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シャロンの喫茶店  作者: Toru


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エピソード神無月 窓際のテーブル席の恋人達 BAD END

カランカラン…

喫茶店「樹」のドアに取り付けられたカウベルが、乾いた音を響かせた。


挿絵(By みてみん)

「いらっしゃいませ。あら、高山さん、美月さん」


カウンターの中から、シャロンが柔らかな笑顔で二人を迎えた。

店内に入ってきた高山章と、その隣に寄り添う恋人の美月。

二人は迷いなく、窓際にあるいつもの席へと向かった。


「美月はいつもこの席を選ぶよね?」

「うん♪ 外の景色がよく見えて…私のお気に入りなの♡」

挿絵(By みてみん)


何気ない、窓際のテーブル席に座る恋人達の会話。

ゆっくりと時間が流れてゆくような穏やかで温かい空気に、喫茶店「樹」は包まれていた。


「シャロンさん、今日のオススメは何ですか?」

「今日はモンブランがオススメですよ」

「それじゃあ、僕はモンブランとブレンドコーヒーを。美月もモンブランで良い?」

「あ、うん、あとロイヤルミルクティーをお願いします」


丁寧に淹れられた珈琲と紅茶、そしてモンブランが運ばれ、二人は幸せそうに微笑み合っていた。


「…章、前に言ってくれた事を覚えてる?」


美月は高山の手に、そっと自分の手を重ねた。


「もう…

『小さな手…俺が守っていかなきゃな』って言ってくれたじゃない。

私、胸が熱くなるくらい嬉しかったんだよ?」

「あぁごめん、勿論覚えてるよ。」


忘れるはずがなかった。


それは初めて二人が肌を重ね、心も身体も結ばれた夜、彼女の繊細な指を握りしめて心に刻んだ誓いだった。


「美月を守ると誓ったんだ、忘れる訳がないだろう?」

挿絵(By みてみん)

高山は美月の小さな手を両手で包み込むように、慈しみを込めて優しく握り直した。


カウンターの端で見守る翔子とリサが、羨ましそうに息を吐く。


「…あの二人、いつ見ても仲が良いよね」

「高山先輩と美月さん、親公認なんだって」

「え〜、羨ましいなぁ(笑)」


そう、誰もが羨む、完璧な二人だった。

あの日までは――。


◇


一ヶ月後。

女子大に通う美月は、サークルで出会った暴走族風の青年・秋人の強引で情熱的なアプローチに押し切られ、いつしか心を踏み外していた。



「わ〜、綺麗…」

挿絵(By みてみん)

大学の帰り道、秋人は美月を横浜の夜景が一望できる港の公園へ連れ出した。

イルミネーションの光が海面に揺れている。


「あ…章」


バッグの中でスマホが震えた。画面に表示された「章」の文字に、心臓が跳ね上がる。


「…心配しないで、女の先輩だから…うん、それじゃあ…」


挿絵(By みてみん)

ズキン…ズキン…

(息が詰まる…私、章に息を吐くように嘘をついてる…)


「…美月ちゃん、なんで彼氏に嘘をついたの?」


隣に座る秋人の声は、夜の静寂に低く響いた。


「…章に、余計な心配をかけたくないから…」


(…これも嘘。傷つけたくないんじゃない。

嘘をついてまで、私…この人とここにいたかったんだ…)


「彼を裏切ってるみたいだから?」

「…そうです!こんな風になってしまう、自分が恐ろしいんです…っ!」


美月は口元を押さえ、震える声で叫んだ。

目の前で別の男のために涙を流す彼女を見るたび、狂いそうなほどの痛みが秋人を苛んでいた。


「美月ちゃん…君が本気で俺を拒絶するなら、俺は今すぐ消えてやる。でも…」


秋人は美月の細い肩を強く掴み、逃げ場を塞ぐように瞳を覗き込む。


「そんな顔で泣いて、俺の胸をかき乱すなら…美月。

俺は、章って奴から、お前を力ずくでも奪い取る」

挿絵(By みてみん)

「…あ……秋人先輩…」

「今夜は…俺は、お前を返さない…」


あまりの熱量に射抜かれ、美月は拒絶の言葉を喉の奥で詰まらせた。


美月は、美しい横浜夜景が見える車内で確信してしまった。


自分の心はもう、高山の優しい手元にはない。

秋人が撒き散らす不器用で暴力的なほどの愛熱に、完全に屈してしまったのだと…


その夜、

美月は自身の深い淋しさを埋めるように、秋人に激しく抱かれた。


◇


『ごめんなさい…私…私は…あの人が好きです…っ!』

挿絵(By みてみん)


「‼️」


誕生日当日、駅で待ち続けていた高山に、美月が告げた冷酷な拒絶。

それが、すべての崩壊の始まりだった。


◇


夜の駅裏の暗い駐車場。

冷え込む暗闇の中で、高山と秋人、そして美月が対峙していた。


「俺は…俺は美月を本気で愛しています! あなたという彼氏がいると知った上で…どうしても諦められなかった!」


秋人が叫ぶ。その胸元を、高山は激しい力で掴み上げた。

挿絵(By みてみん)


「ふざけるな…このっ!」

バキッ!!

高山の硬い拳が、秋人の右頬を痛烈に打ち抜いた。

生まれて初めて人に振るった暴力。


しかし、口から血を流しながらも、秋人は勝ち誇ったような目で高山を見返した。


「殴りたければいくらでも殴れよ!

でもな…美月は、心も身体も、もう俺のものなんだよ!」

「…何だと…?」

「あんたのその重苦しい優しさに、美月は息を詰まらせてたんだ!

守る守るって口先だけで、結局淋しい思いをさせてただけだろ!

だから俺が奪ったんだよ!」


その言葉が、高山の脳内で弾けた。


「黙れ……黙れぇぇぇっ!!」


高山の中で、何かが音を立てて断ち切れた。

理性も、

優しさも、

真面目に生きてきた過去も、

すべてが漆黒の激怒に飲み込まれていく。

高山は野獣のような叫び声を上げ、秋人に馬乗りになって拳を振り下ろし続けた。


「あぐっ…ゲホゲホ…」

「ぶっ殺してやる…ぶっ殺してやるっっっ!」

「やめて! 章、やめてぇぇぇっ!」


美月が悲鳴をあげて高山にしがみつく。

高山はその手を荒々しく振り払い、狂気を含んだ目で二人を見下ろした。

挿絵(By みてみん)

「…俺を裏切ったのか?美月!」

「っ…!」

「別れないからな」

「え…?」

「覚えておけ、俺は絶対に美月と別れない!!」

「あ、章…私たちは…もう…」

「…俺が犠牲になって引いてやるとでも思っていたのか?」

「…!」

「ふざけるな……俺の人生を壊しておいて、二人で幸せになれると思うなよ!」

「ひっ…」


かつての穏やかな高山の面影は、そこにはどこにもなかった。


「一生呪ってやる……俺を裏切ったことを、死ぬまで後悔させてやる!!」

「章、もう…やめて、お願い!」


高山は吐き捨てるように叫ぶと、夜の闇の中へ走り去っていった。

挿絵(By みてみん)

「……章………ごめんなさい……ごめんなさい…」


後に残された美月には、暗闇に向かって謝る事しかできなかった…


◇


それから高山の日々は、地獄そのものだった。


高山は会社を辞めた。

彼は執拗に美月を付け回す様になり、大学にまで押しかけた。

挿絵(By みてみん)

高山の美月への執拗な執着に、美月は大学を辞め、秋人と駆け落ち同然に東京を離れた。

挿絵(By みてみん)

美月の居場所が掴めなくなった高山は、昼間から安酒を煽り、泥酔しては街で暴力沙汰を起こし、警察に補導される荒んだ生活へと堕ちていった。


「真面目に働いても奪われるだけだ」――その不条理な絶望が彼を狂わせた。


◇


ガシャャャン!!

「きゃあァァァ!」

ある雨の夜、泥酔した高山は「樹」のドアを狂ったように叩き、ガラスを割らんばかりに暴れた。

挿絵(By みてみん)

「美月を出せ! シャロンさん、美月はどこだぁっ!」

「高山先輩!やめてください! お願いだから正気に戻って!」


翔子が涙ながらに叫び、ジャンが力ずくで彼を押さえつける。

ジャンに担がれながら、高山は血の涙を流して叫び続けた。


「俺の手は……美月を守る手じゃなかったのかよぉぉぉっ!!」


その悲惨な姿に、シャロンは胸を締め付けられ、リサは言葉を失って震えていた。


それ以来、高山が「樹」に現れることは二度となかった。


◇


高山は、姿を消した美月を探すため、借金を重ね、怪しげな裏社会の集団と関わりを持つまでになった。


「美月を出せよ!どうせ、ここに匿っているんだろ!」

「何度言えば分かる!美月は家を出ていったと言っているだろう!」


美月の実家の前で高山と美月の父が揉み合いになっていた。


「高山さんだね?」

「!?」


突然、高山は数人の男に腕を掴まれ、引き摺られる様に黒いワンボックスカーへと連れて行かれた。


「あなた達は…」


突然の事で呆然とする美月の両親


「あ〜、警察です。近所から男が暴れていると、通報がありましてね…」

「警察?アンタ達が?」


ガラの悪い男達を見て、美月の父は訝しんだ。


「とにかく、あの男はコチラで収容しますので、ご心配なく…」


そう言って、男達は黒いワンボックスカーに乗り込み、高山を乗せ走り去って行った。




人気の無い、高速道路の高架下……


バキッ、ドガッ…

「この野郎、仕事もせずに!金返す気がないのか!」


暴れる高山を、数人の男達で袋叩きにし、気絶させた後、高山をどうするか男達は話をしていた。


「アニキ、どうします?」

「…身体で払ってもらうしかねぇだろ、カネが回収できなきゃ俺らがヤバくなる。」

「え?でも身体って…女じゃないんスから」

「バカヤロ!臓器売買のブローカーに連絡しとけ!」

「!わ、わかりやした!」



その後、高山は行方不明となり、彼の姿を見た者は誰もいなかった。


◇


一方…


高山の美月への執拗な執着から逃れるため、美月と秋人が東京を離れて数カ月が経った…。


しかし、

二人を待っていたのは救いなどではなく、底なしの泥沼だった。




「…それじゃあ、またお店で…」

ホテルの一室から黒のボディコン風の服を着た女性が出てきた。


挿絵(By みてみん)


時間は午前2時を過ぎている…

冷たい夜風の中、彼女は荒んだ足取りで自宅へと帰っていった。



カンカンカン…

深夜、古い2階建てのアパート。


挿絵(By みてみん)


錆びついた外階段を、ハイヒールを鳴らしながら、黒のボディコン風の女性が2階へと登っていく。



「ただいま…」

「どこ行ってたんだよ美月! 」


時刻は午前3時…

帰宅した美月に向かって、秋人が血走った目で怒鳴り散らした。


挿絵(By みてみん)


「どこって…仕事に決まってるでしょ」


美月は魂の抜けたような、しかし冷めきった声で答える。

高山を裏切り、彼を壊してまで手に入れたはずの二人の生活は、すれ違いと暴力、そして終わりのない欠乏感に満ちていた。


「店は0時までだろ!なんでこんな時間まで」

「…お客様がアフターをご希望だったのよっ」

「…ちっ…なんで美月が高級クラブなんかで働いて」

「秋人が働かないからでしょ!?二人分の生活費を誰が稼いでいると思ってるのよ!!」

「う………」


挿絵(By みてみん)


大学を中退し、誰も知る者のいない見知らぬ土地。

まともな職など見つかるはずもなかった。


秋人は職を転々としてはすぐにクビになり、やがて働くことすら放棄して部屋に引きこもるようになっていた。


『高収入・ラウンジでお客様のお相手をする簡単なお仕事』

藁にもすがる思いで飛び込んだ水商売。

しかし、それは美月を更なる奈落へと突き落とす入口に過ぎなかった。


「秋人こそ仕事は?面接行ったんでしょ?」

「…不採用だった」

「え!?」

「人との接し方がどうとか…とにかく雇ってもらえなかった!」

「ちょっと、いい加減にしてよ!」

「うるさいな!しょうがねぇだろ!」


底を突いた貯金。

日増しに増えていく生活苦。

罵り合いが日常となり、部屋の空気は常に澱んでいた。


「…もう、嫌だ」

挿絵(By みてみん)


美月の心は、音を立ててすり減っていった。


「…私の日記帳」

挿絵(By みてみん)


すべてが狂う前、高山と過ごした日々を綴ったあの日記帳だけが、彼女が人間であることを保つための唯一の縋り付きだった。


◇


「いらっしゃいませ」

「やあママ、」

「いつもありがとうございます。」


美月が働く高級クラブに、重苦しい空気を纏った一人の男が訪れる。

毎月、常軌を逸した金額を店に落としていく太客。


「ママ、今日は…あの子を頼むよ」

「はい、かしこまりました。」


挿絵(By みてみん)


店の雇われママが、冷徹な目を美月に向けた。


「美月、一番テーブルからご指名よ」

「はい…」

「分かっていると思うけど、お客様の機嫌を損ねるような事しないで頂戴ね。分かってるわね?」

「…分かってます。」

「ならいいわ、アフターも込みだからよろしくね」

「はい……」


客の待つテーブルへと向かおうとする美月の背に、ママの容赦ない声が突き刺さる。


「あぁそうだ。

避妊だけはしっかりとね。あんたに休まれたりしたら、店として大損なんだから(笑)」

「………はい…」

挿絵(By みてみん)


振り返ることも許されず、美月は作り笑いを張り付けて男の待つ卓へと進んだ。

挿絵(By みてみん)


この店でいう「アフター」とは、単なる食事などではない。

挿絵(By みてみん)


客の欲望を処理するための、逃げ場のない「枕営業」だった。

挿絵(By みてみん)


◇


初めてそれを強要された日、美月は必死で拒絶した。


『私、見ず知らずの男の人とホテルになんて…そんな事できません!』

挿絵(By みてみん)


『あらそう、こっちは経歴も何も聞かず雇ってるんだ、文句があるなら辞めるかい?……もっとも、辞めた後のことは保証しないけどね』

『うっ………』

『いいのかい?あんたのダメ男が作った借金の数百万、うちの店が全部肩代わりしてやったんだよ?』

『あ…』

『またあの怖いお兄さんたちが、アパートに取り立てに来てもいいのかい?』

『っ……!』

『今度払えなかったらその時は、風俗の底に沈めて、身体で徹底的に返してもらうって言われてたっけねぇ』

挿絵(By みてみん)


恐怖で美月の顔面から血の気が引いた。


秋人は生活費と車のローンの支払いのため、闇金融に手を出していた。

どうしようもなくなった借金は瞬く間に膨れ上がり、とうとう取り立て屋がアパートにまで押し寄せるようになっていたのだ。


『お前ら、さっさと夜逃げしろ!近所迷惑なんだよ!』


行き場を失った二人に手を差し伸べたのは、このクラブのママだった。

「うちで働けば、借金もまとめて肩代わりしてあげるから」と。

それは救済などではなく、水商売の底辺へと人間を縛り付けるための悪辣な罠だった。


『この店で愛想笑いするくらい可愛いものさね。

あいつ等の風俗店に売り飛ばされでもしたら、二度と這い上がれない一生の地獄だったんだから感謝しなさいよ(笑)』

挿絵(By みてみん)


選択肢など最初からなかった。

秋人には、こんな惨めな真実は絶対に言えなかった。


挿絵(By みてみん)

最初は泣きじゃくりながら、群がる男たちの肉体を相手にしていた美月だったが――。




「フフフ、美月ちゃん、さあいくよ」

「…はい」

(……これも、秋人のため、生活のためなんだから……)

挿絵(By みてみん)


幾度も自分に呪文のように言い聞かせ、彼女は自らの尊厳をすり潰しながら、数知れない男たちの情欲の道具と成り果てていった。


それは、次の日も…

挿絵(By みてみん)挿絵(By みてみん)


また次の日も…

挿絵(By みてみん)挿絵(By みてみん)


その次の日も…

挿絵(By みてみん)挿絵(By みてみん)


次の日も…

挿絵(By みてみん)挿絵(By みてみん)


次の日も…

挿絵(By みてみん)挿絵(By みてみん)


入店してから数カ月…

毎日の様に訪れる、見知らぬ男達の淫欲に、美月の肉体は蹂躙され続けた…


「…今更どうせ…もう元には戻れない…」


逃れる事のできない現実に美月は、

誰に抱かれようと同じ事…もうどうでも良いと思うようになっていった。


挿絵(By みてみん)

暗く淀んだホテルの一室。

天井のシミを見つめながら、美月は荒い息を吐く男の背中にただ機械的に腕を回した。


挿絵(By みてみん)

(早く……早く、この時間が終わって……)


挿絵(By みてみん)


感情を殺すことだけが、壊れかけた心を保つ唯一の方法だった。

挿絵(By みてみん)


◇


「いらっしゃいませ」

「やあママ、今日も来たよ。」

「いつもありがとうございます。呉社長」


その高級クラブの常連である呉社長は、毎月数百万もの金を落とす文字通りの大得意様だった。


「ママ、今日も美月ちゃんを頼むよ」

「はい、かしこまりました。」


ママに呼ばれ、美月は愛想笑いを張り付けてテーブルに向かう。


「美月、呉社長からご指名よ」

「はい」

「アフターも込みだからよろしくね」

「分かりました!呉社長、いらっしゃいませ」

挿絵(By みてみん)


「美月ちゃん、会いたかったよ」

「昨日も会ったじゃないですか(笑)」

「僕は毎日美月ちゃんに会いたいんだよ」

「あらあら、呉社長はホントに美月にご執心ね!」

挿絵(By みてみん)


周囲がやんややんやと囃し立てる。


◇


呉社長と美月が出会ったのは、ほんの一ヶ月前のことだった。


初めてアフターで連れ出されたシティホテルのスイートルーム。

いつもなら怯えて服を脱ぐはずの美月に、呉社長は静かに言った。

挿絵(By みてみん)


『…美月ちゃん…君、何かあったの?』

『えっ!?』

『君、店で働くのが辛そうだったから、気になってね』

『…辛そうなんて…あの店で働く女の子は、皆そうなんじゃないですかッ?』

挿絵(By みてみん)


刺々しく突っ撥ねる美月に、呉社長は優しく首を振った。


『僕は今日、君とそういう事がしたくて連れて来たんじゃない』

『じゃ、じゃあ何なんですか!』

『君の…美月ちゃんの事が知りたい…辛いなら尚更だ、二人きりで話がしたかった。』

『わ、私の事なんて…』

『大丈夫、君が話したくなるまで、僕は信じて待つよ』

『‼️』


ズキンッ……!

挿絵(By みてみん)

その言葉は、かつて高山が自分に向けてくれた温もりと酷似していた。

もう二度と戻らない、自らの手で踏みにじってしまった、取り返しのつかない大切な記憶。


『……なんで……なんでそんな事、あなたは言うの?私は…こんなに汚れた、最低な女なのに…』

『美月ちゃん?』


堰を切ったように、美月の目から大粒の涙が溢れ出した。

もう止まらなかった。

心の奥底に蓋をしていたドロドロとした罪悪感、終わらない恐怖、誰にも言えなかった絶望のすべてを、彼女はむせび泣きながら吐き出した。


高山を裏切ったこと。

東京を追われるように逃げたこと。

借金の重み。

幾人もの男に肉体を蹂躙され続けている現実。

秋人には一言も言えない秘密。


『……辛かったんだね』

挿絵(By みてみん)


呉社長はその日、一度も美月に触れず、ただ泣きじゃくる彼女を優しく、しかし逃げられないほど強く抱きしめ続けた。


◇


その日から、呉社長は毎日店に通い詰め、美月を独占した。

毎晩のようにアフターで連れ出される高級ホテルのスイートルーム。


「…はうっ!はあ、はあ、はあ…」


挿絵(By みてみん)


美月は、もはや拒絶することすら忘れていた。


自分は章を裏切り、秋人に抱かれ、

そして今や見ず知らずの男たちに身体を売る泥まみれの女だ。

誰に抱かれようと、どうでもいいと思っていた美月だったが、しかしーー


呉社長の愛撫は、他の男たちのような粗暴な暴力ではなく、心身の傷をなぞるように甘く、心地よかった。

荒み切った現実のすべてを忘れさせてくれるその陶酔感に、美月はゆっくりと、しかし確実に蝕まれていった。


挿絵(By みてみん)


百戦錬磨の呉社長にとって、心に深い傷を負い、孤独に震える若い女を依存させることなど、造作もないことだった。




情事を終え、バスローブ姿で寛ぐ呉社長が、鏡台の前に座る美月に語りかける。

挿絵(By みてみん)


「ねぇ美月ちゃん、ちょっと話があるんだけど」

「何ですか?」

「ママから聞いたんだけどさ、美月ちゃん、相当生活苦しいんだって?」

「えっ!?」

「彼氏が働かない上に、莫大な借金があるって聞いたよ」


美月の小さな肩がビクリと震える。


「僕はね、美月ちゃんをその地獄から助けてあげたいんだよ」


背後から回り込んだ呉社長が、優しく彼女を包み込むように抱きしめた。

挿絵(By みてみん)


「私を助ける……?」

「…どうだろう。月100万で、僕の愛人になってもらえないだろうか?」

「…愛人?」

「嘘じゃない。その証拠に、ちゃんとした契約書も用意するよ」

「愛人契約書……そんな…」

「馬鹿げた話だと思うかい?」

「…本気なんですか?」

「本気だとも」

「……何故そこまで…私、もう汚れた女なんですよ?」

「数え切れない女性を見てきた僕からすれば、そんなの汚れでも何でもないさ」

「……ッ」

「軽蔑するかい?」

「いいえ……そんな事は……」

「金だけの関係だとしても構わない。僕なら、君のすべてを救ってあげられる」

「少し……考えさせて下さい……」

「分かった。いい返事を待っているよ」


ホテルからの帰り道、冷たい夜風に吹かれながら、美月の脳内は狂ったように回転していた。

毎月100万円が手に入るのなら、すべての生活苦が一瞬で消え去る。

秋人の借金も完済できる。

あの汚らわしいラウンジを辞め、二度と他の男に身体を売る必要もなくなる。


「それに……」

挿絵(By みてみん)


先ほどまで呉社長に触れられていた身体の芯が、疼くように熱かった。

秋人の暴力的な情交とは違う、すべてを溶かすような極上の快楽。

それを知ってしまった今、美月はもう呉社長なしでは生きられない身体になっていた。


現実の重圧から逃れるため、彼女はいつの間にか、その「快楽」と「呉社長という存在」に完全に依存しきっていた。


◇


「ただいま…」

「おい、美月!どこ行ってたんだよ!」

「はあ…仕事だってば!!」


挿絵(By みてみん)


アパートのドアを開けるなり、秋人の狂気を含んだ怒声が飛んできた。


「またあの男のことを考えてたのか!?」

「何言ってるのよ!疲れているんだからやめてよ!」


秋人は美月を自分のものとして奪い取ったものの、彼女の瞳の奥にある「高山を破滅させた」という消えない呪縛と罪悪感を、決して自分のものにできていないという焦燥に駆られ続けていた。


「毎日こんなに遅くなるなんて、おかしいだろ!」

「いい加減にしてよ!そういう店なんだってば!」


彼女がふと見せる遠い目に怯えるあまり、秋人の愛は歪んだ恐怖と束縛へと変貌していった。


「…スマホ見せろっ」

「あっ!?」


挿絵(By みてみん)


秋人は美月のバッグから無理やりスマホを奪い取り、画面を覗き込む。


「ちょっと!勝手に見ないでよ!」

「うるせぇ!」

「きゃあっ!!」


挿絵(By みてみん)

バシッ……!

揉み合う拍子に、意図せず秋人の振り払った手が美月の頬を激しく叩いた。


「う…うわぁぁぁんっ…!」

「っ…!…ほら、返すから、泣くなよ」


怯えて泣きじゃくる美月を置いて、秋人は気まずそうに部屋を飛び出していった。


(……もう、誰でもいい……私を助けてよ……)


挿絵(By みてみん)


絶望の淵で、美月の心は完全に折れていた。この地獄から這い上がるには、もう呉社長にしがみつくしかなかった。


◇


シティホテルのスイートルーム。


「美月ちゃん」

「呉社長…」

挿絵(By みてみん)


ベットの上で深く抱き合い、貪るように唇を重ねる二人。


「僕を受け入れてくれて、ありがとう」

「いいえ…お礼を言うのは私の方です……私を本当に救ってくれるのは、あなただけです…」


二人は着ていたバスローブを脱ぎ捨て、大きなガラスの壁で仕切られた眩いシャワー室へと消えていく。


「今日は、もっと深く愛してあげよう…」

「っ…こんな明るい所で…恥ずかしいです…」

「それが最高の快感に変わるのさ」

「あぁっ……!」

挿絵(By みてみん)


すべてを忘れるため、美月は呉社長がもたらす激しい快楽の海へと全身を沈めていった。

それは深く、暗く、彼女の精神の根底まで侵食していく。


カウンターテーブルの上には、冷たく光る「愛人契約書」が置かれ、そこには『美月』と『呉』のサインが生々しく記されていた。

挿絵(By みてみん)



◇


「ただいま〜♪」

「………美月、お前…酔ってんのかよ」

挿絵(By みてみん)


泥酔し、異様なほど浮かれた足取りで帰宅した美月。


「酔ってるわよぉ?今日はぁ、お祝いだものぉ」

「…お祝い?」

「聞いて秋人ぉ、私たち、もうお金に困らなくなるのよぉ!」


満面の笑みで告げる美月だったが、秋人の顔面は凍りついていた。

肩を震わせながら立ち上がると、スマホの画面を美月に突きつける。


「…これが、何だか分かるか?」

「な、何よ…そんな怖い顔をして…」


美月が覗き込んだ画面には、リアルタイムの地図アプリと、点滅する赤い現在地マーカーが表示されていた。


「なにこれ…現在地が、このアパートになってるし…これが何だって言うのよ?」

「…よく見ろよ。これはお前のスマホに隠した追跡アプリの画面だ」

「私の…!?」

「これで、今日お前が何処で、何時間ホテルにいたか、ぜんぶ丸わかりなんだよ!!」

挿絵(By みてみん)


狂気に満ちた叫び声に、美月の血の気が一気に引いた。


「酷い!勝手にそんなアプリ…!」

「酷いのはどっちだ!店が終わってから、あの男とホテルに何時間入り浸ってたんだよ!」

「っ……!」

「やっぱりお前、俺に隠れてあの男と隠れて合ってたんだな!」


追いつめられた恐怖と酒の勢いが混ざり合い、ついに美月の堪忍袋の緒が切れた。


挿絵(By みてみん)


「会ってないわよ!こんな…こんな汚れきった身体で、章と愛し合えるわけないでしょ!」

「じゃあホテルで何をしてたんだよ!」

「……だから、そういう身体を売る店だって言ってるのよ!私が働いている店は!!」

「……何だと……?」

「そうよ!私が何ヶ月も、何十人もの知らない男に抱かれて…誰のおかげで生活できてると思ってるのっ…!」


絶叫する美月に、秋人の理性のタガが完全に弾けた。


「ふざけんなぁっ!!」

「ふざけてんのはどっちよっ!私がどんな思いで…どんな汚辱に耐えて金を稼いでるか、あんたに何が分かるっていうのよっ!」

「うるせぇ!うるせぇ!!うるせぇ!!!聞きたくねぇっ!」


挿絵(By みてみん)


狂乱した秋人は美月の腕を乱暴に掴み、奥の暗い小部屋へと放り込むように閉じ込めた。


「何するのよ!出してよ、開けてよっ!」

「少しは頭を冷やせ!この淫売が!」


しばらくして、秋人は手に何かを持って部屋に戻ってきた。


「それ……私の……日記帳……っ!」

「俺を裏切った罰だ。こんなもの、もういらないだろ」

「やめて、やめて、やめてぇぇぇっ!!」


挿絵(By みてみん)


ビリィィィッッッ‼️

秋人は美月の目の前で、彼女の最後の精神的支えだった日記帳を容赦なく引き裂いた。


「こうしてやる、こんなクソみたいな思い出、全部こうしてやるっ!」


ビリビリビリビリッ!

血走った目で、文字通り粉々になるまで、二度と修復できないほどにズタズタへと引き裂いていく。


「ああぁぁぁあああ、やめて、いやぁぁぁああああっ(泣)」


挿絵(By みてみん)


「…美月、お前は俺のものだ。もう二度と、外の空気を吸わせることも、誰かに会うことも許さねぇからな…」


秋人は鍵をかけ、美月のスマホを取り上げると、そこに残されていた連絡先から、一ヶ月間最も頻繁にやり取りしていた男の名前を特定した。


「……呉……コイツだな……」


◇


美月のスマホの通信履歴はすべて遮断され、外界との接触は完全に絶たれた。

あの日、横浜の夜景の下で見せた「頼もしい兄貴分」の面影は微塵もなく、そこには歪んだ所有欲と狂気にしがみつく、醜い男の姿しかなかった。


「違うの…違うの秋人…私、あなたを助けたくて……私……」

挿絵(By みてみん)


暗い部屋の隅で、美月は両膝を抱え、ガタガタと歯を鳴らしながら震えることしかできなかった。


(私は……私は章を壊した……そして、私が秋人を狂わせた……すべて、私のせいだ……)


高山から託された絆の証も、秋人の手によってゴミ箱の底へ屑として捨てられた。

心の光をすべて奪われた美月の精神は、音もなく、しかし確実に崩壊へと沈んでいった。


◇


「呉社長!今度は私を指名して下さいよ♡」

「抜け駆けはズルイわよ!今度は私!」

挿絵(By みてみん)

深夜の高級クラブ、数名の女の子達が呉社長を接待していた。


「…まったく…美月はどうしたんだい!連絡もよこしゃしない!」


雇われママが眉間にシワを寄せ、頭を痛めていた。

一番人気の美月に、万が一にでも逃げられたら、売上げが大きく落ち込むのは目に見えていたからだ。

それに、大得意様の呉社長まで失いかねない。


「…ねえママ、今日は美月ちゃん休みだったかな?」

「え!?いえ、ちょっと…お、女の子には、色々あるんですよ、ほほほ…(呉社長、美月のスケジュールを完全に把握してるわね)(汗)」

「…そうですか。」


ヴーーー、ヴーーー。

その時、呉社長のスマホが激しく震えた。

それは美月のスマホからだった。


「美月ちゃん?今日、店に出てなかったけど、どうかしたの?」

『……お前が、呉だな……?』

「!」


スマホの向こうから聞こえてきたのは、底冷えするような異様な男の低い声だった。

呉社長はロビーまで移動し、誰にも話を聞かれないよう、黒服に指示した。

挿絵(By みてみん)


『俺の女に、勝手に手を出してくれたな』

「……君は、美月ちゃんの彼氏だね。彼女は今どうしているんだい?」

『うるせぇ!馴れ馴れしく俺の女の名前を呼ぶんじゃねぇ!』

「そうか。で、僕に何の用かな?」

『……今夜、ここまで一人で来い』


秋人から送りつけられたのは、街外れの廃墟じみた一角を示す地図データだった。


「……分かった」

『俺の女に手を出した代償がどうなるか……今すぐ思い知らせてやるよ……』


ブツリーーと無機質な音を立てて、通話が切れた。


◇


黒塗りの高級車が、指定された暗がりの駐車場に静かに滑り込む。

ドアが開き、贅沢なスーツに身を包んだ呉社長が悠然と降り立った。


「……てめぇが、呉だな!」


暗闇の中から、血走った目を剥いた秋人が飛び出してきた。

挿絵(By みてみん)


「君が、美月ちゃんの彼氏だね」

「ふざけんな!二度と美月に指一本触れられないように、今すぐ殺してやるっ!」

「それは契約違反だね」

「け、契約……だと……?」

「なんだい、美月ちゃんから聞いてないのかい? 月100万で、僕と彼女は愛人契約を結んだんだよ。ほら」

「‼️」


呉社長が冷ややかに投げ捨てた薄型の電子デバイス。

そこに映し出されていたのは、愛人契約書を誇らしげに見せつけ、呉社長の腕の中でトロけるような恍惚の表情を浮かべる美月の、生々しい裸の写真だった。


「美月ちゃんから寝物語に聞いたよ。

君、前の彼氏から彼女を力ずくで寝取ったんだってね?」

「てめぇ……殺す……!!」

「同じことをされたくらいで怒るなよ。

それに……美月ちゃんの、あの開発された素晴らしい身体を本当に満足させるには、君はあまりにもガキすぎて、話にならないんだよ(笑)」

「ふざけんなぁぁぁぁーーーっ!!」


理性を完全に失った秋人は、泥臭く闇雲に呉社長へと殴りかかった。

だが――。


ガシッ……!

「ぐっ……!?」


間一髪、呉社長の両脇を固めていた黒服の巨漢の男二人が、まるで虫けらを扱うかのように秋人の両腕を背後へと捻じり上げた。

挿絵(By みてみん)

そして、容赦ない鉄拳と重い蹴りが、秋人の腹部と顔面に次々と叩き込まれる。


「これでも僕は大金持ちでね。身辺警護にプロのシークレット・サービスを雇うくらい、安いものさ」

「げほっ…ぐうっ……美月は……俺の……女だ…!」

「全く……救いようのない、しつこい害虫だね」


呉社長の冷ややかな合図とともに、黒服たちによる一方的な暴力がさらにエスカレートしていく。


「おい、教えろ。美月ちゃんをどこに隠した?」

「……誰が……誰が、お前なんかに教えるかよ……!」


挿絵(By みてみん)


血を吐き、骨が折れる音が響いても、秋人は執念だけで美月の居場所を口に割ろうとはしなかった。

愛憎と独占欲の果ての、あまりにも空虚な意地だった。


◇


秋人の行方が分からなくなってから数日後ーー。


「おい!中に誰かいるのか!? 警察だ!」


匿名の通報を受け、荒涼とした一角にある古い2階建てのアパートの一室。

ドアを強引にこじ開けた警察官と救急隊が踏み込み、その場の惨状に息を呑んだ。


挿絵(By みてみん)


そこにいたのは、衰弱しきった美月だった。


発見された当時、彼女は助け出されたというのに、喜びの感情すら一切見せなかった。

話すことも、笑うことも、涙をこぼすことすらできない。

ただうつろな瞳で虚空の壁の一点を見つめ続けるだけの――意志も心も持たない、生きた「人形」のような抜け殻へと成り果てていたのだった。


挿絵(By みてみん)


アパートの外、警察車両や救急車が犇めくすぐ傍に、黒塗りの高級車が停まっていた。


挿絵(By みてみん)

「…。」


救急車に運ばれていく美月…

呉社長は、美月が救助される様子を車の後部座席から見ていた。


「ボス、アノ女、ドウシマスカ?」

運転席と助手席に座る黒服の巨漢の男二人が、呉社長に聞いた。


「…あれでは使い物にならん。

全く…私が、あそこまで開発したというのに…。」


呉社長が合図をすると、黒塗りの高級車は、滑るようにその場から離れていった………



◇


「美月……っ!!」


警察からの連絡を受け、青ざめた両親が病院へと駆けつけた。


挿絵(By みてみん)


病室のドアを開け、約一年ぶりに再会した愛娘の姿に、母親は絶叫しながらその場に崩れ落ち、父親は震える手で彼女を強く抱きしめた。


「あぁ、美月……!一体、この一年の間に何があったんだ…!」

「どこか痛いの?ねえ、返事をしてちょうだい…!」

「…………」

「美月……?」


挿絵(By みてみん)


しかし、抱きしめられても、母の涙が頬に落ちても、美月はまばたき一つせず、ただ虚ろな目で白い天井を見つめているだけだった。

微動だにしない我が子の異様な姿に、両親は血の気が引くほどの恐怖を覚えた。


「お父様、お母様。一度こちらへ……」


看護師に付き添われ、両親はフラフラとした足取りで担当医の診察室へと通された。


「先生……!娘は、いったいどうなってしまったんですか!」

「意識は…戻るんですよね…?」

「お父さん、お母さん。まずは落ち着いて聞いてください」


デスクに座る医師の顔は、言い知重苦しさに曇っていた。


「身体的な外傷や栄養失調については、点滴と療養でいずれ回復するでしょう。

ですが……問題は精神面です」

「精神、ですか…?」

「お嬢さんは、人間としての理性を破壊されるほどの、あまりにも強烈なトラウマと精神的ショックを連続して受けたと見られます。

私たちの呼びかけにも、精神的に防衛反応を起こしているのか、一切の反応を示さない状態です」


医師の言葉に、母親はその場で膝から崩れ落ちた。


「先生……どうすれば、娘を元の美月に戻せますか!?」

「……正直に申し上げますと、元の状態に戻る保証はできません。

専門の長期的な精神ケアが必要になりますが、心が自らを守るために機能を停止している以上、果てしない時間がかかるでしょう」

「そんな……そんなのって……」


絶望に打ち震える両親に、医師はさらに言いづらそうに言葉を継いだ。


「……それと、もう一つ。

検査の結果について、お伝えしなければならないことがあります」

「……まだ、何かあるのですか?」

「ええ……」


医師が差し出したカルテに視線を落とし、両親は息を呑んだ。


「お嬢さんは……現在、妊娠されています」

「なっ……!?」

「そんな……嘘でしょ……!」

「すでに人工妊娠中絶ができる月齢は過ぎてしまっています。

お腹の子の父親が誰であるかも、今の彼女の状態では聞き出すことができません……残念ですが…」


挿絵(By みてみん)


頭をハンマーで殴られたような衝撃の中、両親はただ立ち尽くすしかほかなかった。

美月の心だけでなく、その肉体までもが、この地獄のような日々の呪いと痕跡を永遠に抱え込み続けさせられていたのだった。


◇


「美月……」


病室に戻った両親は、虚ろな目で宙を見つめる美月のベッドの脇に寄り添い、震える声で絞り出した。


挿絵(By みてみん)


「もう何も心配しなくていいから……お父さんとお母さんが、ずっと一緒にいるからね……」

だが、その言葉が美月の閉ざされた心に届くことは、二度となかった。


◇




静まり返った喫茶店「樹」。

午後の柔らかい光が差し込む店内は、相変わらず穏やかな香りに包まれている。


だが、窓際のテーブル席には、相変わらず誰の姿もない。


かつてそこには、楽しそうに笑い合い、モンブランを分け合う若い恋人たちの姿があった。

互いを思いやり、温かな未来を疑うことすらなかった、あまりにも眩しかった二人。


「……悲しいですね。あまりにも……」


翔子が、誰もいない窓際の席を遠い目で見つめながら、ぽつりと呟いた。

リサはあふれ出る涙を拭おうともせず、ただ静かにうつむいている。


「誰も……誰も救われなかった……最初から、最後まで……」


シャロンは静かに目を閉じ、胸の前でそっと手を組んだ。

一度だけ掛け違えてしまった小さなボタンの掛け違い。

そして、制御できずに溢れ出した「執着」と「猜疑心」という名の猛毒が、そこに関わったすべての人間たちの人生を根底から噛み砕き、修復不可能な破滅へと叩き落とした。

美月がかつて愛おしそうに言っていた言葉。


――『外の景色がよく見えて、私のお気に入りなの』


その窓の外には、今や誰の影も映らない。

かつて恋人たちが温もりを分かち合っていたそのテーブルには、冷たい秋の陽射しが、ただ虚しく、残酷に差し込んでいるだけだった。

挿絵(By みてみん)



〜 エピソード神無月 窓際のテーブル席の恋人達 BAD END 完 〜














◇エピローグ ほんの少しの救い


美月の妊娠が発覚して数カ月後…

美月は臨月を迎えていた。

挿絵(By みてみん)

相変わらず、空を見つめているだけの美月だったが…


「お腹の中で、赤ちゃんは元気に育っていますよ」


担当医のその言葉に、美月の両親は安堵した。


「赤ちゃん、元気に動いてるね…美月、ほら…」


母が美月の手を取り、お腹に当てた。


ピクッ…

「!」

母は、美月の手が動いた気がした。


「手が…反応した?」


母は慌てて美月の顔を見た


「…微笑んでる…美月が、微笑んでる!」

挿絵(By みてみん)

今まで何に対しても反応してこなかった美月が、大きくなった自分のお腹を見て微笑んでいた。


「あなたっ!先生を呼んできてっ!」


母性が、美月の自我を呼び起こした。

その後、美月の意識は急速に回復していった。


それから暫くして…


ほぎゃあ、ほぎゃあ!

ほぎゃあ、ほぎゃあ!


美月は銀髪の男の子と金髪の女の子の双子の赤ちゃんを産んだ。


「美月、もう何も心配はいらない。

美月とこの子達には、私達がついているからね」


双子の赤ちゃんを抱く美月に、美月の両親は優しく寄り添っていたのでした。

挿絵(By みてみん)


おしまい。



あとがき


『シャロンの喫茶店』エピソード神無月――「窓際のテーブル席の恋人達 BAD END」をお読みいただき、本当にありがとうございました。

NORMAL ENDでは、傷つきながらも互いに別々の道を歩み、時を経て悲しみを昇華していく大人としての強さがありました。

しかし、本作は、タイトルの通り救いのないバッドエンドを描く挑戦的なエピソードでした。

最初のほんの小さなボタンの掛け違い、そして誰の心にも潜む「猜疑心」や「執着」という名の毒が、どれほど残酷に人の人生を狂わせ、大切なものをすり潰していくのかを描きたかったテーマの一つです。

高山は真っ直ぐな優しさゆえに狂気に呑まれ、美月は逃れられない恐怖と快楽の泥沼に堕ち、秋人は歪んだ独占欲の果てにすべてを失いました。そして、誰もいなくなった「樹」の窓際のテーブル席には、冷たい秋の陽射しだけが残される――。

登場人物たちの転落の軌跡は非常に苦しく、胸を締め付けるものがあったかと思います。

しかし、エピローグにおいて、凍りついていた美月の心が新しい命の温もり(双子の誕生)によってわずかに氷解し、長い闇の果てにわずかな光が見える結末といたしました。人間の業や悲劇を描きつつも、最後に彼女が母としての光を取り戻してくれたことで、物語全体の救いとなっていれば幸いです。


また次回のエピソードでも、温かなコーヒーの香りと共にお会いできることを楽しみにしております。

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