エピソード神無月 窓際のテーブル席の恋人達 NORMAL END 「樹」特製モンブランのレシピ付き
カランカラン…
喫茶店「樹」のドアに取り付けられたカウベルが、軽やかな音を響かせた。
「いらっしゃいませ。あら、高山さん、美月さん」
カウンターの中から、この店の店主であるシャロンが柔らかな笑顔で二人を迎えた。
店内に入ってきた高山章は、「樹」の常連客だ。
高校生バイト店員の翔子と出身中学校が同じと分かって以来、翔子と同じく高校生バイト店員のリサは、彼を高山先輩と呼んでいる。
彼は高校卒業後すぐに就職し、地元の工場で愚直なまでに真面目に働いている。
自分より相手の都合を優先してしまう優しい性格で、これまでの人生で怒りに任せて人に手を挙げたことなど一度もない青年だった。
その隣に寄り添うのは、一つ年下の恋人・美月。
女子大に通う彼女とは、彼女が高二の時に知り合って以来、ずっと寄り添ってきた。
今では「美月」、「章」と呼び合う、誰もが羨む仲の良いカップルだった。
「シャロンさん、こんにちは」
二人は迷いなく、窓際にあるいつもの席へと向かった。
空いていれば、彼らは必ずこの席を選ぶ。
「美月はいつもこの席を選ぶよね?」
「うん♪ 外の景色がよく見えて…私のお気に入りなの♡」
何気ない、窓際のテーブル席に座る恋人達の会話。
ゆっくりと時間が流れてゆくような穏やかで温かい空気に、喫茶店「樹」は包まれていた。
シャロンはそんな二人を微笑ましく見守っていた。
「シャロンさん、今日のオススメは何ですか?」
高山がカウンター越しに、シャロンに声をかけた。
「今日はモンブランがオススメですよ」
「それじゃあ、僕はモンブランと、ブレンドコーヒーを。美月もモンブランで良い?」
「あ、うん、あとロイヤルミルクティーをお願いします」
「かしこまりました」
シャロンは丁寧にコーヒー豆を挽き、紅茶の湯を沸かしながら二人に話しかけた。
「それにしても、お久しぶりですね。高山さん、お仕事がお忙しいのですか?」
「ええ、配属されて2年目ですけど、まだまだ教わる事がいっぱいで…」
高山は大手電機会社に就職し技術部門に配属され、今は都内近郊の工場で働いていた。
『おい高山!お前ら技術部門が現場を知らなかったら、どうやって指示を出すんだ!』
『はいっ!』
『先ずは現場に入ってしっかり学べ!分かったか!』
『はいっ!…こりゃ、今週末も無理そうだなぁ』
『高山ー!』
『は、はいっっっ!』
大学に進学することもできたが、父母を早くに亡くし、施設出身の彼は早く自分で稼げるようになりたかった。
それには勿論、美月の存在もあったからだった。
高山は、美月が女子大を卒業するまでに一人前になると心に決めていた。
いつの日か、胸を張って彼女を迎えに行けるようにと――。
「この前の土曜日も、急な仕事が入っちゃったからって…デートがキャンセルになっちゃったんですよ。お出かけ楽しみにしてたのに…」
少し不満そうに唇を尖らせる美月。
高校生の頃の二人は、毎日駅で待ち合わせて、行きも帰りも手を繋いで歩いていた。
そんな美月が寂しがっているのは痛いほど分かっていた。けれど――。
「ごめんよ…学生時代と違って、なかなか時間が取れないんだよ」
「冗談よ!分かってる…それに私だって…」
「あら?美月さんも?」
女子大に入学した美月は、友人が勧める他大学との交流サークルに入会していた。
「あ、いや、僕の仕事が忙しいのもあるんですけど…美月も大学のサークルとかがあって、なかなか時間が合わなくて…」
「でも、今日はお二人でデートだったんでしょ?」
「ええ、久しぶりに章と遊園地に行けて楽しかった!」
「それは良かったですね」
やがて、翔子がモンブランの皿を、リサがブレンドコーヒーとロイヤルミルクティーのカップをテーブルへと運んだ。
「じゃあ、ごゆっくりどうぞ」
そう言って二人の席から離れたものの、カウンターの端から仲睦まじい姿を見守っていた。
「…章、前に言ってくれた事を覚えてる?」
美月は高山の手に、そっと自分の手を重ねた。
「えっと…」
満開の桜並木の下を一緒に登校したあの頃…
二人で見に行った思い出の映画…
鎌倉で一緒に食べたクレープ…
波打ち際を手を繋いで歩いたあの夏…
それとも、肩にもたれ掛かり、美月が可愛い寝顔を見せてくれたあの時だろうか…
愛おしい思い出が溢れすぎていて、美月がどの場面を切り取ったのか高山には咄嗟に分からなかった。
「もう…
『小さな手…俺が守っていかなきゃな』って言ってくれたじゃない。
私、胸が熱くなるくらい嬉しかったんだよ?」
「あぁごめん、勿論覚えてるよ」
忘れるはずがなかった。
それは初めて二人が肌を重ね、心も身体も結ばれた夜、彼女の繊細な指を握りしめて心に刻んだ誓いだった。
「美月の日記帳にも書いてあったね…美月を守ると誓ったんだ、忘れる訳がないだろう?」
高山は美月の小さな手を両手で包み込むように、慈しみを込めて優しく握り直した。
翔子とリサが、静かに声を潜める。
「…あの二人、いつ見ても仲が良いよね」
「ホント、羨ましいなぁ…」
うっとりと溜息をつく翔子に対し、リサはどこか引っかかるような表情を浮かべた。
「…でもなぁ……」
「リサ?」
「いや、あの二人おとなし過ぎて…なんだかじれったくて」
「まあね。高山先輩、優しすぎるところがあるからなぁ…」
二人は顔を見合わせ、苦笑いを交わした。
「あ、そうだ!」
不意に美月が何かを思い出した。
「お母さんが『今日帰りに、高山さんにうちに寄ってもらいなさい』って!」
「えっ?お母さんが?」
「お夕飯用意するって、何だか張り切ってたよ(笑)」
「お母さんの手料理美味しいから嬉しいよ(でも量が半端ないんだよな〜)」
「ふふふっ♪」
美月は付き合い始めてすぐに高山を家族に紹介し、今では美月の家族と一緒に食卓を囲む事もしばしばだった。
「それじゃシャロンさん、また!」
「翔子ちゃん、リサちゃん、またね!」
「ありがとうございました〜」
「美月さん、またね〜」
「……本当、幸せそう。何だかこっちまで嬉しくなっちゃった♪」
リサも上機嫌でテーブルを片付けていた。
◇
秋の夕日は落ちるのが早い。
高山が美月を家に送り届けた頃には、すっかり夜になっていた。
「ただいま〜♪」
「こんばんわ」
「お帰りなさい美月、高山さん、いらっしゃい」
夕飯を用意していた美月の母が、二人を迎える。
「お邪魔します、お母さん」
と、そこへ――
「お帰り美月」
現れたのは美月の父だった。
「ただいま、お父さん♪」
「あ、お邪魔してます」
「うむ…いらっしゃい」
高山が来ると、美月の父はあまり機嫌がよろしくなくなる。
大切な娘に彼氏ができて複雑な心境なのだろう。
「高山くん、ちょっと…」
「は、はいっ(キタ〜)」
「この前、帰って来るのがかなり遅かったそうじゃないか」
「あ、はい、すみません、花火大会を見に行っていたもので」
まあ、この位の小言は日常茶飯事で、高山ももう慣れていた。
「結婚前の娘なんだから、そこら辺は気を付けてもらわんと!」
「はい、気を付けます!」
「まったく、ブツブツ…」
「あなた、そのへんにして下さいね」
「お父さん、ご飯が冷めちゃうよ?」
「ムムム…」
妻と愛娘に促され、食卓につく美月の父。
「いただきます」
「高山さん、沢山食べて頂戴ね♪」
「はい、いただきます!」
すると、美月が小声で高山に話しかけてきた。
「ごめんね、章」
「大丈夫、美月のお父さんだもの、心配なのは分かるよ」
「ふふふっ♪ありがとう」
いつもこんな調子で、高山と美月は親公認の仲だった。
「ごちそうさまでした、もう、お腹いっぱいです」
「お粗末様でした、沢山食べてくれて嬉しいわ♪」
料理自慢の美月の母が、そう言いながらお茶を入れてくれた。
「あら?雨かしら?」
気がつくと、パラパラと雨の降る音がしていた。
「うーん、酷くなる前に帰らないと…」
スマホの気象予報を見ると、これから雨は酷くなる予報だ。
「じゃあ私、章を駅まで送るよ」
「え?ダメだよ、美月が雨に濡れちゃうじゃない」
「だって…」
美月は、ちょっと寂しそうな顔をしながら、ちらりと父の顔を見た。
「…仕方ない、車を出すから…待ってなさい」
「お父さん、ありがとう!!」
「すみません、ありがとうございます」
「クスクス…まったく美月には弱いんだから」
美月の母は、台所で食器を洗いながら笑っていた。
美月の父が章を送ってくれる事になり、帰り支度を整える。
「じゃあ車を玄関前に出しておくから…美月も一緒に行くんだろ?」
「うん!もうちょっと一緒にいられるね!章!」
「そうだね(お父さんの視線が痛い(汗))」
車は駅までと思っていた高山と美月だったが、意外にも高山の住む社員寮まで、美月の父は送ってくれた。
その分、二人はたくさんの話をする事ができた。
それは嬉しそうに。
「ありがとうございました」
「うむ…それじゃ」
「じゃあね、章」
「おやすみ、美月」
美月が車の後部座席から手を振っていた。
車は発進し、高山は二人を見送った。
「…お父さん…ありがと…章と話す時間を作ってくれて…」
「…いや…か、風邪ひかれたら困るしな」
「クスクス…そうだね」
「…大事な娘を託すんだ…もっとしっかりする様にと言っとけ…」
「うん、分かった…伝えておくね…ありがとう、お父さん」
そうして、美月の父は美月を乗せ家へ戻っていった。
◇
高山と美月が喫茶店「樹」を訪れた、数日後のこと。
「あれ? 美月さん…?」
リサが近くのコンビニで買い物を済ませた帰り道、通りの向こうにある居酒屋へ入っていく男女のグループを見かけた。その中に美月の姿があった。
(大学のサークル仲間かな?)
胸のどこかに小さな胸騒ぎを覚えつつも、その時は深く気に留めなかったリサだった。
◇
「えー、それでは!多大学交流サークルの秋季イベントの打ち上げを、開始しまーす!カンパーイ!」
「カンパーイ!!」
居酒屋で始まったのは、美月が入ったサークルの打ち上げを名目にした宴会だった。
美月は、入会を勧めた友人の瑠衣に引きずられるようにして参加していた。
「瑠衣ちゃん、私、こういうの初めてだから、どうしたら…」
「大〜丈夫よ!ハイ皆、注目!!」
突然、大声を張り上げて瑠衣が立ち上がった。
「え?」
「何々?」
突然の行動に驚く一同。
「この子は美月!彼氏持ちだから、男共は、絶対手を出すんじゃないよ!分かった!?」
「ち、ちょっと瑠衣ちゃん!」
「こうしておけば、大丈夫よ♪じゃ、私は隆史の所に行ってくるね〜」
瑠衣は美月をその場に置き去りにして、さっさと自分の彼氏のもとへ行ってしまった。
「も〜…」
取り残されてしまった美月。しかし、悪目立ちした分だけ、好奇の目を向けた男子達が吸い寄せられるように集まってきた。
「へー、君、美月ちゃんって言うんだ」
「可愛いねー」
「そりゃ彼氏も出来るよね」
「あ、あの…(何だか…怖い、章、助けて)」
見知らぬ男性たちの視線に晒され、大人しい彼女の心は恐怖で小さく震えていた。
「ねーねー、僕らと一緒に飲もうよ!」
「わ、私、…お酒とかダメだから…」
「大丈夫、大丈夫」
「あの…やめて、下さい」
「止めろよ、お前ら。彼女嫌がってんじゃんか」
「え?」
低い声が割り込み、強引に距離を詰めようとした男子達の動きが止まった。
「瑠衣ちゃん、ちゃんと一緒にいてやんなよ。彼女連れてきたの瑠衣ちゃんだろ?」
「ご、ごめーん美月」
その男性の一言に押され、慌てて瑠衣が戻ってきた。
「大丈夫だね?それじゃ」
「あ…」
美月がお礼を言う間もなく、その男性は煙のように自分の席へと戻っていった。
「おー、怖…秋人先輩がケンカ強いの皆知ってるから、誰も言い返せないよ」
瑠衣が肩をすくめ、耳元で囁いた。
「秋人…先輩って言うの?あの人」
「そ!何か元暴走族だったって噂だよ」
「元暴走族?そんな風には…」
「だってあの茶髪であの格好だよ?皆一目置いてるけど、怖くてあんまり近寄らないのよ。美月も気を付けなよ?」
「うん…分かった…でも…」
美月には、自分を恐怖から救い出してくれたその背中が、決して冷酷な人には見えなかった。
それから2時間後――。
「それじゃあ、このへんでお開きにしま~す」
「二次会行く人〜」「はーい」
宴が終わり、美月は逃げるように店の外へ出た。
夜風が肌を刺す午後8時過ぎ。
「瑠衣ちゃんは、彼氏と二次会か…」
ぽつりと呟き、スマホの画面を見つめる。通知もLINEも、一通も届いていなかった。
「章…まだ、お仕事中だよね…」
分かっている。彼が自分の青春を削って汗を流しているのは、二人の未来のためだ。
「…でも、やっぱり」
楽しそうに手を繋ぐカップルとすれ違うたび、胸の奥に冷たい寂しさが冷害のように広がっていく。
「…あれ?」
「あ…秋人…先輩?」
「何だ、瑠衣ちゃんやっぱり君のこと置いて行ったのか!」
店から出てきた秋人は、あからさまに不機嫌な顔をしていた。
「あ、でも大丈夫です。も、もう帰りますから…」
噂を思い出し、身をすくめる美月。
「…ちょっと待った」
「は、はい?」
「俺の事、瑠衣ちゃんに何か吹き込まれた?」
「え?べ、別に何も…」
「あいつ〜!…悪いけど君、ちょっと付き合って!」
「え!?え〜っ!」
抗う間もなく、秋人は強引に美月の腕を引き、駅前の喫茶店へと連れ込んだ。
「…だから、俺は暴走族なんかじゃない!ただの車好きなんだ!」
「は、はあ…」
「…君にだけは、変な誤解をされたくなかったんだよ」
「?」
秋人は目を逸らさず、真剣な眼差しで美月を見ていた。
「でも…瑠衣ちゃんが、こんな派手な格好してるからって…」
「あぁこのスカジャン?俺は横須賀出身だからね!」
誇らしげにスカジャンの刺繍を見せつける秋人。
「横須賀っ子なら、ここ一番って時はスカジャンなんだよ!」
「ここ一番?今日の打ち上げが?」
「ああ!今日みたいに好きな娘と話ができるチャンスは……あ…」
「好きな娘?」
「あ…あーあ、…彼氏がいるって言ってたから、絶対に隠し通そうと思ったのに…」
「ふふっ」
テーブルに頭を打ち付けて悶絶する秋人を見て、美月の緊張がふっと解けた。
「えーい!玉砕覚悟だ!美月ちゃん!俺と付き合って下さい!」
「ごめんなさい。お気持ちはすごく嬉しいのですが、私には大切な彼がいるので、お応えできません」
美月はまっすぐ目を見つめ、はっきりと拒絶した。
「だよねー(泣)」
「でも、…今日は助けてくださって、本当にありがとうございました。先輩が噂通りの怖い人じゃないって分かって良かったです。サークルの仲間として、これからもよろしくお願いします」
「え…あ、分かった…じゃ、じゃあ俺は、美月ちゃんの兄貴分を目指すよ!」
「兄貴分?」
「そう!彼氏がダメなら、可愛い妹を守る兄貴!これなら文句ないだろ?」
「ふふっ、考えておきます♪」
その時、バッグの中でスマホが甲高い振動音を立てた。
「あ!章だ!」
「…彼氏?」
「はい、えっと紅茶の代金を…」
「いいよ、俺が無理矢理引きずり回したんだから」
「すみません、それじゃ!…もしもし章?…」
愛しい人の声を一刻も早く聴きたくて、弾むような足取りで店を飛び出していく美月。
秋人は去っていく背中を指をくわえて見送るしかなかった。
「…あんな顔で、男の名前呼ぶんだな…くそっ!」
抑え込もうとすればするほど、胸の奥で黒い敗北感と愛おしさがうねりを上げた。
「…冗談じゃない…あんな顔見せられたら…本気になっちまうだろ…」
◇
美月は、女子大の最寄り駅に向かう電車の中にいた。
(今日は雨…冷たくて、なんだか気持ちまで沈んじゃうな。駅から学校まで歩いたら、お気に入りのスカートが泥で汚れちゃう…)
濡れた車窓の外を眺めながら、美月は重い溜息をついた。
「美月ちゃん!」
「先輩!?どうしたんですか?」
「どう?俺の愛車!学校まで送るよ!」
改札を抜けると、雨の中に横付けされた車の中から秋人が手を振っていた。
「…先輩、私、お付き合いはできないって…」
「分かってるって!妹が雨に濡れそうだから迎えに来ただけだ!」
「ふう…まだ『お兄ちゃん』なんて認めてないですよ?」
「まあまあ!堅いこと言わないで、瑠衣ちゃん達も乗せるからさ!」
冷え込む雨の中、温かい車に乗せてもらえる誘惑には勝てなかった。
「…じゃあ、瑠衣ちゃんが来たら一緒に乗ります」
「分かった、そうしよう」
しばらくして、雨を避けるように走ってきた瑠衣が階段を降りてきた。
「あれ〜美月!?どうしたの?」
「瑠衣ちゃん、秋人先輩が車で学校まで送ってくれるって言って…」
「ホント!?ラッキー!乗せて乗せて!」
「え?瑠衣ちゃん?」
秋人に近づくなと注意していた張本人が、あっけらかんと助手席に乗り込むのを、美月は呆然と見送った。
「美月〜!早く乗って!遅刻するよ!」
「あ!はい!」
助手席から聞こえる瑠衣の声を後押しに、美月は後部座席へと乗り込んだ。
それが、すべての狂い始めだった。
雨の日だけのつもりが、
晴れの日も、
放課後も、
秋人の車が彼女の日常を塗り替えていくようになり――。
◇
「ただいま〜、買い物行ってきたよ~」
リサが喫茶店「樹」の扉を開けると、重苦しい空気が漂っていた。カウンターの奥で翔子とシャロンが険しい顔で囁き合っている。
「美月さんが…」
不穏なワードを聞きつけ、リサは眉をひそめた。
「美月さんなら、この間、大学生っぽい人達と居酒屋に入っていくところを見かけたよ?」
「そうなんだ…」
いつになく翔子の口調が重い。
「なに? どうしたの二人とも?」
「実は…この間、駅で知らない男の人と親しそうに車に乗る美月さんを見かけちゃって…」
「相手は高山先輩じゃなかったの?」
「うん……いかにも遊び慣れてそうな大学生って感じで…」
「ねえ、それって…もしかして」
二人の会話を黙って聞いていたシャロンが、深く息を吐き出した。
「シャロンさん、いつもなら『人を疑うのはやめなさい』って叱るのに…」
「う…実は私も、見てしまったのよ」
シャロンも以前、駅前の喫茶店で高山ではない見知らぬ青年と、距離を詰めて話している美月の姿を目撃していたのだった。
「これは…高山さんには、黙っていた方が良い、わよね…?」
客の私生活に口を挟むべきではない。
けれど、愚直なまでに「樹」を愛し、真面目に働き続ける高山の苦労を知る彼女たちにとって、それは胸を刺されるような事実だった。
悩み抜いた末、シャロンは店を訪れた高山へ、隠しきれなくなった懸念を静かに打ち明けた。
「ああ、そのことなら彼女から聞いてます」
「え? そうなんですか?」
高山は痛みを噛み殺すように、柔らかな笑みを浮かべて頷いた。
美月は大学での出来事を、罪悪感を消すかのように彼へ報告していたのだ。サークルの先輩に告白されたことも含めて。
「『彼氏がいるからハッキリ断ったの。だから安心して? 今はただのサークル仲間だから』って言ってくれました」
「…そうですか」
「で、でも高山先輩…!」
納得のいかないリサを、翔子が悲しげに制した。
「…先輩は、美月さんを信じる…そう決めたんですね」
「…彼女の言葉に嘘はない。僕は、美月を信じるよ」
真っ直ぐで不器用な瞳でそう断言する高山に、誰もそれ以上、言葉を投げかけることはできなかった。
確かにあの日、美月の言葉に嘘はなかった。
しかし――人の心は、静かに、そして確実に移ろっていく。
「秋人先輩、家まで送ってくれて、ありがとうございます」
「ああ、美月ちゃんまた明日!」
明日は、どの服を着ていこうかな♪
…あれ?
明日は章と会える日じゃないのに…
なんで私、こんなに胸が跳ねてるの…?
自分の部屋で服を選びながら、美月は不意に全身の血が引くような寒気に襲われた。
毎日、自分を特別扱いし、情熱的な熱量を注いでくれる秋人に、自分の心が甘やかに侵食されている事実に気づいてしまったのだった。
◇
「わ〜、綺麗…」
大学の帰り道、秋人は美月を横浜の夜景が一望できる港の公園へ連れ出した。イルミネーションの光が海面に揺れている。
「あ…章」
バッグの中でスマホが震えた。画面に表示された「章」の文字に、心臓が跳ね上がる。
『今日は仕事が早く終わったんだ!これから少しでも会える?』
「ごめん、今日は…横浜までサークルの先輩と来てるの…」
『えっ?そう…』
「あ、だけどね、女性の先輩だから…心配しないで…」
ズキン、と胸の奥が引きちぎられるような痛みに襲われた。
『うん、分かってる。僕は美月を信じるよ』
ズキン…ズキン…
息が詰まる…私、章に息を吐くように嘘をついてる…
「…美月ちゃん、なんで彼氏に嘘をついたの?」
隣に座る秋人の声は、夜の静寂に低く響いた。
「…章に、余計な心配をかけたくないから…」
…これも嘘。傷つけたくないんじゃない。
嘘をついてまで、私…この人とここにいたかったんだ…
「先輩、私…やっぱり章を裏切れません…もう会うのは…」
「裏切り?こうやって綺麗な景色を一緒に見てるだけなのに?」
「…」
「俺といると楽しくないのか?」
「楽しくないわけないじゃないですか!…でも…だから苦しいんです!」
「彼を裏切ってるみたいだから?」
「…そうです!自分が恐ろしいんです…っ!」
美月は口元を押さえ、震える声で叫んだ。
秋人はハンドルを握る手に爪が食い込むほど力を込めた。
胸の奥で、ドロドロとした嫉妬と凄絶な焦燥感が渦巻いていた。
彼氏がいると知りながら掠め取ろうとしたのは自分だ。
妹分という免罪符を盾に、彼女の日常を侵食したのも自分だ。
だが、目の前で別の男のために涙を流す彼女を見るたび、狂いそうなほどの痛みが秋人を苛んでいた。
「美月ちゃん…君が本気で俺を拒絶するなら、俺は今すぐ消えてやる。でも…」
秋人は美月の細い肩を強く掴み、逃げ場を塞ぐように瞳を覗き込んだ。
そこには強がりなど微塵もない、一人の男としての剥き出しの哀願が宿っていた。
「そんな顔で泣いて、俺の胸をかき乱すなら…美月。俺は、章って奴から、お前を力ずくでも奪い取る」
「…あ……秋人先輩…」
あまりの熱量に射抜かれ、美月は拒絶の言葉を喉の奥で詰まらせた。
◇
その月は、美月の誕生月だった。
『もしもし美月?』
「あ、章」
『中々スマホに出ないから、心配したよ』
「ごめんね、ちょっと片付けをしてて…」
『そう…何かあったの?元気ないみたいだけど。』
「何もないよ!ちょっと、疲れちゃっただけ…」
『片付けが、大変なの?』
「うん…色々整理しないと、ダメだから…私。」
『そうだっけ?ちょっと意外だな』
「私にだって、まだ章の知らないところはあるよ?」
『そうか…そうだよね』
「章…お仕事は、忙しい?」
『そうだね、早く一人前になりたいよ』
「うん…」
『でも、美月の誕生日は、ちゃんと時間取ってあるから』
「うん、ありがとう…章」
『…もうすぐだね、美月の誕生日』
「うん…」
『待ち合わせは、あの駅にしないか?』
そこは、高校時代、毎日二人で夕焼けを見ていた思い出の場所――。
『美月?』
「うん…いいよ…あの場所で」
『そう…それじゃあ、おやすみ。美月、愛してるよ』
「…うん…私も…」
美月は通話を切った。
「…章………っ!」
美月の心は、罪悪感で押し潰されそうだった。
高山は、美月との通話を終えた後、日記帳を手に取った。
「…大丈夫…大丈夫だ……逢えば…逢えさえすれば…」
それは美月が「私のすべてを知ってほしい」と気恥ずかしそうに高山へ託した一冊の日記帳だった。
「僕が、美月を信じると決めたんだから…」
◇
美月の誕生日当日。
高山は約束の時間の1時間前から、冷たい風が吹き抜ける駅の前で彼女を待っていた。
しかし、針がどれだけ進んでも、美月が姿を見せることはなかった。
夜が深く沈み込んだ頃、絶望に耐えかねた高山は、震える指で美月の番号を呼び出した。
「…なんで今日、来てくれなかったの…?」
『…ごめんなさい…ごめんなさい…っ』
スマホの向こうから聞こえるのは、呼吸もままならないほどの美月の哭泣だった。
その日、大学の出口で待っていた秋人に腕を掴まれ、美月は立ち尽くしていたのだ。
『美月、頼むから行かないでくれ!あの男のところへ行くなんて耐えられない!行かせない!』
『…秋人先輩…お願い…離して…章が待ってるの…っ!』
振り払おうとする美月の手には、恐ろしいほど力が入っていなかった。
口では拒みながら、心の奥底では「この強引な熱量で私を連れ去ってほしい」と望んでしまっている己の醜悪さに、美月は身が引き裂かれるような自己嫌悪を抱いていた。
『嫌だ!絶対に渡さない!』
体に回された秋人の腕の強い力強さと温もりに包まれた瞬間、高山と重ねてきた温厚で穏やかな時間が、色褪せた過去のように遠のいていった。
彼女はその腕を、最後まで振り払うことができなかった。
「僕は美月を信じて、ずっと待っていたのに…」
『なんで…!なんで待つだけなの!? …あなたがもっと強引に私を奪ってくれたら…っ!』
ずっと優しかった章。
忙しさにすれ違っても、怒ることすら知らず「信じる」と微笑むだけだった章。
その聖人のような優しさに守られていたはずなのに、今の美月にとってその優しさは、自分を絞め殺す重い鎖でしかなかった。
「美月…?」
『…ごめんなさい…私、自分が恐ろしいの…こんな風になっちゃうなんて…っ』
美月は暗闇の中で確信してしまった。自分の心はもう、高山の優しい手元にはない。
秋人が撒き散らす不器用で暴力的なほどの愛熱に、完全に屈してしまったのだと。
「…美月、はっきり聞かせてくれ」
『…私……私は、あの人が好きです……ごめんなさい……ごめんなさいっ……!』
「!…分かった。もういい」
プツリと、無機質な切断音が響いた。
高山は静かにスマホを置いた。
スマホ越しに伝わってきた彼女の絶望的な泣き声が、脳裏から離れない。
これ以上、自分が彼女を追い詰める存在になりたくなかった。
何が悪かったのか。
引き裂いた男か、
心を移した美月か、
それとも守り切れなかった自分自身か。
明かりの消えた部屋で、高山は膝を抱え、闇の中で血を吐くような自問自答を繰り返した。
◇
秋人と美月は、深夜の海岸沿いに車を止めていた。
「…美月」
「………やめて、秋人先輩」
高山と別れ、美月は秋人の恋人となった。
しかし――。
「…俺達、付き合ったんだろ? なんで触れることすら拒むんだよ…」
「…ごめんなさい…お願いだから…」
秋人が手を伸ばすたび、美月の脳裏には高山の泣き出しそうな笑顔がフラッシュバックした。
激しい罪悪感が胃を焼き苛む。
「もう少しだけ…私の中から章が消えるまで…『嫌いになった』と言えるまで…待って…」
自分勝手な願いだと知りながら、美月は震えて泣いていた。
◇
一週間後。高山は静まり返った美月の実家の前に立っていた。
「美月なら出かけたけれど、一緒じゃなかったの?」
「…そうですか」
「高山さん、美月と何かあったの? あの子、最近部屋に閉じこもったまま何も話してくれなくて…」
何を聞いても答えてくれない娘を案じていた母親が、縋るような目で高山を見つめる。
高山は胸を刺される痛みに耐えながら、言葉を絞り出した。
「…これを、美月さんに渡していただけますか?」
「え?」
差し出されたのは、美月の日記帳だった。
そこには二人が歩んだ青春のすべてが、純粋な言葉で刻まれていた。
初めて手を繋いだ日、挫けそうになった時に抱きしめ合った日、そして、愛を確かめ合ったあの夜のことも。
『「小さな手…俺が守っていかなきゃな」と章は私に言ってくれた。その言葉があれば、私達はどんなことだって乗り越えられる。』
彼女の真実の選択を尊重したい。
だが、裏切られた痛みを抱えたままでは、もう二度とこのページを開くことはできない――。
それが、高山が絞り出した最後の誠意であり、決別だった。
「すみません…失礼します」
丁寧に包装された日記帳を母親の手へ託すと、高山は深く頭を下げ、崩れ落ちそうになる足を激咤してその場を去った。
(願わくば…美月が自分を偽らず、お母さんにすべてを打ち明けられますように…)
高山はそのまま、美月の通学路である駅の改札へと向かった。
最後の決着をつけるために。
「待ち伏せなんて…惨めだな、僕も…」
自嘲の笑みが漏れる。
けれど、こうでもしなければ、もう彼女の瞳を見つめることすら叶わないのだった。
冷え込む夜の駅前で、何時間立っただろうか。
「あ…」
聞き慣れた足音に顔を上げると、改札の向こうから、秋人に寄り添うように歩いてくる美月の姿があった。
「あの…少し、いいですか?」
高山の姿を認め、先に制するように声をかけてきたのは秋人だった。
「ここでいいか?」
高山は二人を、駅の裏手にある誰もいない街灯下の駐車場へと誘導した。
凍てつく空気が三人を包み込む。
「…お前…どういうつもりだ」
高山は感情を押し殺した、冷徹な声で秋人を射抜いた。
「俺は…俺は美月を本気で愛しています!」
「…」
「あなたという彼氏がいると知った上で…どうしても諦められなかった! 卑怯だと言われても、俺には美月が必要なんです!」
「お前…!」
高山の手が跳ね上がり、秋人のスカジャンの胸元を激しく掴み上げた。
「…俺が! 俺が彼女を絶対に幸せにしますから!」
「ふざけるな…このっ!」
バキッ!!
凄まじい肉のぶつかる音が響いた。
高山の硬い拳が、秋人の右頬を痛烈に打ち抜いた。
こんな暴力を振るったところで、美月の心が自分に戻るわけではない。
そんなことは痛いほど分かっていた。
だが、削り取られてきた時間、破られた誓い、理不尽な絶望が怒涛となって溢れ出し、抑えがきかなかった。
高山が、生まれて初めて人に振るった暴力だった。
「…俺の言いたいことは、それだけです」
秋人は口から血を流しながらも、一切反撃しようとはせず、高山の拳を真っ正面から受け止めていた。
殴られることでしか贖えない罪だと、分かっていたからだった。
「俺が…どれだけ…!」
どれほど必死に働き、どれほど彼女との未来を夢見ていたか。
血を吐くような叫びが喉まで出かかった瞬間、高山の視界に入ったのは、両手で口元を覆い、しゃくりあげて泣き崩れる美月の姿だった。
――ああ、
もう、僕たちの愛した時間は終わったんだ。
残酷なまでの確信が、高山の心臓を深々と貫いた。
それなら――。
「俺は…美月の口から、直接『別れ』を聞いていない」
高山は、自分が美月にとって「過去の自分を責め続ける呪い」になることだけは避けたかった。
「…美月。もう、この人のことは『嫌いになった』んだろ?」
秋人が美月を見つめ、静かに促した。
だからこそ、高山は彼女自身の言葉で引導を渡してほしかった。
彼女が一生罪悪感の毒に苛まれないために。
逃げずに自分の選択を背負い、未来へ歩き出せるように。
「………さよなら………ごめんなさい……っ!」
夜の駐車場に、絞り出すような美月の慟哭が響き渡った。
今にも消えてしまいそうな、けれど明確な決別の言葉だった。
「…分かった」
高山は溢れそうになる涙を必死に噛み殺し、秋人に向き直った。
「…殴って悪かった。…彼女を頼む。本当に………頼んだぞ」
絞り出すように告げると、高山は一度も振り返ることなく、闇の中へと消えていった。
「美月…」
「…秋人、お願い…私を抱いて…」
「何を言って…」
「お願いだから! 私の中から…章を消して! 章の匂いも、触れられた記憶も、全部…全部消し去って!!」
狂気のような泣き叫びとともに、美月は秋人にしがみついた。
その夜、
二人は互いの傷を埋めるように激しく結ばれた。
◇
街灯の光が夜露に濡れたホームを淡く照らしていた。
ファーン…キー…プシュー
『✕✕駅〜、✕✕駅〜、お乗り換えの方は…』
夜の駅のホームにアナウンスが虚ろに響き渡った。
乗り降りする人は疎らで、ホームのベンチに腰掛けているのは高山ただ一人だった。
美月たちと別れた後、彼はベンチに座ったまま、闇を切って入っては出ていく電車を呆然と眺め続けていた。
「…俺は…何を間違ったんだろうか…」
美月を失った。
怒りと、悲しみと、破られた誓い
削り取られてきた時間、理不尽な絶望…
さっきまで胸を焼き尽くしていた激しい感情は、今はもう途切れ、何も感じなくなっていた。
高山にとって、美月が世界の全てだったのだと、冷え切った空気が改めて突きつけてくる。
「…もう、俺には何も残っていない」
寮に帰る気にはなれなかった。
いっそこのまま消えて無くなりたかった。
本気で死にたいと思った。
目の前を、漆黒の風を切り裂いて特急列車が通過していった。
ほんの数メートル歩き出せば、死はすぐ手に入る。
「…だめだ」
言葉が掠れた。
今自分が死んだら、美月は生涯その重荷を背負い、自分を責め続けるだろう。
『彼女が一生罪悪感の毒に苛まれないために。
逃げずに自分の選択を背負い、未来へ歩き出せるように。』
そう思って手放した決別が、すべて無意味な呪いへと変わってしまう。
「…死ぬより辛い選択を、俺はしたんだな…」
ホームに滑り込んできた電車の扉が開く。
高山は重い身体を起こして立ち上がり、ゆっくりと車内へ足を踏み入れた。
もうここには…美月の近くには居てはいけない。
ただそれだけを胸に刻んで。
夜の静寂が広がる路地の奥で、冷たい風が吹き抜けていた。
何処をどう歩いて来たのか、気がついた時には、高山は喫茶店「樹」の近くにある静かなバーの前に立ち尽くしていた。
「酒か…」
飲めば少しは気が紛れるのだろうか。
高山は吸い込まれるように店内へ入り、バーのカウンターで強い酒を煽った。
「…何の味もしない」
二杯、三杯と立て続けにグラスを空ける。
「…酔えない…何の味もしない…」
美月と一緒に食べたモンブランの甘さや、シャロンの淹れてくれた温かい珈琲の味はあんなに鮮明に覚えているのに、目の前のアルコールはまるで冷たい泥水のようだった。
「何だよこの酒!もっと強いヤツ出せよ!」
高山はさらに強い酒を注文し、それを飲み干した。
そして、意識が闇に落ちるまで飲み続けたのだった。
◇
「ただいま…」
「美月!こんな時間までどこに行っていたの!?」
玄関で待ち構えていた母親の声に、美月は虚ろな目で俯いた。
「…ごめんなさい…」
「ふう…高山さんがね…今日、家に来たのよ…」
「章が…?」
「…これを、あなたに渡してほしいって」
母親の手にあったのは、あの丁寧に包まれた日記帳だった。
受け取り、震える手でページをめくると、あの日々の記憶が鮮烈に蘇った。
高校時代の駅のベンチ、二人で分け合ったアイス、商いの街並み、そして――。
『「小さな手…俺が守っていかなきゃな」と章は私に言ってくれた。その言葉があれば、私達はどんなことだって乗り越えられる。』
その一文を目にした瞬間、美月の膝から力が抜け、その場に崩れ落ちた。
高山は最後の瞬間まで自分を信じ、約束を守ろうとしてくれていた。
身を粉にして働いていたのは、自分との未来のためだった。
それを裏切り、身勝手な寂しさに負けて踏みにじったのは、自分自身だった。
(そうだよね、章…あなたは最後まで私を愛してくれたのに…私、なんてことを…っ!)
「お母さん…っ! ごめんなさい…お母さん、私…私っ…!」
「美月…何があったの…」
床に伏し、血を吐くような声で泣き叫びながら、美月は己の弱さと、取り返しのつかない罪をすべて母親に打ち明けた。
(さよなら章…ごめんなさい…私をあんなに温かく愛してくれて、本当に…ありがとう…)
◇
コンコンコン。
「ん?」
営業を終え、消灯した喫茶店「樹」の扉が、不吉な音で叩かれた。
「誰かしら?」
片付けをしていたシャロンが用心深く覗き窓を覗く。
「シャロン、開けてクダサイ! 手伝っテ〜!!」
「え!? お父さん!?」
そこにいたのは、意識を失った青年を必死に担ぎ上げているジャンだった。大慌てで鍵を開けると、冷気とともに二人が滑り込んできた。
「お父さん、一体どうしたの…って、高山さん!?」
「バーで倒れてイタネ…死ぬ気かと思うホド、強い酒を煽ってマシタ…」
「そんな…」
ジャンに担がれた高山の顔は蒼白で、目からは溢れ出た涙が耳元へと流れていた。
「俺は…美月の手を…守ると誓った美月の手を…放してしまったんだぁぁっ…!」
うわ言のように繰り返される悲痛な叫びに、シャロンは胸を突かれ、口元を押さえた。
どのような地獄のような決別を経てきたのか、聞かなくとも察することができた。
「静かに休ませてあげまショウ…今夜はワタシの部屋デ…」
ジャンは痛みに耐えるように高山を奥の部屋へ運んで行った。
翌朝、目を覚ました高山は、虚ろな目で「ご迷惑をおかけして、本当にすみませんでした」と深く頭を下げ、影のように去っていった。
◇
「高山先輩と美月さんが…別れた!?」
「そうみたいなの…」
「あんなに、あんなに大切にし合っていたのに…!?」
翌日、シャロンから事の顛末を聞かされた翔子とリサは絶句した。
「やっぱり…美月さんが浮気したのかな…」
ぽつりと呟いたリサに、翔子は切なく首を振った。
「…浮気なんて生易しいものじゃないよ。本気で心が移ってしまったから…一人しか選べなかったのよ…」
「ええ。二人とも遊びで誤魔化せるような性格じゃないもの…だからこそ、余計に苦しいのね」
シャロンも悲痛な面持ちで同意する。
だが、リサは激しい憤りを隠せなかった。
「冗談じゃないよ! 酷すぎる…! 高山先輩がどれだけ美月さんを思って働いてたか! 裏切りじゃない! あたし、絶対に許せない…っ!」
「リサちゃん…」
「許せないよ…こんな残酷なことってある!? あたし…っ」
溢れ出す涙を堪えきれず、リサは叫ぶように吐き捨てると、化粧室へと駆け込んでいった。
「ふぅ…リサ、傷ついたのね…」
溜息をつく翔子に、シャロンが問いかけた。
「翔子ちゃんは…どう受け止めているの?」
「…私だって、リサと気持ちは同じですよ…でも…これ以上高山先輩が美月さんに執着していたら、二人とも罪悪感と後悔で潰れてしまう…幸せには、なれないと思うんです…」
「ええ…辛すぎる結末だけど…互いに傷を血が流れるまで晒し合って、ちゃんとお別れできた。だからこそ…いつか二人は前を向けるわ。きっとね」
シャロンは、かつて二人の温かな笑顔が咲いていた、誰もいない窓際のテーブル席を静かに見つめた。
どれほど時がかかろうとも、二人の魂が救われる日が来ることを祈らずにはいられなかった。
◇
それから、悠久とも思える長い年月が流れた。
5年後、傷の癒えきらない高山の前にも、奇跡のように温かな相手が現れた。
転勤先での遠距離恋愛を実らせ、彼は結婚した。
10年後にはささやかなマイホームを建て、20年後には愛くるしい娘を授かった。
そして、40数年後――。
彼は今、間違いなく幸せの中にいた。
定年退職を迎えた高山は、白髪の混じった妻と成長した娘を連れて、久しぶりに東京の地を踏んでいた。
「まだ…残っていてくれたんだな…」
東京の下町。
路地の奥にひっそりと佇む喫茶店「樹」の前に、高山は立ち尽くしていた。
あの日、あまりの情けなさに店へ迷惑をかけて以来、怖くて一度も近づくことができなかった場所。
使い込まれた看板。
窓越しに見えるのは、かつて若き日の自分が、命よりも大切な少女と身を寄せ合っていた、あの窓際のテーブル席だった。
「…美月…君もきっと…幸せになっているよね…」
風に溶けるようなかすかな声で、高山は祈るように呟いた。
己の青春を切り裂いた激痛も、今では愛おしい人生の結晶となって胸の奥に眠っている。
「あなたー、お待たせ!」
「パパ見てよ、ママったらまた服買っちゃったのよ」
「いいじゃない、せっかくの東京旅行なんだから」
「ハハハ…よし、じゃあ、家へ帰ろうか」
愛する妻と娘の屈託のない笑顔に囲まれ、高山は温かな家族の手をしっかりと握り、夕暮れの街並みへと歩き出していった。
〜〜「樹」特製モンブランのレシピ〜〜
シャロンが心を込めて淹れる珈琲や紅茶に調和する、栗本来の豊かな香りとほのかなラム酒が香る大人のクラシック・モンブランです。
【材料】(4個分)
・メレンゲ(土台)
卵白:1個分
グラニュー糖:30g
パウダーシュガー(粉糖):20g
・マロンクリーム(外側)
サバトン マロンペースト:150g
無塩バター(常温):20g
生クリーム(35%):30ml
ラム酒❨マイヤーズなど❩:小さじ1
・ホイップクリーム&栗(中身)
生クリーム(45%):120ml
砂糖:8g
栗の渋皮煮、またはマロングラッセ:4個(中に包む用)+4個(トッピング用)
・仕上げ
溶けない粉糖:適量
【作り方】
* メレンゲを焼く(土台)
・ボウルに卵白を入れ、グラニュー糖を数回に分けて加えながらしっかりと角が立つまで泡立てます。最後にパウダーシュガーを加えて軽く混ぜ合わせます。
・丸口金をつけた絞り袋に入れ、天板に直径約4cmの円状に4個絞り出します。
・100℃に予熱したオーブンで約60〜90分、サクサクになるまで乾燥焼きし、冷ましておきます。
* マロンクリームを作る
・柔らかくしたマロンペーストと無塩バターをボウルに入れ、ゴムベラで滑らかになるまでよく練り混ぜます。
・生クリーム(35%)とラム酒を少しずつ加え、ダマにならないよう全体を均一に伸ばします。モンブラン用口金をセットした絞り袋に入れます。
* 中身の組み立て
・生クリーム(45%)に砂糖を加え、8分立て(少し固め)に泡立てます。
・冷ましたメレンゲの上にホイップクリームを少し絞り、中央に栗の渋皮煮を1個載せます。
・その上から栗を覆い隠すように、山型(ドーム状)にホイップクリームを絞り、パレットナイフ等で形を整えます。
* 仕上げ
・ドーム状のクリームの周りに、下から上へ渦を描くようにマロンクリームを隙間なく丁寧に絞り掛けます。
・てっぺんに栗の渋皮煮、またはマロングラッセを1個載せ、上から雪に見立てた粉糖を優しく振りかけて完成です。
シャロンからのひとこと
「マロンペーストに合わせるラム酒を少しだけ効かせるのが『樹』のこだわりです。
甘すぎないホイップクリームと、サクサクのメレンゲの食感のコントラストをお楽しみくださいね。
ブレンドコーヒーはもちろん、ロイヤルミルクティーとも相性抜群ですよ。」
◇エピローグ◇
オレンジ色の夕暮れが少しずつ濃い紫へと溶けていく頃。
カランカラン…と、再び「樹」のドアのカウベルが可憐な音を立てた。
「いらっしゃいませ」
カウンターでカップを拭いていたシャロンが、穏やかな声で迎える。
「おばあちゃん、ここ? おばあちゃんが昔よく来てたカフェって!」
「そうよ。昔と…少しも変わっていないわね」
店に入ってきたのは、白髪交じりの上品な身なりの女性と、高校生くらいになる彼女の孫娘だった。
女性の顔立ちには、かつて窓際の席で可憐に微笑んでいた、あの少女の面影が色濃く残っていた。
美月だった。
あの日、高山と決定的な決別を果たした後の二人の歩みは、決して平坦なものではなかった。
激しい感情のぶつかり合いの中で、罪悪感に押し潰されそうになった美月が「私と一緒にいても、あなたを幸せにできない」と秋人の手を放そうとしたことも一度や二度ではなかった。
けれど、そのたびに秋人は彼女の肩を強く抱きしめ、真っ直ぐに瞳を見つめて言い聞かせたのだった。
『俺はあの男に殴られたんだ。……『彼女を頼む』って、そう託されたんだよ。
俺たちが幸せにならなきゃ、あいつの流した血も涙も、全部無駄になるんだろ!?
逃げるな美月、俺と一緒に幸せになるんだ!』
高山に殴られた右頬の痕を見るたび、秋人はあの冷たい駐車場で交わした男の誓いを思い出し、美月を愛し抜く覚悟を新たにした。
そして美月もまた、自分を深く愛し、身を引いてくれた章のためにも、二度と自分の心から逃げないと誓ったのだった。
ぶつかり合い、傷を舐め合いながらも絆を深めた二人は、やがて結婚し、子供を育て上げ、長い歳月を添い遂げてきた。
「おばあちゃん、どの席にする?」
「そうね…あそこの、窓際の席にしましょうか」
空いていた窓際のテーブル席へと歩を進め、美月はそっと椅子に腰を下ろした。
窓から見える街並みは40数年前とはすっかり様変わりしていたが、この席から見る景色の温かさだけは昔のままだった。
「お待たせいたしました」
お冷を運んできたシャロンは、美月の顔を静かに見つめると、懐かしいものを見るように目元を和ませた。
「…お久しぶりですね、美月さん」
「…シャロンさん。お変わりなくて…驚きました」
美月は胸を詰まらせながら、小さく頭を下げた。
「おばあちゃん、ここに来たら何を食べたらいいの?」
孫娘が無邪気にメニューを覗き込む。
「そうね…『樹』に来たら、モンブランがお勧めよ。甘すぎなくて、とても美味しいの」
「わあ、じゃあ私モンブランとミルクティー!」
「私はロイヤルミルクティーをお願いします」
注文を受け取り、奥へと戻っていくシャロンの背中を見送りながら、美月はそっと窓の外を眺めた。
さきほど店に入ってくる手前、夕暮れの街並みの中を、温かそうな家族連れが歩いていく後ろ姿を見かけた気がしていた。
白髪の混じった紳士が、優しそうに奥様の手を握り締め、娘さんと笑い合いながら去っていく後ろ姿を。
(…章)
それが誰だったのか、確証はなかった。
けれど、美月の胸の奥には、不思議とあたたかな確信が満ちていた。
自分を深く愛し、愚直なまでに守ろうとしてくれた青年。
自分の弱さゆえに深く傷つけ、それでも最後は笑って去っていった大切な人。
あの日渡された日記帳は、今でも美月の宝物として大切に仕舞われている。
自分が愚かな過ちを犯しそうになった時、誰かを傷つけそうになった時、いつもあの日記帳の言葉が美月の踏みとどまる光となっていた。
(章…あなたも今、幸せですか? あなたの優しい手が、温かな誰かの手をしっかりと握り締めていてくれますように…)
やがてテーブルに運ばれてきたモンブランを一口含み、美月は目を細めた。
口の中に広がるほんのりとしたラム酒の香りと栗の風味が、切なくも甘い青春の記憶を優しく包み込んでいく。
「おばあちゃん、美味しいね!」
「ええ…とても、美味しいわ…」
窓からの夕陽が、美月の目元に浮かんだ一筋の透明な雫を、キラリと黄金色に輝かせていた。
あの日、互いに流した血と涙は無駄ではなかった。
二つの道に分かれた人生は、それぞれに豊かな幸せの結晶を結び、40数年の時を経て、この「樹」の窓際で静かに満たされていたのでした。
〜 エピソード神無月 窓際のテーブル席の恋人達 NORMAL END 完 〜
あとがき
「シャロンの喫茶店」 エピソード神無月 窓際のテーブル席の恋人達 NORMAL END を最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
この物語は、若さゆえのすれ違い、誰かを深く愛するがゆえの苦悩と不器用さ、そして訪れてしまった切なくも美しい決別を描いた人間ドラマです。
人は誰しも、青春の中で「言葉にできなかった想い」や「手放さざるを得なかった大切な選択」を抱えて生きているのかもしれません。
作中で高山が見せた「身を引く」という選択は、一見すると切ない諦めのように映るかもしれません。
けれど、自分が悪者になってでも相手の未来と尊厳を守ろうとした、彼のどこまでも真っ直ぐで深い「愛の選択」でした。
そして、そのバトンを受け取った秋人もまた、己の熱量と男の誓いを胸に美月を支え抜き、美月も逃げずに自分の人生と向き合い続けました。
激しく傷つけ合った道標の先で、それぞれが温かな手を取り合い、40年という歳月を経て誇れる人生を歩んでいく姿を描くことで、この物語を完結させることができました。
高山も、美月も、そして秋人も。
それぞれが違う道を歩みながらも、ふと「あの頃の甘く切ないモンブランの味」を思い出し、互いの幸せをそっと祈り合えるような温かな余韻を感じていただけたなら幸いです。
たとえどのような過去や傷を抱えていても、人は再び歩み出し、新しい温もりを築いていくことができる――。
この作品が、読んでくださった皆様の心にほんの少しでも優しく寄り添う光となれば幸いです。
これまでこの物語を見守り、寄り添ってくださった皆様、そして物語の温かな舞台となってくれた喫茶店「樹」の仲間たちに、心からの感謝を込めて。
〜親愛なるH・Tへ愛を込めて〜




