エピソード神無月 窓際のテーブル席の恋人達 TRUE END 「樹」特製モンブランのレシピ付き
カランカラン…
喫茶店「樹」のドアに取り付けられたカウベルが、軽やかな音を響かせた。
「いらっしゃいませ。あら、高山さん、美月さん」
カウンターの中から、この店の店主であるシャロンが柔らかな笑顔で二人を迎えた。
店内に入ってきた高山章は、「樹」の常連客だ。
高校生バイト店員の翔子と出身中学校が同じと分かって以来、翔子と同じく高校生バイト店員のリサは、彼を高山先輩と呼んでいる。
彼は高校卒業後すぐに就職し、地元の工場で愚直なまでに真面目に働いている。
自分より相手の都合を優先してしまう優しい性格で、これまでの人生で怒りに任せて人に手を挙げたことなど一度もない青年だった。
その隣に寄り添うのは、一つ年下の恋人・美月。
女子大に通う彼女とは、彼女が高二の時に知り合って以来、ずっと寄り添ってきた。
今では「美月」、「章」と呼び合う、誰もが羨む仲の良いカップルだった。
「シャロンさん、こんにちは」
二人は迷いなく、窓際にあるいつもの席へと向かった。
空いていれば、彼らは必ずこの席を選ぶ。
「美月はいつもこの席を選ぶよね?」
「うん♪ 外の景色がよく見えて…私のお気に入りなの♡」
何気ない、窓際のテーブル席に座る恋人達の会話。
ゆっくりと時間が流れてゆくような穏やかで温かい空気に、喫茶店「樹」は包まれていた。
シャロンはそんな二人を微笑ましく見守っていた。
「シャロンさん、今日のオススメは何ですか?」
高山がカウンター越しに、シャロンに声をかけた。
「今日はモンブランがオススメですよ」
「それじゃあ、僕はモンブランと、ブレンドコーヒーを。美月もモンブランで良い?」
「あ、うん、あとロイヤルミルクティーをお願いします」
「かしこまりました」
シャロンは丁寧にコーヒー豆を挽き、紅茶の湯を沸かしながら二人に話しかけた。
「それにしても、お久しぶりですね。高山さん、お仕事がお忙しいのですか?」
「ええ、配属されて2年目ですけど、まだまだ教わる事がいっぱいで…」
高山は大手電機会社に就職し技術部門に配属され、今は都内近郊の工場で働いていた。
『おい高山!お前ら技術部門が現場を知らなかったら、どうやって指示を出すんだ!』
『はいっ!』
『先ずは現場に入ってしっかり学べ!分かったか!』
『はいっ!…(こりゃ、今週末も無理そうだなぁ…)』
『高山ー!』
『は、はいっっっ!』
大学に進学することもできたが、父母を早くに亡くし、施設出身の彼は早く自分で稼げるようになりたかった。
それには勿論、美月の存在もあったからだった。
高山は、美月が女子大を卒業するまでに一人前になると心に決めていた。
いつの日か、胸を張って彼女を迎えに行けるようにと――。
「この前の土曜日も、急な仕事が入っちゃったからって…デートがキャンセルになっちゃったんですよ。お出かけ楽しみにしてたのに…」
少し不満そうに唇を尖らせる美月。
高校生の頃の二人は、毎日駅で待ち合わせて、行きも帰りも手を繋いで歩いていた。
そんな美月が寂しがっているのは痛いほど分かっていた。けれど――。
「ごめんよ…学生時代と違って、なかなか時間が取れないんだよ」
「冗談よ!分かってる…それに私だって…」
「あら?美月さんも?」
女子大に入学した美月は、友人が勧める他大学との交流サークルに入会していた。
「あ、いや、僕の仕事が忙しいのもあるんですけど…美月も大学のサークルとかがあって、なかなか時間が合わなくて…」
「でも、今日はお二人でデートだったんでしょ?」
「ええ、久しぶりに章と遊園地に行けて楽しかった!」
「それは良かったですね」
やがて、翔子がモンブランの皿を、リサがブレンドコーヒーとロイヤルミルクティーのカップをテーブルへと運んだ。
「じゃあ、ごゆっくりどうぞ」
そう言って二人の席から離れたものの、カウンターの端から仲睦まじい姿を見守っていた。
「…章、前に言ってくれた事を覚えてる?」
美月は高山の手に、そっと自分の手を重ねた。
「えっと…」
二人で行ったフリーマーケット…
樹で過ごした暖かな時間…
それとも、美月の部屋で未来を語り合ったあの時だろうか…
愛おしい思い出が溢れすぎていて、美月がどの場面を切り取ったのか高山には咄嗟に分からなかった。
「もう…
『小さな手…俺が守っていかなきゃな』って言ってくれたじゃない。
私、胸が熱くなるくらい嬉しかったんだよ?」
「あぁごめん、勿論覚えてるよ」
忘れるはずがなかった。
それは初めて二人が肌を重ね、心も身体も結ばれた夜、彼女の繊細な指を握りしめて心に刻んだ誓いだった。
「美月の日記帳にも書いてあったね…美月を守ると誓ったんだ、忘れる訳がないだろう?」
高山は美月の小さな手を両手で包み込むように、慈しみを込めて優しく握り直した。
翔子とリサが、静かに声を潜める。
「…あの二人、いつ見ても仲が良いよね」
「ホント、羨ましいなぁ…」
うっとりと溜息をつく翔子に対し、リサはどこか引っかかるような表情を浮かべた。
「…でもなぁ……」
「リサ?」
「いや、あの二人おとなし過ぎて…なんだかじれったくて」
「まあね。高山先輩、優しすぎるところがあるからなぁ…」
二人は顔を見合わせ、苦笑いを交わした。
「あ、そうだ!」
不意に美月が何かを思い出した。
「お母さんが『今日帰りに、高山さんにうちに寄ってもらいなさい』って!」
「えっ?お母さんが?」
「お夕飯用意するって、何だか張り切ってたよ(笑)」
「お母さんの手料理美味しいから嬉しいよ(でも量が半端ないんだよな〜)」
「ふふふっ♪」
美月は付き合い始めてすぐに高山を家族に紹介し、今では美月の家族と一緒に食卓を囲む事もしばしばだった。
「それじゃシャロンさん、また!」
「翔子ちゃん、リサちゃん、またね!」
「ありがとうございました〜」
「美月さん、またね〜」
「……本当、幸せそう。何だかこっちまで嬉しくなっちゃった♪」
リサも上機嫌でテーブルを片付けていた。
◇
秋の夕日は落ちるのが早い。
高山が美月を家に送り届けた頃には、すっかり夜になっていた。
「ただいま〜♪」
「こんばんわ」
「お帰りなさい美月、高山さん、いらっしゃい」
夕飯を用意していた美月の母が、二人を迎える。
「お邪魔します、お母さん」
と、そこへ――
「お帰り美月」
現れたのは美月の父だった。
「ただいま、お父さん♪」
「あ、お邪魔してます」
「うむ…いらっしゃい」
高山が来ると、美月の父はあまり機嫌がよろしくなくなる。
大切な娘に彼氏ができて複雑な心境なのだろう。
「高山くん、ちょっと…」
「は、はいっ(キタ〜)」
「この前、帰って来るのがかなり遅かったそうじゃないか」
「あ、はい、すみません、花火大会を見に行っていたもので」
まあ、この位の小言は日常茶飯事で、高山ももう慣れていた。
「結婚前の娘なんだから、そこら辺は気を付けてもらわんと!」
「はい、気を付けます!」
「まったく、ブツブツ…」
「あなた、そのへんにして下さいね」
「お父さん、ご飯が冷めちゃうよ?」
「ムムム…」
妻と愛娘に促され、食卓につく美月の父。
「いただきます」
「高山さん、沢山食べて頂戴ね♪」
「はい、いただきます!」
すると、美月が小声で高山に話しかけてきた。
「ごめんね、章」
「大丈夫、美月のお父さんだもの、心配なのは分かるよ」
「ふふふっ♪ありがとう」
いつもこんな調子で、高山と美月は親公認の仲だった。
「ごちそうさまでした、もう、お腹いっぱいです」
「お粗末様でした、沢山食べてくれて嬉しいわ♪」
料理自慢の美月の母が、そう言いながらお茶を入れてくれた。
「あら?雨かしら?」
気がつくと、パラパラと雨の降る音がしていた。
「うーん、酷くなる前に帰らないと…」
スマホの気象予報を見ると、これから雨は酷くなる予報だ。
「じゃあ私、章を駅まで送るよ」
「え?ダメだよ、美月が雨に濡れちゃうじゃない」
「だって…」
美月は、ちょっと寂しそうな顔をしながら、ちらりと父の顔を見た。
「…仕方ない、車を出すから…待ってなさい」
「お父さん、ありがとう!!」
「すみません、ありがとうございます」
「クスクス…まったく美月には弱いんだから」
美月の母は、台所で食器を洗いながら笑っていた。
美月の父が章を送ってくれる事になり、帰り支度を整える。
「じゃあ車を玄関前に出しておくから…美月も一緒に行くんだろ?」
「うん!もうちょっと一緒にいられるね!章!」
「そうだね(お父さんの視線が痛い(汗))」
車は駅までと思っていた高山と美月だったが、意外にも高山の住む社員寮まで、美月の父は送ってくれた。
その分、二人はたくさんの話をする事ができた。
それは嬉しそうに。
「ありがとうございました」
「うむ…それじゃ」
「じゃあね、章」
「おやすみ、美月」
美月が車の後部座席から手を振っていた。
車は発進し、高山は二人を見送った。
「…お父さん…ありがと…章と話す時間を作ってくれて…」
「…いや…か、風邪ひかれたら困るしな」
「クスクス…そうだね」
「…大事な娘を託すんだ…もっとしっかりする様にと言っとけ…」
「うん、分かった…伝えておくね…ありがとう、お父さん」
そうして、美月の父は美月を乗せ家へ戻っていった。
◇
高山と美月が喫茶店「樹」を訪れた、数日後のこと。
「あれ? 美月さん…?」
リサが近くのコンビニで買い物を済ませた帰り道、通りの向こうにある居酒屋へ入っていく男女のグループを見かけた。その中に美月の姿があった。
(大学のサークル仲間かな?)
胸のどこかに小さな胸騒ぎを覚えつつも、その時は深く気に留めなかったリサだった。
◇
「えー、それでは!多大学交流サークルの秋季イベントの打ち上げを、開始しまーす!カンパーイ!」
「カンパーイ!!」
居酒屋で始まったのは、美月が入ったサークルの打ち上げを名目にした宴会だった。
美月は、入会を勧めた友人の瑠衣に引きずられるようにして参加していた。
「瑠衣ちゃん、私、こういうの初めてだから、どうしたら…」
「大〜丈夫よ!ハイ皆、注目!!」
突然、大声を張り上げて瑠衣が立ち上がった。
「え?」
「何々?」
突然の行動に驚く一同。
「この子は美月!彼氏持ちだから、男共は、絶対手を出すんじゃないよ!分かった!?」
「ち、ちょっと瑠衣ちゃん!」
「こうしておけば、大丈夫よ♪じゃ、私は隆史の所に行ってくるね〜」
瑠衣は美月をその場に置き去りにして、さっさと自分の彼氏のもとへ行ってしまった。
「も〜…」
取り残されてしまった美月。しかし、悪目立ちした分だけ、好奇の目を向けた男子達が吸い寄せられるように集まってきた。
「へー、君、美月ちゃんって言うんだ」
「可愛いねー」
「そりゃ彼氏も出来るよね」
「あ、あの…(何だか…怖い、章、助けて)」
見知らぬ男性たちの視線に晒され、大人しい彼女の心は恐怖で小さく震えていた。
「ねーねー、僕らと一緒に飲もうよ!」
「わ、私、…お酒とかダメだから…」
「大丈夫、大丈夫」
「あの…やめて、下さい」
「止めろよ、お前ら。彼女嫌がってんじゃんか」
「え?」
低い声が割り込み、強引に距離を詰めようとした男子達の動きが止まった。
「瑠衣ちゃん、ちゃんと一緒にいてやんなよ。彼女連れてきたの瑠衣ちゃんだろ?」
「ご、ごめーん美月」
その男性の一言に押され、慌てて瑠衣が戻ってきた。
「大丈夫だね?それじゃ」
「あ…」
美月がお礼を言う間もなく、その男性は煙のように自分の席へと戻っていった。
「おー、怖…秋人先輩がケンカ強いの皆知ってるから、誰も言い返せないよ」
瑠衣が肩をすくめ、耳元で囁いた。
「秋人…先輩って言うの?あの人」
「そ!何か元暴走族だったって噂だよ」
「元暴走族?そんな風には…」
「だってあの茶髪であの格好だよ?皆一目置いてるけど、怖くてあんまり近寄らないのよ。美月も気を付けなよ?」
「うん…分かった…でも…」
美月には、自分を恐怖から救い出してくれたその背中が、決して冷酷な人には見えなかった。
それから2時間後――。
「それじゃあ、このへんでお開きにしま~す」
「二次会行く人〜」「はーい」
宴が終わり、美月は逃げるように店の外へ出た。
夜風が肌を刺す午後8時過ぎ。
「瑠衣ちゃんは、彼氏と二次会か…」
ぽつりと呟き、スマホの画面を見つめる。通知もLINEも、一通も届いていなかった。
「章…まだ、お仕事中だよね…」
分かっている。彼が自分の青春を削って汗を流しているのは、二人の未来のためだ。
「…でも、やっぱり」
楽しそうに手を繋ぐカップルとすれ違うたび、胸の奥に冷たい寂しさが冷害のように広がっていく。
「…あれ?」
「あ…秋人…先輩?」
「何だ、瑠衣ちゃんやっぱり君のこと置いて行ったのか!」
店から出てきた秋人は、あからさまに不機嫌な顔をしていた。
「あ、でも大丈夫です。も、もう帰りますから…」
噂を思い出し、身をすくめる美月。
「…ちょっと待った」
「は、はい?」
「俺の事、瑠衣ちゃんに何か吹き込まれた?」
「え?べ、別に何も…」
「あいつ〜!…悪いけど君、ちょっと付き合って!」
「え!?え〜っ!」
抗う間もなく、秋人は強引に美月の腕を引き、駅前の喫茶店へと連れ込んだ。
「…だから、俺は暴走族なんかじゃない!ただの車好きなんだ!」
「は、はあ…」
「…君にだけは、変な誤解をされたくなかったんだよ」
「?」
秋人は目を逸らさず、真剣な眼差しで美月を見ていた。
「でも…瑠衣ちゃんが、こんな派手な格好してるからって…」
「あぁこのスカジャン?俺は横須賀出身だからね!」
誇らしげにスカジャンの刺繍を見せつける秋人。
「横須賀っ子なら、ここ一番って時はスカジャンなんだよ!」
「ここ一番?今日の打ち上げが?」
「ああ!今日みたいに好きな娘と話ができるチャンスは……あ…」
「好きな娘?」
「あ…あーあ、…彼氏がいるって言ってたから、絶対に隠し通そうと思ったのに…」
「ふふっ」
テーブルに頭を打ち付けて悶絶する秋人を見て、美月の緊張がふっと解けた。
「えーい!玉砕覚悟だ!美月ちゃん!俺と付き合って下さい!」
「ごめんなさい。お気持ちはすごく嬉しいのですが、私には大切な彼がいるので、お応えできません」
美月はまっすぐ目を見つめ、はっきりと拒絶した。
「だよねー(泣)」
「でも、…今日は助けてくださって、本当にありがとうございました。先輩が噂通りの怖い人じゃないって分かった良かったです。サークルの仲間として、これからもよろしくお願いします」
「え…あ、分かった…じゃ、じゃあ俺は、美月ちゃんの兄貴分を目指すよ!」
「兄貴分?」
「そう!彼氏がダメなら、可愛い妹を守る兄貴!これなら文句ないだろ?」
「ふふっ、考えておきます♪」
その時、バッグの中でスマホが甲高い振動音を立てた。
「あ!章だ!」
「…彼氏?」
「はい、えっと紅茶の代金を…」
「いいよ、俺が無理矢理引きずり回したんだから」
「すみません、それじゃ!…もしもし章?…」
愛しい人の声を一刻も早く聴きたくて、弾むような足取りで店を飛び出していく美月。
秋人は去っていく背中を指をくわえて見送るしかなかった。
「…あんな顔で、男の名前呼ぶんだな…くそっ!」
抑え込もうとすればするほど、胸の奥で黒い敗北感がうねりを上げた。
「…あんな顔見せられたら…奪い取りたくなっちまうだろ…」
◇
美月は、女子大の最寄り駅に向かう電車の中にいた。
(今日は雨…冷たくて、なんだか気持ちまで沈んじゃうな。駅から学校まで歩いたら、お気に入りのスカートが泥で汚れちゃう…)
濡れた車窓の外を眺めながら、美月は重い溜息をついた。
「美月ちゃん!」
「先輩!?どうしたんですか?」
「どう?俺の愛車!学校まで送るよ!」
改札を抜けると、雨の中に横付けされた車の中から秋人が手を振っていた。
「…先輩、私、お付き合いはできないって…」
「分かってるって!妹が雨に濡れそうだから迎えに来ただけだ!」
「ふう…まだ『お兄ちゃん』なんて認めてないですよ?」
「まあまあ!堅いこと言わないで、瑠衣ちゃん達も乗せるからさ!」
冷え込む雨の中、温かい車に乗せてもらえる誘惑には勝てなかった。
「…じゃあ、瑠衣ちゃんが来たら一緒に乗ります」
「分かった、そうしよう」
しばらくして、雨を避けるように走ってきた瑠衣が階段を降りてきた。
「あれ〜美月!?どうしたの?」
「瑠衣ちゃん、秋人先輩が車で学校まで送ってくれるって言って…」
「ホント!?ラッキー!乗せて乗せて!」
「え?瑠衣ちゃん?」
秋人に近づくなと注意していた張本人が、あっけらかんと助手席に乗り込むのを、美月は呆然と見送った。
「美月〜!早く乗って!遅刻するよ!」
「あ!はい!」
助手席から聞こえる瑠衣の声を後押しに、美月は後部座席へと乗り込んだ。
それが、すべての狂い始めだった。
雨の日だけのつもりが、晴れの日も、放課後も、秋人の車が彼女の日常を塗り替えていくようになり――。
章からの「今日もお疲れ様」という真面目なLINEを読むたび、胸の奥がキリキリと痛んだ。
(私はただ、サークルの車に乗せてもらっているだけ……浮気なんかじゃない……)
そう自分に言い聞かせながらも、いつも仕事で会えない章の寂しさを埋めるように、自分を特別扱いし情熱的な熱量を注いでくれる秋人の存在に、心が甘やかに侵食されていく。
◇
「ただいま〜、買い物行ってきたよ~」
リサが喫茶店「樹」の扉を開けると、重苦しい空気が漂っていた。カウンターの奥で翔子とシャロンが険しい顔で囁き合っている。
「美月さんが…」
不穏なワードを聞きつけ、リサは眉をひそめた。
「美月さんなら、この間、大学生っぽい人達と居酒屋に入っていくところを見かけたよ?」
「そうなんだ…」
いつになく翔子の口調が重い。
「なに? どうしたの二人とも?」
「実は…この間、駅で知らない男の人と親しそうに車に乗る美月さんを見かけちゃって…」
「相手は高山先輩じゃなかったの?」
「うん……いかにも遊び慣れてそうな大学生って感じで…」
「ねえ、それって…もしかして」
二人の会話を黙って聞いていたシャロンが、深く息を吐き出した。
「シャロンさん、いつもなら『人を疑うのはやめなさい』って叱るのに…」
「う…実は私も、見てしまったのよ」
シャロンも以前、駅前の喫茶店で高山ではない見知らぬ青年と、距離を詰めて話している美月の姿を目撃していたのだった。
「これは…高山さんには、黙っていた方が良い、わよね…?」
客の私生活に口を挟むべきではない。
けれど、愚直なまでに「樹」を愛し、真面目に働き続ける高山の苦労を知る彼女たちにとって、それは胸を刺されるような事実だった。
悩み抜いた末、シャロンは店を訪れた高山へ、隠しきれなくなった懸念を静かに打ち明けた。
「ああ、そのことなら彼女から聞いてます」
「え? そうなんですか?」
高山は痛みを噛み殺すように、柔らかな笑みを浮かべて頷いた。
美月は大学での出来事を、罪悪感を消すかのように彼へ報告していたのだ。サークルの先輩に告白されたことも含めて。
「『彼氏がいるからハッキリ断ったの。だから安心して? 今はただのサークル仲間だから』って言ってくれました」
「…そうですか」
「で、でも高山先輩…!」
納得のいかないリサを、翔子が悲しげに制した。
「…先輩は、美月さんを信じる…そう決めたんですね」
「…彼女の言葉に嘘はない。僕は、美月を信じるよ」
真っ直ぐで不器用な瞳でそう断言する高山に、誰もそれ以上、言葉を投げかけることはできなかった。
確かにあの日、美月の言葉に嘘はなかった。
しかし――人の心は、静かに、そして確実に移ろっていく。
「秋人先輩、家まで送ってくれて、ありがとうございます」
「ああ、美月ちゃんまた明日!」
明日は、どの服を着ていこうかな♪
…あれ?
明日は章と会える日じゃないのに…
なんで私、こんなに胸が跳ねてるの…?
自分の部屋で服を選びながら、美月は不意に全身の血が引くような寒気に襲われた。
自分でも気づかないうちに、彼女の心は高山の元を離れかけていたのだった。
◇
「わ〜、綺麗…」
大学の帰り道、秋人は美月を横浜の夜景が一望できる港の公園へ連れ出した。イルミネーションの光が海面に揺れている。
「あ…章」
バッグの中でスマホが震えた。画面に表示された「章」の文字に、心臓が跳ね上がる。
『今日は仕事が早く終わったんだ!これから少しでも会える?』
「ごめん、今日は…横浜までサークルの先輩と来てるの…」
『えっ?そう…』
「あ、だけどね、女性の先輩だから…心配しないで…」
ズキン、と胸の奥が引きちぎられるような痛みに襲われた。
『うん、分かった。僕は美月を信じるよ』
ズキン…ズキン…
息が詰まる…私、章に息を吐くように嘘をついてる…
「…美月ちゃん、なんで彼氏に嘘をついたの?」
隣に座る秋人の声は、夜の静寂に低く響いた。
「…章に、余計な心配をかけたくないから…」
…これも嘘。傷つけたくないんじゃない。
嘘をついてまで、私…この人とここにいたかったんだ…
「先輩、私…やっぱり章を裏切れません…もう会うのは…」
「裏切り?こうやって綺麗な景色を一緒に見てるだけなのに?」
「…」
「俺といると楽しくないのか?」
「楽しくないわけないじゃないですか!…でも…だから苦しいんです!」
「彼を裏切ってるみたいだから?」
「…そうです!自分が恐ろしいんです…っ!」
美月は口元を押さえ、震える声で叫んだ。
秋人はハンドルを握る手に爪が食い込むほど力を込めた。
胸の奥で、ドロドロとした嫉妬と凄絶な焦燥感が渦巻いていた。
彼氏がいると知りながら掠め取ろうとしたのは自分だ。
妹分という免罪符を盾に、彼女の日常を侵食したのも自分だ。
だが、目の前で別の男のために涙を流す彼女を見るたび、狂いそうなほどの痛みが秋人を苛んでいた。
「美月ちゃん…君が本気で俺を拒絶するなら、俺は今すぐ消えてやる。でも…」
秋人は美月の細い肩を強く掴み、逃げ場を塞ぐように瞳を覗き込んだ。
そこには、一人の男としての剥き出しの感情が宿っていた。
「そんな顔で泣いて、俺の胸をかき乱すなら…美月。俺は、章って奴から、お前を力ずくでも奪い取る」
「…あ……秋人先輩…」
あまりの熱量に射抜かれ、美月は拒絶の言葉を喉の奥で詰まらせた。
◇
その月は、美月の誕生月だった。
『もしもし美月?』
「あ、章」
『中々スマホに出ないから、心配したよ』
「ごめんね、ちょっと片付けをしてて…」
『そう…何かあったの?元気ないみたいだけど。』
「何もないよ!ちょっと、疲れちゃっただけ…」
『片付けが、大変なの?』
「うん…色々整理しないと、ダメだから…私。」
『そうだっけ?ちょっと意外だな』
「私にだって、まだ章の知らないところはあるよ?」
『そうか…そうだよね』
「章…お仕事は、忙しい?」
『そうだね、早く一人前になりたいよ』
「うん…」
『でも、美月の誕生日は、ちゃんと時間取ってあるから』
「うん、ありがとう…章」
『…もうすぐだね、美月の誕生日』
「うん…」
『待ち合わせは、あの駅にしないか?』
そこは、高校時代、毎日二人で夕焼けを見ていた思い出の場所――。
『美月?』
「うん…いいよ…あの場所で」
『そう…それじゃあ、おやすみ。美月、愛してるよ』
「…うん…私も…」
美月は通話を切った。
「…章………っ!」
美月の心は、罪悪感で押し潰されそうだった。
高山は、美月との通話を終えた後、日記帳を手に取った。
「…大丈夫…大丈夫だ……逢えば…逢えさえすれば…」
それは美月が「私のすべてを知ってほしい」と気恥ずかしそうに高山へ託した一冊の日記帳だった。
「僕が、美月を信じると決めたんだから…」
◇
美月の誕生日当日。
高山は約束の時間の1時間前から、冷たい風が吹き抜ける駅の前で彼女を待っていた。
しかし、針がどれだけ進んでも、美月が姿を見せることはなかった。
夜が深く沈み込んだ頃、絶望に耐えかねた高山は、震える指で美月の番号を呼び出した。
「…なんで今日、来てくれなかったの…?」
『…ごめんなさい…ごめんなさい…っ』
スマホの向こうから聞こえるのは、呼吸もままならないほどの美月の哭泣だった。
その日、大学の出口で待っていた秋人に腕を掴まれ、美月は立ち尽くしていたのだ。
『美月、頼むから行かないでくれ!あの男のところへ行くなんて耐えられない!行かせない!』
『…秋人先輩…お願い…離して…章が待ってるの…っ!』
振り払おうとする美月の手には、恐ろしいほど力が入っていなかった。
口では拒みながら、心の奥底では「この強引な熱量で私を連れ去ってほしい」と望んでしまっている己の醜悪さに、美月は身が引き裂かれるような自己嫌悪を抱いていた。
『嫌だ!絶対に渡さない!』
体に回された秋人の腕の強い力強さと温もりに包まれた瞬間、高山と重ねてきた温厚で穏やかな時間が、色褪せた過去のように遠のいていった。
彼女はその腕を、最後まで振り払うことができなかった。
「僕は美月を信じて、ずっと待っていたのに…」
『なんで…!なんで待つだけなの!? …あなたがもっと強引に私を奪ってくれたら…っ!』
ずっと優しかった章。
忙しさにすれ違っても、怒ることすら知らず「信じる」と微笑むだけだった章。
その聖人のような優しさに守られていたはずなのに、今の美月にとってその優しさは、自分の心の弱さを突き付けられる様でしかなかった。
「美月…?」
『…ごめんなさい…私、自分が恐ろしいの…こんな風になっちゃうなんて…っ』
美月は暗闇の中で確信してしまった。
秋人が撒き散らす不器用で暴力的なほどの愛熱に、屈してしまったのだと。
「…美月、はっきり聞かせてくれ」
『…私……私は、あの人が好きです……ごめんなさい……ごめんなさいっ……!』
「!…分かった。もういい」
プツリと、無機質な切断音が響いた。
高山は静かにスマホを置いた。
スマホ越しに伝わってきた彼女の絶望的な泣き声が、脳裏から離れない。
これ以上、自分が彼女を追い詰める存在になりたくなかった。
何が悪かったのか。
引き裂いた男か、
心を移した美月か、
それとも守り切れなかった自分自身か。
明かりの消えた部屋で、高山は膝を抱え、闇の中で血を吐くような自問自答を繰り返した。
◇
秋人と美月は、深夜の海岸沿いに車を止めていた。
「…美月」
「………やめて、秋人先輩」
高山と別れ、美月は秋人の恋人となった。
しかし――。
「…俺達、付き合ったんだろ? なんで触れることすら拒むんだよ…」
「…ごめんなさい…お願いだから…」
秋人が手を伸ばすたび、美月の脳裏には高山の泣き出しそうな笑顔がフラッシュバックした。
激しい罪悪感が胃を焼き苛む。
「もう少しだけ…私の中から章が消えるまで…『嫌いになった』と言えるまで…待って…」
自分勝手な願いだと知りながら、美月は震えて泣いていた。
◇
翌日。高山は静まり返った美月の実家の前に立っていた。
「美月なら、まだ大学から戻ってないけれど…」
「そうですか…」
「高山さん、美月と何かあったの? 昨日帰ってきてあの子、部屋に閉じこもったまま何も話してくれなくて…」
何を聞いても答えてくれない娘を案じていた母親が、縋るような目で瀧本を見つめる。
「美月、何も言ってないんですか?」
「ええ…。」
美月はお母さんに、僕と別れたことも、別の男を好きになった事も言っていない…
ましてや、あいつは美月の両親に会ってもいない!
まだ…まだ間に合う。
まだ、諦めるには早すぎる!
「これから、美月に会ってきます!」
「え?」
高山は持ってきていた、美月の日記帳をぎゅっと握り締める。
そこには二人が歩んだ青春のすべてが、純粋な言葉で刻まれていた。
初めて手を繋いだ日、挫けそうになった時に抱きしめ合った日、そして、愛を確かめ合ったあの夜のことも。
『「小さな手…俺が守っていかなきゃな」と章は私に言ってくれた。その言葉があれば、私達はどんなことだって乗り越えられる。』
美月が書いたその一文を、高山は何度も読んでいた。
「すみません…失礼します!」
「高山さん?」
「お母さん、夕飯作って待ってて下さい。
美月を、連れて帰ってきます!」
高山はそのまま、美月の通学路である駅の改札へと向かった。
最後の決着をつけるために。
「…会えるかどうかは、賭けだな…」
必ずしもこの駅を使うとは限らない。
けれど、こうでもしなければ、もう彼女の瞳を見つめることすら叶わないのだ。
冷え込む夜の駅前で、何時間立っただろうか。
「あ…」
聞き慣れた足音に顔を上げると、改札の向こうから、秋人に寄り添うように歩いてくる美月の姿があった。
「あの…少し、いいですか?」
高山の姿を認め、先に制するように声をかけてきたのは秋人だった。
「ここでいいか?」
高山は二人を、駅の裏手にある誰もいない街灯下の駐車場へと誘導した。
凍てつく空気が三人を包み込む。
「…お前…どういうつもりだ」
高山は感情を押し殺した、冷徹な声で秋人を射抜いた。
「俺は…俺は美月を本気で愛しています!」
「…」
「あなたという彼氏がいると知った上で…どうしても諦められなかった! 卑怯だと言われても、俺には美月が必要なんです!」
「お前…!」
高山の手が跳ね上がり、秋人のスカジャンの胸元を激しく掴み上げた。
「…俺が! 俺が彼女を絶対に幸せにしますから!」
「ふざけるな…」
「…俺の言いたいことは、それだけです」
秋人がそう言い終わると、
高山は、ふーっと息を吐いた。
高山が冷静さを取り戻す。
「…お前に美月は渡さない」
「えっ!?」
ここまでくれば、高山は諦めるだろうと思っていた秋人は、高山の意外な態度に動揺していた。
「お前、美月の両親に会ってないだろ」
「!」
「お母さんは何も知らなかった…
僕と別れたことも、別の男の事も…
なんでお前は、堂々と美月を奪い取った男だと…美月の恋人は俺なんだと、美月の両親に会って言わないんだ!」
「親なんて…関係ねぇだろ!」
「お前は美月の両親と会うのを怖がってる、そんな奴が、美月を幸せに出来るはずがないんだ!」
「ぐっ…うるさい!お前とはもう終わったんだよ!」
「終わってない!」
「なに…」
「美月はお父さんとお母さんに、僕と別れたと言っていなかった。
お前と一緒にいる事は、正しい事ではないと分かっているからだろ!」
「くっ!」
高山は美月に向き直る。
「美月!一緒に帰ろう…まだ間に合う。お父さんとお母さんと、一緒にご飯を食べよう。いつもみたいに。」
「…章」
「目を覚ましてくれ美月!その小さな手は、俺が守ると誓ったじゃないか!」
「!!」
「い、いい加減にしろ!!」
バキッ!
「あぐっ!」
秋人が感情を爆発させ、怒りに任せて高山を殴りつけた。
その拍子に、高山が抱えていた物が美月の足元へと落ちた――。
「こ、これ…!」
それは美月の日記帳…
美月が拾い上げると、パラリと日記帳が開いた。
それは、高山が幾度も開いて読んでいたページ…
『「小さな手…俺が守っていかなきゃな」と章は私に言ってくれた。その言葉があれば、私達はどんなことだって乗り越えられる。』
「!!」
その一文が美月の目に…心に飛び込んできた。
「美月は俺のものだ!お前はもう引っ込んでろ!」
「がはっ……!」
ドカドカと、秋人は倒れた高山へ何発もの拳を叩きつける。
焦りとイライラで正気を失いかけた秋人が、吐き捨てるように叫んだ。
「なんで殴られても立ってこようとすんだよ!
手を出さねえのが優しさだと思ってんのか!?
そんな腑抜けた優しさで美月を守れるわけねえだろ!」
「はあ……はあ……」
口の端から血を流しながらも、高山は地面に膝をつき、必死に秋人を睨み返した。
「…気が……済んだか?」
「何だと!?」
「美月は……物じゃない……!」
「!」
「お前は、自分の事ばかりだ……美月がどれだけ苦しんでいるか、全然気付いてない……!」
「なんだと!」
「そんな奴に……美月を、渡すもんか!!」
「こ、この野郎―っ!」
秋人が怒り狂い、倒れている高山を蹴り上げようとしたその時――
「やめてぇぇぇーっ!!!」
二人の間に美月が飛び込んできた。
倒れている高山を抱きかかえ、己の身を挺して秋人から守っている。
その肩は激しく震えていた。
「秋人先輩…ごめんなさい…私、間違ってた」
「美月…!?」
「章の言うとおりだ…私が章の事…忘れられる訳ない…章を嫌いになんて…なれないよ」
美月の手には、泥のついた日記帳が固く握りしめられていた。
「な、なに言ってんだ!こんな弱い奴に美月を守れる訳ないじゃないか!」
「うん…だから…章は…章は…私が守るの!」
「!」
「ごめん章…ごめんね……っ」
「美月…お母さんに、言えなくて…辛かったろ?帰ったら、一緒に話そうね…」
「章…………っ!」
「くっそ、おい美月!」
乱暴に美月の肩を掴もうとする秋人。
「離してください、秋人先輩」
美月はボロボロと涙を流しながらも、ブレることのない明確な拒絶の瞳で秋人を見つめ返した。
「な…んだよ…俺を好きになったんじゃないのかよ!」
「こんな乱暴を振るう先輩は嫌いです。」
そこにはもう、今までの迷いも、流されていた弱さも消え去っていた。
「秋人先輩、もう私に関わらないでください。私は章と家に帰ります。」
「な……んだよ、それ……」
秋人は力の抜けたように、ヨロヨロと後ずさった。
「…は、…………はははは……
結局、指一本触れさせてもらえなかったよ……
悔しいけど、美月の中から、あんたを追い出せなかった…俺の負けだ……」
自嘲気味に呟くと、秋人は一人駐車場に停めてあった自分の車に乗り込み、エンジン音を響かせて去っていった。
「大丈夫?痛い?…だいぶ殴られちゃったね」
「痛いけど…大丈夫」
「…ごめんね」
「いいんだよ…それに、美月を守ると言ったのに、最後は美月に助けてもらっちゃったし」
「うううん」と、首を振る美月。
「私達、二人で乗り越えて行くんでしょ?」
そう、日記帳にも書いてあった。
『私達はどんなことだって乗り越えられる。』と…。
「さあ、帰ろう。
お母さんが夕飯作って待ってる…」
「うん…」
足を引きずりながら、美月に支えてもらいながら、高山は美月と一緒に美月の両親の待つ家に帰っていった。
◇
「高山さん!」
「どうした高山くん!?」
怪我をして帰ってきた高山を見て、驚いた美月の両親が、慌てて高山を家に担ぎ入れた。
一通り傷の手当てを終え、美月の父は一瞬絶句して高山の腫れ上がった顔を見つめた。
それから深いため息をつき、ぽつりと溢した。
「……ったく、カッコ悪い顔で戻ってきやがって」
そう小言を言いながらも、その瞳にはどこか安堵の色が混ざっていた。
二人は両親の前に居住まいを正して正座する。
「ごめんなさい…私の心に油断があったの…他の人に気持ちが揺れてしまって…」
「美月!あなたね!」
「待って下さい!僕のせいでもあるんです。信じると言って待ちすぎてしまった…」
「高山くん!しっかりしろといつも言っているだろう!」
「すみません!」「ごめんなさい!」
二人揃って頭を下げる様子を見て、顔を見合わせる美月の両親。
「まったく…」「あなた達は…」
「?」
「こんなに息の合う人に出会えるなんて、そうそう無いことなのよ?」
「お母さん…」
「そうだ!もっと相手を大事にしなさい」
「はい!」
「さあ、それじゃ、お夕飯にしましょう!」
そう言って、美月の母が用意していた夕飯をテーブルに並べた。
もう迷わない
私は、この人と共に生きて行こう
美月は、自分の両親と楽しげに食卓を囲む章を見つめ、そう固く心に誓うのであった。
◇
カランカラン
喫茶店「樹」のカウベルが軽やかに響く。
「いらっしゃいませ、あ!高山さん、美月さん!」
「シャロンさん、こんにちは」
高山と美月が二人仲良く「樹」に入ってくる。
「どうぞ、いつもの席、空いてますよ!」
リサが二人を窓際のテーブル席に案内する。
「ありがとう、リサちゃん」
「いらっしゃいませ、高山先輩!」
翔子がお冷やとメニューを持ってきた。
「ありがとう、翔子ちゃん」
「んふふふ〜♪」
「え?どうしたの?三人とも?」
シャロンもリサも翔子も、高山と美月が座っているテーブル席に集まってきた。
「せ〜のぉ!」
「高山先輩!、美月さん!ご婚約おめでとうございます!!!」
パンパンパンとクラッカーが鳴らされ、二人の婚約を祝う特別なケーキがプレゼントされた。
「シャロンさん…ありがとうございます」
高山がシャロンに礼を言う。
「それにしても、よくお父様が許してくれましたね?」
「もう変な虫が寄ってこないように、婚約しておけって、お父さんが…ね?」
「うん」
ちょっと気恥ずかしそうにしている二人。
「美月さん、それ婚約指輪ですか?」
「うん!そうよ」
「わー綺麗…」「いいなぁ美月さん、羨ましい」
リサと翔子が目をキラキラさせながら美月の指に着けられた指輪を見ていた。
◇
「美月〜!」
友人の瑠衣が女子大のキャンパスで美月を呼び止めた。
「美月、サークル止めるってホント?」
「瑠衣ちゃん…うん、私には必要ないから」
「え〜、じゃあ暇じゃない?バイトでもするの?」
「うううん、帰ってお母さんに料理を教わってるよ」
「料理?なんで?」
「料理自慢なの、うちの母」
「へ?何それ?」
「ふふふっ、じゃあね瑠衣ちゃん!」
美月はそう言って家に帰って行きました。
「お母さんに負けないくらい、料理上手になって、章に美味しいって言ってもらうんだ!」
◇
それから5年後。
高山は転勤が決まり、それを期に二人は結婚した。
シャロンは二人に頼まれ、ウェディングケーキを作った。
「章さん、美月さん、おめでとうございます」
「シャロンさん…こんなに素敵なウェディングケーキを、ありがとうございました」
白で彩られた三段の美しいケーキ。
そのカスタードとクリームの間には、あの日二人で「樹」の窓際で味わった、あのモンブランのほのかな栗の風味が優しく隠されていた。
思い出の味が解け合う特別なケーキに、式の招待客全員が大絶賛だった。
「美月さんのウェディングドレス姿、とっても綺麗!」
「本当に素敵です、美月さん!」
「翔子ちゃんも、リサちゃんも、来てくれてありがとね!」
「でも、お二人が遠くに行っちゃうなんて…寂しすぎます…」
「実家がこっちにあるから、帰って来たときには、必ず「樹」に寄りますね!」
「ええ、お待ちしています!」
◇
「それじゃあ、お義父さん、お義母さん…」
改札を抜け、新幹線のホームへと上がると、秋の澄んだ冷たい風が吹き抜けた。
章と美月は振り返り、見送りに来てくれた美月の両親、そしてシャロン、翔子、リサに向き直って深く頭を下げた。
「章くん、美月を…頼んだぞ!」
そう声を張るお父さんの目は、少し赤く潤んでいるように見えた。
長年大切に育ててきた娘を送り出す寂しさと、命がけで娘を守り抜いた男への確かな信頼が、その言葉には込められていた。
「美月を幸せにしてあげてね!」
「はい! 必ず!」
章はまっすぐに前を見つめ、力強く答えた。その声にはもう、かつての気弱さや迷いは一切なかった。
「お父さん、お母さん…私、絶対、幸せになってみせるから…」
美月の瞳から溢れ出た一粒の涙が、秋の陽光に煌めいて頬を伝う。
すかさず章が、その優しく小さな手をそっと包み込むように握りしめた。
かつて窓際のテーブル席で、そしてあの夜に誓った約束を、もう二度と解かないように。
プルルルル……
ホームに虚しくも美しい発車ベルが響き渡る。
滑り込んできた白い車体のドアが閉まり、二人は車内から窓越しに手を振った。
「高山先輩! 美月さん! お幸せにー!」
「ずっと応援してますからねー!」
翔子とリサが必死に手を振り、シャロンは静かに胸の前で手を合わせ、温かな微笑みを二人に贈っている。
列車がゆっくりと動き出すと、ホームの風景が静かに後ろへと流れていった。
「……行っちゃったね」
ぽつりと呟いたリサの肩を、翔子がそっと抱き寄せる。
「寂しくなるなぁ…」
「そうね…でも、あの日窓際の席で寄り添っていた二人は、もうどんな嵐が来ても大丈夫。
あの二人なら、必ず幸せになれるわ…」
シャロンの言葉に、二人は涙を拭いながら強く頷いた。
遠ざかる窓の向こうで、美月は涙を拭い、照れくさそうに笑う章の横顔を見つめていた。
手に伝わるのは、世界で一番優しくて、世界で一番強い温もり。
「美月、行こうか。僕たちの新しい家へ」
「うん…! 一緒に行こう、章」
流れる車窓の景色の中
二人が重ねた指先で輝く指輪が、未来を照らすように優しく光を反射していた。
『美月、
僕は守ってきた君のその小さな手を、
これからもずっと、絶対に離さない。』
『章、
私が守ってもらったこの温かい手を、
これからもずっと、絶対に離さないから。』
◇
その後、二人の人生にも、沢山の出来事が待ち構えていた。
嬉しい事も…
悲しい事も…
けれどその度に、二人は手を取り合い、お互いを支え合い、あの日記帳に書いてあったとおり、二人で乗り越えていったのでした。
〜 エピソード神無月 窓際のテーブル席の恋人達 TRUE END完 〜
〜〜「樹」特製モンブランのレシピ〜〜
シャロンが心を込めて淹れる珈琲や紅茶に調和する、栗本来の豊かな香りとほのかなラム酒が香る大人のクラシック・モンブランです。
【材料】(4個分)
・メレンゲ(土台)
卵白:1個分
グラニュー糖:30g
パウダーシュガー(粉糖):20g
・マロンクリーム(外側)
サバトン マロンペースト:150g
無塩バター(常温):20g
生クリーム(35%):30ml
ラム酒:小さじ1
・ホイップクリーム&栗(中身)
生クリーム(45%):120ml
砂糖:8g
栗の渋皮煮、またはマロングラッセ:4個(中に包む用)+4個(トッピング用)
・仕上げ
溶けない粉糖:適量
【作り方】
* メレンゲを焼く(土台)
・ボウルに卵白を入れ、グラニュー糖を数回に分けて加えながらしっかりと角が立つまで泡立てます。最後にパウダーシュガーを加えて軽く混ぜ合わせます。
・丸口金をつけた絞り袋に入れ、天板に直径約4cmの円状に4個絞り出します。
・100℃に予熱したオーブンで約60〜90分、サクサクになるまで乾燥焼きし、冷ましておきます。
* マロンクリームを作る
・柔らかくしたマロンペーストと無塩バターをボウルに入れ、ゴムベラで滑らかになるまでよく練り混ぜます。
・生クリーム(35%)とラム酒を少しずつ加え、ダマにならないよう全体を均一に伸ばします。モンブラン用口金をセットした絞り袋に入れます。
* 中身の組み立て
・生クリーム(45%)に砂糖を加え、8分立て(少し固め)に泡立てます。
・冷ましたメレンゲの上にホイップクリームを少し絞り、中央に栗の渋皮煮を1個載せます。
・その上から栗を覆い隠すように、山型(ドーム状)にホイップクリームを絞り、パレットナイフ等で形を整えます。
* 仕上げ
・ドーム状のクリームの周りに、下から上へ渦を描くようにマロンクリームを隙間なく丁寧に絞り掛けます。
・てっぺんに栗の渋皮煮、またはマロングラッセを1個載せ、上から雪に見立てた粉糖を優しく振りかけて完成です。
シャロンからのひとこと
「マロンペーストに合わせるラム酒を少しだけ効かせるのが『樹』のこだわりです。
甘すぎないホイップクリームと、サクサクのメレンゲの食感のコントラストをお楽しみくださいね。
ブレンドコーヒーはもちろん、ロイヤルミルクティーとも相性抜群ですよ。」
あとがき
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
今回の『エピソード神無月 窓際のテーブル席の恋人達 TRUE END』は、試練や心の揺らぎを乗り越え、二人が自らの意志で手を取り合い未来を選び取る「あるべき本当の結末」を描いた物語です。
BAD ENDでは若さゆえの過ちや過剰な執着が連鎖的な破滅を引き起こしてしまいましたが、このTRUE ENDでは、愚直なまでに泥臭く立ち向かった高山の真直ぐな想いと、過ちに気づき自ら足を踏みとどまった美月の強い意志が結実しました。
単に「何事もなく幸せでした」という物語ではなく、一度は心が揺れ、すれ違い、傷つきながらも、二人が逃げずに正面から向き合ったからこそ辿り着けた絆を描いています。
高山が泥だらけになりながらも手放さなかった日記帳と、そこに刻まれていた「どんなことだって乗り越えられる」という言葉は、二人にとってまさに暗闇を照らす光となってくれました。
また、暴走族風の青年・秋人にとっても、強引に奪い取るのではなく「負け」を認めて身を引いたことで、彼自身の尊厳が守られた結末になったのではないかと感じています。
喫茶店「樹」の窓際のテーブル席で二人を見守り続けたシャロン、翔子、リサたち、そして温かく二人を迎えた美月のご両親――周りの人々にも見守られながら、二人が歩み出す新たな旅路を温かく見届けられたなら幸いです。
巻末の「樹」特製モンブランのレシピとともに、この物語が皆様の心に温かな余韻を残せることを願っております。




