って『ご遺体』と呼んでください。
……ただ、おっしゃる通り、この方はとても饒舌です」
暦はピンセットを手に取り、まずは遺体の全体像を槇原に見せるように一歩下がった。
「骨格の各部位の癒合状態、および恥骨結合面の摩耗度合いから見て、年齢は二十代後半から三十代前半の男性。
死亡推定時期は、土壌の成分と骨の風化具合から、およそ十年前です」
「十年前、か。
ちょうどあの旧道が閉鎖された時期と重なるな」
「ええ。
ですが、私があなたを急かして呼び出した理由は、そんな一般的なデータのためではありません」
暦はピンセットの先で、遺体の『ある部分』を優しくのぞき込んだ。
それは、泥を完全に除去され、ライトを浴びて不気味なほど白く浮き上がっている、遺体の両手の指の骨だった。
「この指の骨が、通常では考えられない『異常な履歴』を語っているんです」
暦の言葉には、確固たる熱が宿っていた。
(この骨が刻んだ痛みの記憶は、並大抵のものではない。
この人物は、死ぬ直前まで、一体何と戦っていたのだろう)
冷たい部屋の中で、暦の静かな追求が始まろうとしていた。




