プロローグ
夏の集中豪雨は、容赦なく山肌を削り取っていった。
深夜に発生した土砂崩れは、数万トンの泥流となって崖下の林道を飲み込んだ。
それは、10年前から立ち入り禁止区域に指定され、人々の記憶から完全に忘れ去られていた旧道だった。
翌朝、重機による復旧作業が始まった直後、作業員の一人が悲鳴をあげてへたり込んだ。
泥の塊から突き出ていたのは、一本の不自然に白い「腕」だった。
肉は完全に削げ落ち、むき出しになった骨が、夏の強烈な陽光を浴びて鈍く輝いている。
それは、10年もの間、暗い土底に葬られていた死者からの、最初のメッセージだった。
通報を受けて最初に現場に到着したのは、西条署のベテラン刑事、槇原玲二だった。
ぬかるむ泥に足をとられながら、彼はヘビースモーカー特有の重い足取りで遺体に近づく。
「おいおい、こいつはまた、ずいぶんと気の長いヤマだな」
槇原はコートのポケットから、煙草の代わりにイチゴ味の飴玉を取り出して口に放り込んだ。
かつて信じた容疑者に裏切られて以来、彼は「生きて動く人間」の言葉を何一つ信用しなくなった。
目の前にあるのは、完全に白骨化した一躯の遺体。
衣服は泥にまみれて原型を留めておらず、所持品らしきものも一切見当たらない。
「身元不明の行き倒れ、あるいは10年前の災害の未元化遺体……か」
普通なら、そう処理されて終わるはずの案件だった。
しかし、この遺体には、引き上げる作業員たちの手を止めさせる奇妙な「美しさ」があった。
泥にまみれてなお、その骨格は歪みがなく、繊細で、まるでガラス細工のように整っていたのだ。
特に、泥の中から天を突くように伸びていた左腕の骨。
その橈骨の表面には、人間の肉体には本来存在しないはずの、奇妙な人工物が付着していた。
鈍い銀色の輝きを放つ、金属製のプレート。
それが、10年という長い沈黙の時間を破る、最初の鍵だった。
槇原は口の中でイチゴ飴をガリリと噛み砕き、スマートフォンのカメラを遺体に向けた。
「おい、T大の法医学教室に連絡を入れろ。
あの偏屈な『骨オタク』を叩き起こすぞ」
生きている人間は、保身のため、誰かを守るため、あるいは悪意を隠すために、いとも容易く嘘をつく。
彼らの口から溢れる言葉は、どれだけ美しく飾られていても、常に揺らぎ、変化し、都合よく書き換えられてしまう。
だが、骨は絶対に嘘をつかない。
肉体が朽ち果て、魂がどこかへ去ってしまった後も、彼らは自らがどう生きて、どう死んだのかを、何年経とうが実直に記録し続ける。
栄養状態、浴びた衝撃、侵された病、そして最期の瞬間に受けた暴力の痕跡。
言葉を持たない死者たちは、その白い骨身をもって、暗闇の底から沈黙の叫びをあげているのだ。
搬送される遺体を見送りながら、槇原はふっと視線を山林の奥へと向けた。
(10年前に、この場所で一体何があった)
押しつぶされた土砂の匂いと、イチゴ飴の人工的な甘い香りが、夏の熱気の中で不快に混ざり合う。
まだ誰も知らない。
この一躯の白骨が、かつてクラシック界を震撼させ、突如として表舞台から姿を消した「伝説の天才ピアニスト」のものであることを。
そして、その指先の骨に、常軌を逸した絶望の記憶が刻まれていることを。
真実を語る骨と、嘘を暴く人間の、長い戦いの幕が今、静かに上がろうとしていた。




