エピソード神無月 窓際のテーブル席の恋人達 TRUE END アフターストーリー
「ただいまぁ〜」
「あ!章、お帰りなさい!」
エプロン姿の美月がキッチンから玄関にパタパタと走ってくる。
「ん〜、いい匂い」
「今日はね、栗ごはんにしたの!」
「おお!秋らしくて良いね」
「章、好きだったでしょ?栗ごはん」
「もちろん!」
結婚した章と美月は、転勤先の地方で寄り添うように二人仲良く暮らしていた。
「今日ね、ショッピングモールに行ってきたよ」
「郊外の大きな店?美月一人で?」
「そうだよ?」
「車を運転する様になって、行動範囲が拡がったね…でも気を付けてよ?」
「うん、分かってるわ♪」
「あ…」
「…赤ちゃん、可愛いなぁ…」
夫婦仲は変わらず睦まじかったが…
子どもはなかなか授からなかった。
「二人きりの生活も楽しいじゃない」
「うん……」
そう微笑む章の優しさに感謝しつつも、美月はやっぱり、二人の愛の証となる子どもを強く望んでいた。
そんな美月の身体に異変が起きたのは、木々の葉が静かに色づき始める、30歳手前の秋のことだった。
「章…私、何だか…気持ち……悪い……!」
「た、大変だ! すぐ病院へ行こう!」
駆け込んだ病院の診察室で告げられたのは、待ち望んでいた一言だった。
「……おめでた、ですね」
「……!」
「やったあ……っ!!」
手を取り合い、感涙にむせびながら喜び合った二人は、やがて生まれてくる赤ちゃんのために愛おしい準備を始めた。
「見て見て、章! 新生児用のお洋服、こんなに小さくて可愛いの♡」
「本当にちっちゃいんだね……」
「あ、こっちの靴下も可愛い!」
秋風が心地よい街並みを抜け、赤ちゃん用品の売り場を見て回るのが二人の日課になった。
「ほらこれ!」
「ん〜何々?『イマドキの赤ちゃんの名前特集』?」
赤ちゃん雑誌を広げ嬉々として記事を読む二人
部屋の中は、これから生まれてくる赤ちゃんのために用意した赤ちゃん用品でいっぱいになっていった。
心から幸せそうに微笑む美月。
その笑顔を隣で見つめていられることが、章にとって何よりの幸福だった。
しかし――
神無月の澄み渡る空とは裏腹に、残酷な現実が訪れる。
「先生……」
「……ええ。
…お二人には、私から伝えます…」
産婦人科の看護師と担当医が、痛切な面持ちで二人と向き合った。
何回目かの検診を終えた二人に告げられたのは、あまりにも重く冷たい言葉だった。
「今回の検診の結果ですが……赤ちゃんの心音が確認できません。残念ですが……」
「……!」
宿った小さな生命は、その産声をあげることなく、神様の元へと静かに帰っていった。
「私達の赤ちゃんが……どうして……っ」
「美月……美月……」
凍てつくような冷たい秋雨が降る夜、すべてが音を失ったかのような暗闇の中で、泣き崩れる美月を章は、ただ腕の中に強く、強く抱きしめ続けた。
◇
処置をするため、美月はすぐに入院する事になった。
「…じゃあ、着替えを取って来るからね」
「…うん」
少し落ち着いた様子の美月だが、その瞳の奥には底知れない絶望と不安が張り付いているのが分かる。
「高山さんが戻られるまで、奥様には私が付いていますから」
担当の看護師がそう言ってくれた。
「じゃあ行ってくるね」
「うん…行ってらっしゃい」
背中を向けるのがこれほどまでに辛いと感じたことはなかった。
けれど、やることが山積みだった。
章は入院手続きやら、美月の着替えを準備するなど、震える手で慣れない雑務をこなした。
胸の奥をえぐられるような痛みに耐えながら、『ここで僕まで崩れたらダメだ、泣いてる場合じゃないな』と、心の中で必死に自分を叱咤した。
「…お義父さん、お義母さん…美月が…赤ちゃんが…」
痛切な報告ではあったが、章は震える声で美月の両親に連絡を取った。
美月の母が、すぐにでも駆けつけてくれることになった。
「後は…あ、会社に連絡を…」
諸々の手続きを終え、章はやっとの思いで病室へ戻ってきた。
「ごめんね、遅くなった」
「うううん…大丈夫だよ」
「…」
顔を見れば、大丈夫などではないことが痛いほど分かった。張り詰めた空気のなか、息をするのも苦しい。
「…そうだ、何か欲しいものは?売店で買ってくるよ」
「…じゃあ、何か飲み物が欲しいかな…泣きすぎちゃったみたい、喉が渇いちゃった…」
そう言って痛々しく微笑む美月の姿に、胸が締め付けられるように痛んだ。
「分かった、幾つか選んで買ってくるよ…」
その時、看護師が章に声をかけた。
「高山さん、すみません、主治医から説明があるので…お願いできますか?」
「あ、今はちょっと…」
「いいよ章、先にお医者様の話を聴いてきて?」
「でも…」
「お願い…」
「…分かったよ、すぐ戻るから」
章は美月を残し、病室を後にした。
「明日ですか!?」
処置をするための手術が明日の午前中に決まったと、章は主治医から告げられた。
「ちょっと待って下さい、いくら何でも急過ぎます!」
「ええ、そうだとは思いますが…奥様にも、ちゃんと説明しますので、先ずは高山さんに説明を聴いて頂きたいのです。」
そう言って、主治医は章に処置について説明を始めた。
成長を止めてしまった胎児を胎内に留め置くことは、母体にとって決して良いことではなく、なるべく早く処置したほうが良い事を、その主治医は懇々と、しかし厳しい現実として教えてくれた。
「…分かりました。でも、何故先に僕にだけ説明をしたんですか?」
「処置を行うとなると、どうしても感情的になってしまう方が多くいらっしゃいます…
奥様の受けているショックは大変大きなものです。
ですから、高山さんには、感情的にならず奥様を支えて頂きたいのです。」
「…だから、あえて僕にだけ説明したんですね。」
「はい、奥様の心の支えになれるのは、高山さん、あなただけですから。」
「ただいま、美月」
病室の扉を開けて、章は主治医を連れて戻ってきた。
「あ…章、先生も」
「美月…ちょっと話せる?」
章は、主治医と共に、美月にこれからの処置についての現実を伝えた。
「…そっか……私のため、なんだね…」
「うん…だから美月」
「大丈夫だよ!私…ちゃんと分かってるから…」
美月は必死に気丈に振る舞って見せてはいたが、その小さな肩は震えていた。
「…大丈夫じゃないよ、それくらい僕にも分かる」
「……」
「もっと僕に寄り掛かってくれ、僕が美月を支えてみせるから…」
「…そんな事言ったって…」
「…」
「もう…どうしようもないじゃないっ!」
「そうだね」
章はたまらず美月を強く抱き締めた。その温もりだけが、唯一の救いだった。
「なんでっ!なんで私達の赤ちゃんが、こんな目に遭わなきゃいけないのっ!」
「そうだね…理不尽だよね…神様なんていないって、そう思いたいよ…」
「なんでこんな…酷い目に遭わなきゃいけないの!私が悪かったの!?」
美月は章の胸を両手で激しく叩きながら、これまで心の奥底に押し殺していた怒り、絶望、途方もない悲しみの感情を、むき出しにして吐き出していた。
「誰も悪くない…美月のせいじゃない」
「じゃあ何で!?何でなのよっ!!!」
「それはきっと、誰にも分からない事なんだよ…でも、一人で抱え込ませたりしないから…!」
「‼️…う…うわぁぁぁんっ…!」
章は、崩れ落ちそうな美月の体を支え、そして
「二人で……二人でこの痛みを乗り越えよう」
自分にも言い聞かせるように、震える声を重ねながら抱きしめ続けた。
◇
朝になった。冷たい光が病室を照らす。
「美月!」
「…お母さん……!」
朝一番の飛行機で、美月の母が泣き腫らした顔のまま駆けつけてくれた。その腕に抱きしめられた瞬間、美月の糸がふっと切れたように、再び小さく涙をこぼした。
昨夜、美月と章は一晩中、言葉もなく、ただ美月のお腹の上に手を重ね合っていた。
あまりの喪失感に、二人は一睡もできなかった。
「…それでは、処置室へ向かいます。」
処置室へは、美月を乗せたまま、ベッドごと移動させる。
「…よろしくお願いします。」
「ご家族は、このまま病室でお待ち下さい。」
「章、お母さん、行ってくるね」
美月は作り笑いではなく、ほんの少しだけ柔らかく微笑んでそう言った。
…本当は、怖くてたまらないはずなのに。
愛しい人のそんな健気な姿に、胸が締め付けられるように痛む。
それでも、ここで弱音を吐くわけにはいかない。
「あぁ、何も心配ない。先生達に任せよう。終わったら、すぐ傍にいるからね」
章も、あたたかな笑顔を作ってそう言った。
◇
「では、麻酔をかけますね。」
「…はい」
マスクをつけられ、静かな処置室に消毒液の匂いが満ち、麻酔の吸入が開始される。
(…私の赤ちゃん…次に目が覚めたときには、もう、このお腹にいないのね……痛くて、苦しくて、離したくないよ……)
お腹をさすっていた手からゆっくりと力が抜け、美月は底の見えない深い闇の中へと落ちていった。
◇
「…」
「…」
章と美月の母は、病室で美月が戻ってくるのを待っている間、押し黙ったまま一言も話さなかった。
何を言葉にすればこの痛みが軽くなるのか分からなかった。ただ、一秒でも早く美月が無事に帰ってくることだけを祈っていた。
「お待たせしました。」
「!」
処置は1時間ほどで終わり、無言の眠りについた美月が無事に病室へと戻ってきた。
「美月…」
「まだ麻酔が効いてますので、目が覚めるまで30分程かかると思います。」
「お目覚めになったらナースコールを押して呼んで下さい。」
そう言って看護師2人は静かに病室を出ていった。
章は美月の傍の椅子に座り、まだ冷たい眠気の中にある美月の手を、両手でぎゅっと包み込んだ。
「よく、頑張ったね…本当によく頑張った」
心からの絞るような声を、眠っている美月にかけた。
その瞬間、章の視界が急にぐにゃりと歪んだ。
「あ…れ?」
ボタボタボタ…と、張り詰めていた糸が完全に断ち切られたように、章の目から大粒の涙が溢れ、冷たい床へと落ちた。
手術が無事に終わったという安堵と、この冷酷な現実の重みが、一気に押し寄せてきた。
章は、美月の母親の前であることも忘れ、声を殺しながら、子供のように大粒の涙を零し続けた。
『今だけだ…涙を流すのは、美月が眠っている今だけだ。
美月が目を覚ましたら、俺がこの両手で、絶対に彼女を支え続けるんだから……』
◇
「それじゃ、美月、章さん、私は帰るわね」
美月の母は、傷ついた二人をそっと包み込むように、1週間程マンションに泊まり込んで一緒に過ごしてくれた。
母は娘のために、愛情を込めた温かい手料理を毎日何品も作り続けた。
『…美味しい、お母さんの味だ…』
『でしょ!これ食べて元気出しなさい。まだまだ美月には負けないわよ♪』
ふさぎ込み、心に大きな穴が空いていた美月だったが、母親の作る温かな料理と底抜けの愛情に触れるうち、少しずつ、失いかけた笑顔と生きる気力を取り戻していったのだった。
「お母さん、本当にありがとう…」
「ありがとうございました、お義母さん。あなたのおかげで救われました」
「あなた達なら、もう大丈夫よ。二人でしっかり手を取り合って生きていくだけだからね。じゃあね」
そう言って美月の母は、温かな余韻を残して東京へと帰っていった。
母の言葉通り、この耐え難いほどの悲しみと辛さを共に乗り越えた二人の絆は、以前よりも遥かに深く、強いものとなっていた。
◇
それから、数年後の秋――。
「美月! 頑張って!」「うう〜〜〜〜っ!」
命の奇跡と、これまでの苦しみをすべて洗い流すかのように、産院の部屋に力強い新生児の産声が響き渡った。
ほぎゃあ、ほぎゃあ、ほぎゃあ!
「おめでとうございます! 元気な女の子ですよ!」
「よく頑張ったね、美月……本当によく頑張った……ありがとう……!」
「……やっと……やっと会えたね……私の赤ちゃん……」
二人は涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま手を深く握り締め、新しい命のあたたかな温もりに触れて、心からの歓喜の涙を流し合った。
………………
「美月、ちょっといいかな……」
少し落ち着いた頃、章は産院のベッドで、愛おしそうに赤ん坊を腕に抱く美月の元へ歩み寄った。
「あ、章」
「さっき新生児室を見てきたよ」
「ふふ、みんなちっちゃくて可愛いよね」
「そうだね。だけどやっぱり……うちの子が一番可愛いよ」
「クスクス、親バカね〜」
「みんなそうなるのさ。自分の子どもが一番可愛いってね」
「そうね……私も、本当にそう思うわ」
章は穏やかで優しい笑みを浮かべると、我が子の小さな鼓動を感じながら、静かに口を開いた。
「……あのね、美月」
「なあに? あらたまって」
「この子の、名前のことなんだけど……」
「……うん」
「僕は……やっぱり『明日香』がいいと思うんだ」
その名は、かつてあたたかな光に触れることなく、神様の元へ帰ってしまったあの子に贈るはずだった、忘れられない大切な名前だった。
「……」
「僕はね、初めてこの子を抱かせてもらったとき……自然と『おかえり』って、そう思ったんだ」
「……章」
「一度は神様のもとに帰ってしまったけれど、この子はきっと、僕達の凍った心に再び笑顔とあたたかさを取り戻して欲しくて、もう一度この手の中に還ってきてくれた……
きっとこの子は、僕らのところへ舞い戻って生まれてきてくれた…。
そう感じたんだよ。」
「……不思議だね」
「え?」
「私もね、まったく同じことを感じていたの。やっと会えた……今度こそ、一緒にいようねって」
「やっぱり……美月もそう思っていたんだね」
「うん……この子は、間違いなく私たちの『明日香』だよ」
澄み渡る秋の青空の下、二人は溢れるほどの深い愛を込めて、還ってきてくれた赤ちゃんに『明日香』と名付けた。
明日香は、周囲のたくさんの愛に包まれて、すくすくと健やかに育っていった。
◇
明日香が生まれて、1歳と半年が過ぎたある日のこと……。
「明日香ちゃ〜ん」
「はーい!」
「いいお返事ですね〜」
「えへへっ♪」
美月に褒められ、明日香は嬉しそうにキャッキャッとはしゃいでいた。
ふと、明日香は何か懐かしい記憶を引っ張り出すかのように、不思議そうな顔をして美月に言った。
「明日香ね、ママのお腹の中でね、病気になっちゃったの」
「え!?」
「でね、『明日香ちゃん、戻っておいで〜』って、誰かに優しく呼ばれたの」
「…っ」
「それでね、ちっちゃいお友達と一緒にずっと遊んでたの」
「…うん」
「そしたらね、『明日香ちゃ〜ん』ってまた呼ばれて、『はーい』ってお返事して、明日香はママのところから生まれたんだよ」
「…明日香……!」
美月はあふれ出る涙を抑えきれず、目の前にいる愛おしい我が娘を、強く、強く抱きしめた。
「ママ、どうして泣いてるの…?」
「うふふ、涙はね、悲しいときだけじゃなくて、とっても嬉しくてあたたかいときにも出るものなのよ」
「そっかぁ!」
「明日香、大好きよ、生まれてきてくれてありがとう」
「明日香も、ママが世界で一番大好きだよ!」
…………
「明日香が、そんな事を…」
「うん…不思議だよね、私たちが話したこともないのに…」
夜遅く、仕事から帰ってきた章は、すやすやと眠る愛娘のあたたかな寝顔を見つめながら、美月にその話を静かに聞いた。
この奇跡のような出来事は、後にも先にも、明日香はその一度きりしか語らなかったが……。
自分たちがあの暗闇の中で感じ、信じたものは決して間違いではなかった。
二人は互いの手をそっと重ね合わせ、あたたかな確信に満たされた。
美月の両親は「この子にはきっと、二人分の神様がついて、ずっと守ってくれているんだね」と、嬉し涙を流しながら喜んでくれた。
章と美月のあふれんばかりの深い愛情を一身に受け、明日香は優しく、誰の心をも照らすような、伸びやかで愛される少女へと成長していった。
◇
カランカラン……
爽やかな秋風とともに、喫茶店「樹」のカウベルが、心地よい軽やかな音色を奏でた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥から、シャロンが変わらない深みのある落ち着いた声でお客を迎える。
そのすぐ後ろから、鈴を転がすような、瑞々しく元気な声が重なった。
「いらっしゃいませ!」
「……ふふ、ちょっと元気が良すぎるけれど、まあ、若いって素晴らしいことですね」
「ホントですか? 良かった〜!」
「さあ、あちらのお客様にオーダーを聞いてきて頂戴ね」
「はーい!」
シャロンは、新しく入ったバイトの女の子に、我が子を見守るような愛おしい眼差しで接客のコツを教えていた。
「いらっしゃいませ! ご注文は、何になさいますか?」
「そうね……今の季節のオススメはあるかしら?」
「はい! 神無月の今の時期ですと、栗の風味が豊かな『樹』特製のモンブランが、とってもオススメですよ!」
店内には芳醇な珈琲の香りと、訪れる人の心を優しく解きほぐすような、どこか懐かしい温もりが満ち満ちている。
「シャロンさん、お客様からモンブランと紅茶のご注文をいただきました!」
「はい、明日香ちゃん。よくできました♪」
そのエプロン姿のバイト店員こそ、成長した明日香だった。
あの甘酸っぱくも切ない、涙の記憶から30数年の年月が流れていた。
かつて章と美月が窓際のテーブル席で夢や恋を語り合っていた頃と、今の明日香はちょうど同じ年齢になっていた。
いつかパティシエになりたいという夢を胸に抱いた明日香は、高校卒業後、東京の専門学校へ通うため上京した。
そして「どうせアルバイトをするなら、最高の場所で」と、章と美月がかつての恩人であるシャロンに相談し、「樹」で働かせてもらえるよう頼み込んだのだ。
『もちろん喜んでお引き受けしますよ。ただし……』
『ええ、立派なパティシエになれるよう、厳しくしっかりと修業させてやってください』
『シャロンさん、明日香をよろしくお願いします』
『章さん、美月さん、分かりました。任せてくださいね……私が責任を持って、明日香さんを一人前のパティシエに育て上げますから』
カランカラン
またしても、あたたかな祝福のようにカウベルが賑やかに鳴り響く。
「来たぞ〜、明日香!」「明日香ちゃん、今日も頑張ってるかい?」
「あ、おじいちゃん、おばあちゃん!」
美月の両親は、年を重ねてもなお、大好きな孫娘の働く姿を一目見たい一心で、変わらず「樹」へと足を運んでいた。
カランカラン
「こんにちは〜!」「シャロンさん、お久しぶり!」
「あら、翔子ちゃんにリサちゃん!」
かつて女子校生バイトとして「樹」を温かく盛り立てていた翔子とリサも、すっかり素敵な大人の女性になり、それぞれのパートナーと結ばれ、巣立っていった。
それでも秋の深まりとともに、こうして原点である温かな我が家へと帰ってくる。
「翔子さん、リサさん、お久しぶりです!」
「明日香ちゃん、会うたびにすっかり大人っぽくなって…」
「高山先輩が最初にこの店へ連れてきた頃は、こ〜んなにちっちゃかったのにねぇ」
思い出の詰まった窓際席を囲み、懐かしい笑い声とともに話の輪がふんわりと花開く。
「明日香ちゃんが東京に行っちゃって、高山先輩、寂しくてまた泣いてるんじゃない?」
「ふふ、父ですか? 私がいなくても、母さえ隣にいれば父はいつでも幸せそうですよ」
「そうか〜! 今でも変わらずラブラブなんだね(笑)」
「ええ。私がパティシエを目指したのも、幼い頃から両親に『樹』のモンブランにまつわる話を聞かされて育ったからなんです」
「あの二人、本当に昔からお互いを想い合っていて……素敵よね……」
カランカラン……
戸口からやわらかな秋の陽光が差し込む中、カウベルがまたひとつ、新しい幸せの合図を鳴らす。
「あ、いらっしゃいませ! 明日香ちゃん、お水をお願いね」
「はいっ!」
受け継がれた愛と、痛みを知るからこその優しさは止まることなく、こうして次の世代へとあたたかく紡がれていく。
◇
カランカラン……
カウベルが軽やかに響く。
ここは東京の下町、秋の風が優しく吹き抜ける小さな喫茶店「樹」。
今日も扉の向こうから、たくさんの笑顔と、かけがえのない物語が訪れる。
「いらっしゃいませ、お客様。
本日は何を召し上がりますか?」
〜 エピソード神無月 窓際のテーブル席の恋人達 TRUE END アフターストーリー 完 〜
あとがきにかえて
ここまで『窓際のテーブル席の恋人達』にお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
NORMAL END、BAD END、そしてTRUE ENDと、章と美月のふたりが歩むかもしれないいくつかの未来を描いてきました。
すれ違いに引き裂かれそうになり、暗闇の中で手を取り合って這い上がり、痛みを越えて結ばれたふたりの物語のひとつの到達点として、この「アフターストーリー」を紡ぎました。
人生という長い道のりには、時に理不尽なまでの嵐が吹き荒れます。
望んだものが手のすり抜け落ちていく絶望や、大切な何かを失う痛みに直面したとき、人は立ち止まり、すべてを諦めたくなることもあるかもしれません。
けれど、どれほど冷たい雨が降る夜であっても、お互いを想う手を離さず、痛みを分かち合って進むことができたなら――その先には、思いがけないあたたかな光が待っている。
この物語を通して描きたかったのは、そんな「人と人との絆が持つ強さ」と、世代を超えて受け継がれていく命の奇跡でした。
小さな喫茶店「樹」の窓際のテーブル席。
そこで交わされる他愛のない会話や、美味しい珈琲と甘いお菓子の香り、そしてカランカランと響くカウベルの音。
私たちが日常の中で見過ごしてしまいそうな何気ない一瞬一瞬こそが、かけがえのない宝物なのだと、登場人物たちが教えてくれた気がします。
物語の幕はここで閉じますが、章と美月、そして明日香ちゃんの歩む未来には、これからも変わらず穏やかで優しい秋風が吹き抜けていくことでしょう。
この物語が、読者の皆様の心に小さな温もりと、明日へ向かう静かな光を灯すことができたなら、これ以上の喜びはありません。
2026年 秋




